(335)わらべ唄 青森風土記 その33 (336)わらべ唄 青森風土記 その34 (337)わらべ唄 青森風土記 その35 (338)わらべ唄 青森風土記 その36 (339)わらべ唄 青森風土記 その37 (340)わらべ唄 青森風土記 その38 (341)わらべ唄 青森風土記 その39 |
(335)わらべ唄 青森風土記 その33 | 2004年 9月17日(金) |
【第4集(昭和39年1月刊行)より】 ●さん さん じゃえ(庄屋) さん さん こん(狐) さん さん どん(かりうど) 秋冬の室内で男女とも遊んだ。 二人でおこなう。 キツネ・かりうど・庄屋の格好の所作をする。 キツネ・・・両手人差指をピンと立てて両耳の上に掲げキツネ耳の格好 かりうど・・左手を胸の前に突き出し、右手で引き金をひいて獣をねらい撃つ格好 庄屋・・・・両こぶしを座ったひざにのせて、威張ったような格好をする 準備がそれぞれ整ったところで、この遊びにとりかかる。 はじめに「さんさん」という前文句が入り、じゃえ(庄屋)、こん(キツネ)、どん(かりうど)と格好に対応した言葉を唱え、二人ですばやくその格好をとる。 二人は互いに見合う。 庄屋&かりうど・・・庄屋の勝ち かりうど&キツネ・・・かりうどの勝ち キツネ&庄屋・・・・・キツネの勝ち だんだん言い方を速めていくと、二人はおのおの、うろたえて間違えたり、遅れたり、お互いにアイコになったり、これ以外の別な格好を急にしたり、大変にぎやかな、また、こっけいな遊びになる。 ★人あて遊び★ ●今日は誰さん 呼びましょう ◇◇さんでも 呼びましょう 何の魚で 呼びましょう 合わせで 揃えで しょうふ 北海道の 海道の子 海道の娘は 廃しましょう お寺で みそすれば すれば よっとこさ 大正時代に弘前地方で流行したが、今はもうない。 歌詞の意味はわからない。 唄の終わったところで、中の目隠しをした子が(しゃがんで)後の子の名をあてる。 ●山越えで 沢越えで お山の お山の ちょんこ 居(え)したが 男女とも子ども数人でおこなう。 このわらべ唄をうたい、両方の組に分かれて、そのうちの一人が隠れていた人を「◇◇さん、◇◇さん」だと言って、向こう組の人の名を一人当てる遊びである。 当てられた人は他の組に取られて、その組の人になる。 組み分けは、その前にあらかじめおこなっておく。 また、目隠しをした一人が他の組の人の名を「この人ァ◇◇だァ」と言って当てることもある。 ●かりうどさん 鉄砲(てっぽ) かづえで どこ行(え)ぐの どん 子どもたちが、たくさん丸い輪をかいて、手をつなぎ、中に鬼の子を一人いれておく。 わらべ唄をうたいながら、外側の子どもたちがまわる。 「ドン」で止まり、後にいた者の名をあてる。 夕焼けが赤く空をそめている。 子どもたちが六人、七人と丸く輪を作って手をつなぎ、わらべ唄をうたいながら、丸くゆっくり歩く。 中に子どもがちょこんとちぢこまって、目を両手でおおっている。 「後に えだ者 だーれ」と唄い終わると名前をあてる。 名前をあてられたら鬼は交代。 しかし、こういったのんびりした唄も、今は聞かれなくなった。 (つづく) | |
(336)わらべ唄 青森風土記 その34 | 2004年 9月18日(土) |
【第4集(昭和39年1月刊行)より】 ★古謡「梅の折枝」について その1★ 斎藤 正 私は幼少時代、祖母や母からいつも「手まり唄」や「あやこつき唄」などの古謡やわらべ唄を聞かされて、それを子守唄として眠った。 そんな時代のことをふと思い出すと、懐かしい聞いて覚えていた古謡の中に「梅の折枝」の一片があった。 私が物心ついてからもこの古曲が私の家にも残されていて、年寄りによって唄い続けられているというのがわかった。 コッキリコの小母様(おばさま) どこで討たれた 吾妻(あずま)街道の茶屋の娘コね討たれた 討たれながらも 蜂に刺されて 顔(つら)は のーろと腫れ申した 小豆餅ぶっつけだら 全治(よぐ)なましょ 全治なましょ 私の家のはこんなふうなもので、節もうたい方も聞かせられていて覚えていた。 この古謡は、およそ元唄とは似て非なるものであろう。 相違なく長い時間の経過に、あるいは地方地方を伝播しながら、替歌や類歌につくりかえられ、我が遠隔の津軽地方に流れてきて落ち着くまでには、姿もこのように一変したのであろう。 主要部分は忘れ去られ、捨てられたり、省かれたりして、風刺しているようなおどけた意味を持ち、判読不能なほど落ちぶれた姿になって、ようやくその一部分を残し、古謡としてその余名をとどめていた。 しかし、私はこの古謡の一節にひそむ、かすかな余韻に、この古謡全節を貫く生命を解くカギが横たえられていると考えたのである。 なんとか、この完全なる原形を探し求めたく、かぎりなく心が躍ってしかたがなかった。 それは昭和元年にさかのぼる頃からのこと。努力を注ぎ込んでいった。 まず第一に研究をおしすすめるための道を考えた。 そこで「コッキリコ」を究明しようとかかった。 コッキリコは、コッキリ節などもあるので、まず、放下僧のことを調べていった。 そしてこの「梅の折枝」の元唄は、どこかの地方にいまだ完全な形で残っているとの予想のもとに、私の家の祖母や母の毎日口ずさんだ一節は、その最後の部分にあたるのではないかと思い、「コッキリコの小母様が誰か不明な者に討たれて、あえない最期を遂げ、放下僧と茶屋の娘が協力して、その母の仇を討った」という物語の一部ではないかと想像してみたのであった。 最後の蜂に刺されたとか、その他の個条は歌謡の終期にみる、落ちぶれた姿であろうと考えた。 こうして数年が過ぎていった。 (つづく) ※事務局注 斎藤氏の述べておられる放下僧については下記URLの情報が参考になります。 http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/03/03.htm | |
(337)わらべ唄 青森風土記 その35 | 2004年 9月19日(日) |
【第4集(昭和39年1月刊行)より】 ★古謡「梅の折枝」について その2★ 斎藤 正 昭和35〜36年頃であっただろうか。 私はちょっと調べものがあって、弘前市立図書館をたずねたことがある。 そして、故 斎藤吉彦氏の伝記を調べていたところ、大正時代に発刊された「けいろく雑記」という著書にめぐりあった。 なにも知らずにページをめくっていたところ、その中に、コキリコ(あやこ唄)という一篇が載っていることに気がついた。 あのとおしゃの 熊野とおしゃの 肩にかけたり帷子(かたびら) 肩掛すそに 梅の折枝 中は御殿の反橋(そりばし) そろりそり橋サ 鉋(かんな)をかけて コケラコの小母様 どこで討たれた 討たれながらも 今朝のぼた餅 まと 喰えてェ おややし婆さま 「梅の折枝」として全体を通しての意味はわからないが、このような一節を発見したのである。すぐ私の家に伝わる古謡と対照してみて、なお一歩、解決に近づいたかと、その採集をひそかに喜んだのであった。 そのころから、この問題に興味を持つ2〜3人の友人も加わり、さかんに、ああでもない、こうでもないと、歌詩に解釈を加えたり、批評したりとにぎやかになってきた。 第一の研究課題「コッキリコ(コキリコ)」については、コキリコ節(民謡)に今でも使われている、昔、放下僧(遊芸人)が曲芸をするために手で操っていた竹製の道具であることがわかってきた。 そこで、次なる問題は「とおしゃ」に移って向けられることになったのである。 「とおしゃ」というのは、「父さ」ということではないだろうか。 あるいは全国を修行してまわった「道者」の意味のことかしら。 いろいろと考えさせられた。 しかし、依然として全歌詞の採集がなされず、全文の意味がわからず、限られた歌詞の一節を知り得るに終わり、どんな物語の筋が、この全文に隠されているのか、どうしてもわからなかった。 その後、研究は第三段階に進み、それでは、みんなの採集の歌詞をできるだけ比較しながら、一つにまとめてみようということになった。 (つづく) | |
(338)わらべ唄 青森風土記 その36 | 2004年 9月20日(月) |
【第4集(昭和39年1月刊行)より】 ★古謡「梅の折枝」について その3★ 斎藤 正 第三段階に進んだ研究において、みんなの採集した歌詞を、できるだけ比較対照し、一つにまとめてみようということになった。それが以下に記すものである。 あのとおしゃの 熊野とおしゃの 肩にかけたり帷子 肩掛すそネ 梅の折枝 中は御殿の反橋 その反橋に 鉋をかけて 渡ってみたれば高砂 コッキリコの小母様 どこで討たれた 吾妻街道の茶屋の娘コね 討たれた 討たれながらも 蜂に刺されて 顔はのーろと 腫れ申した 小豆餅ぶっつけたら 全治なましょう これでも原形とはおそらく違って不完全で、全歌詞の一部分を述べているに過ぎないだろう。これは、やむをえないことであった。 これが私たち地方に住む採集家たちの労作の限度ではあるまいかとも思われたのであった。 しかし、完全形の、この古謡の採集をあきらめてはいなかった。 どこかに、この種の古謡の他の一部分を知っている老人がいるにちがいないと考え、採集を続け、なおも古書、研究雑誌、他県の研究者に依頼して、関係古謡を探し求めていたのであった。 その後、本田安次先生「日本古謡集」という御著書が刊行された。 ここに「梅の折枝」「コキリコ」「とおしゃ」など、関係古謡がないかと期待が持たれたのである。 その中に紀州自由郡楠木付近に、雨乞踊(熊野踊ともいう)という珍しい郷土芸能が残されていた。 その歌詞によると ここを通りし 熊野どうしゃの うえにめしたる 帷子は 片すそは 稲の出みだれ 中になかての かりかぶや 今年のしまいの 稲のおうさよ たわらは とこに おこぞさよ というのであったが、私たちが求めていたのとは、いささか相違の点があった。 しかし「とおしゃ」と私たちが呼んでいたのは「道者」のことであり、類似の一種がここに発見されることになったのである。 (つづく) | |
(339)わらべ唄 青森風土記 その37 | 2004年 9月21日(火) |
【第4集(昭和39年1月刊行)より】 ★古謡「梅の折枝」について その4★ 斎藤 正 歌詞の「とおしゃ」の推測がついたものの、ここまでくると研究は、沈滞ぎみになっていった。 そんなときのこと、故 柳田国男先生の「定本柳田国男集」が出版せられ、全国に民俗学の集大成が紹介せられることとなった。 私たちも、この機会に全集に親しむ時間に恵まれ、長い間かかって読んでいった。 すると、その御著書の中に「梅の折枝」という見出しがあり、ある古曲の一破片が稀にこの世に残されており、この古謡一片が問題解決のための一つの手段となっているということ。 今日では、全体の意味が失われているということ。 これを採集者たちの協同の力で解決したいということ。 この古曲を見つけ出すことも、日本国全体にとっては緊急にして、今日的な大労作を必要とすることであろうこと。 などが記されていたのである。 これは期せずして、時を同じくし、この天下の大問題をとらえ、北と南において考究の手を我々も差しのべておったと、ひどく私たちにも自信がわき、力強く思われた。 御著書には次のような歌詞が掲載されていた。 伊勢の道者か 熊野道者か 肩に掛けたる帷子(かたびら) 肩と裾とは 梅の折枝 中は五条の反橋(そりばし) 反橋はどこで打たれた あずま街道で打たれた あずま街道の 茶屋のむすめは 日本手ききと聞こえた 日本手ききと聞こえた あまり手ききで 御座りゃせねども 一つでは乳をのみそめ 二つでは乳首はなして 三つでは水を汲みそめ 四つではよい茶くみそめ 五つでは糸を取りそめ このような歌詞で終わっていた。 最後の一節は、一つ、二つ、三つ、四つというふうに、限りなく茶屋の娘の、えもいわれぬ手ききを具体的にならべて、ほめたたえ、謡い述べて尽きるところがない表現のところである。 こうした古謡や民謡の類歌は、今までにもなお、いくつも例を挙げることができる。 (つづく) | |
(340)わらべ唄 青森風土記 その38 | 2004年 9月22日(水) |
【第4集(昭和39年1月刊行)より】 ★古謡「梅の折枝」について その5★ 斎藤 正 「定本柳田国男集」の中にある古謡は参考になったが、柳田先生も記しておられたとおり、この古謡(古曲)の問題は、依然として未解決のままで残されているのであった。 そして今日もなお続けて採集の努力を蓄積していかなければならぬ緊急の問題であったのである。 柳田先生はこの「梅の折枝」にしても、かすかに日本の子どもらによって、その断片がかろうじて伝えられてきたものであるとし、日本の子どもらの「無心の手」によって保存せられてきた貴いものだと述べておられる。 私たちの歌う「蜂に刺されて」という部分は、地方的な落ちぶれた姿として、おどけた言葉として引き継がれてきたのだろうから、その部分の解明は置いておくとしても、その他の古曲の意味するところがほとんどわからない。 その原形を探し出すことの至難な現状は、柳田先生も訴えておられるところである。 もし、私にこの古曲の物語に想像を許していただけるならば、次のように考えるのである。 ●昔、吾妻街道の茶屋の前で、反橋(そりばし)という名前の者が討たれたという近世の仇討譚が、この古曲に秘められておるのではないか。 ●またこの物語には、茶屋の娘某という女性がいて、笠の下にかつぎを着た旅姿と考えられる。 ●また、この反橋というのは、お相撲さんではなかろうか。 ・・などなど、種々の問題を投げかけることができるのである。 (誰か、昔の力士と美女の仇討譚を知っている者があったならば知らせてほしい) こうして、とうとう、昭和38年を迎えることになったのである。 (つづく) | |
(341)わらべ唄 青森風土記 その39 | 2004年 9月23日(木) |
【第4集(昭和39年1月刊行)より】 ★古謡「梅の折枝」について その6(終)★ 斎藤 正 こうして、とうとう昭和38年を迎えたが、この問題は、それ以上の伸展を今日になっても示していなかった。 そんな時、在東京の藪田義雄先生からお知らせをいただいたのである。 それには「梅の折枝」(手まり唄)の類歌の一例として あっく通やれ ここ通りやれ 小田原名主の 中娘(なかむすめ) 色白で 桜いろで 江戸さき庄屋へ もらわれた 江戸さき庄屋は 伊達の庄屋で 絹、紬(つむぎ)七重ね八重ね かさねて 染めてくだんせ 紺屋(こうや)さん 紺屋なれば 染めて進上 模様(かた)は 何をつけましよ 片裾は梅の折枝 桜の折枝 なかは五条の反橋(そりばし) 反橋を渡るものとて 渡らぬものとて こっけらこんの紺包(こんづつみ「鼓?」) 誰に打たせて この包 吾妻街道の茶屋の娘に打たせたが 見よくないとて 滝田川原へ身を捨てた 身は沈む 髪は浮きる ざんぶ こんぶと 流れる 流れる 流れると知れたれば 七つ浪が打って来た という歌詞である。 これは福島地方からの採集である。 私には、この類歌によって、この「梅の折枝」の全貌が、かなり明白になったように思われた。 すなわち、庄屋の娘がお嫁入り(あるいは、もらわれて)して、嫁入り衣装を紺屋に染めさせ模様に片裾に「梅の折枝」、もう片裾に「桜の折枝」、中には「五条の反橋(太鼓橋)」を染めさせた。 意味不明なところもあるが、鼓(つつみ)を吾妻街道の茶屋の娘が打ちならしてみて、よくないというので叱られるなどし、とうとう結果は不幸に終わり、竜田川へ投身するという、あわれな身の上譚である。 しかし、もともとの全歌詞を貫く筋書きはこうなのか。 はたして「梅の折枝」の原形、その物語は、これによって代表される古謡であろうか。 ここにもなお、疑問が残らないわけではない。 これは明日の問題として残るような気がしてならない。 私たちはなお、今後の採集によって、この「梅の折枝」の問題は解決されるであろうと思っている。 採集者の執念というものは、このように果てしなく燃え続け、新しい採集、発見を明日にと望んで待っているのである。 古曲「梅の折枝」は、これで結末がついたとは思われない・・・。 (昭和38年 記) ・・・・・・・・・・・・・ (つづく) |