(342)わらべ唄 青森風土記 その40 |
2004年 9月24日(金) |
【第4集(昭和39年1月刊行)より】
★ 編集後記 その1
★
工藤
健一
「津軽のわらべ唄」第1集の企画は昭和33年8月から始められました。
それから6年の歳月が過ぎました。 本当に早いものです。 時代の思潮の流れが、このようにしているのでしょうか。
この間、郷土史に関連したものが次々に出版され、津軽の方言、民俗、民芸に関した研究物も次々と発表されました。私たちのささやかな仕事である「津軽のわらべ唄」も、想像外の反響があり、第4集を早く発刊するように、との声を何回か聞きました。
1年間にようやく1冊より発刊できない私たち、というより、私の微力をおわびしなければなりません。
この1年間に私たち二人の生活に、また大きい変化がありました。
斎藤正先生は健康が思わしくなく、昭和38年4月、弘前市立時敏小学校を最後にして長年の教員生活から離れました。 私も教育研究所から社会教育課に転属されました。
斎藤先生は青年教師時代は和徳小学校で野球を指導し、有名な対朝陽戦で天下にその名を響かせました。斎藤先生の名は、弘前市少年野球史に永遠に記されることでしょう。 その後、斎藤先生は第二大成小学校教頭、堀越小学校長と学校経営に専念し、その間、津軽の昔話コの研究、民俗学の研究を深め、その著書は10冊を過ぎていると思います。教職を去った今でも、新聞紙上に健筆をふるっております。
斎藤正先生の最近は、「津軽のわらべ唄」の発刊に、全生命を捧げていることを私は強く感じとっております。
にもかかわらず、協力者である私が、公務の多忙を理由にして、先生に歩調を揃え得ないことを本当にすまなく思っております。社会教育課は、私の新しい仕事であり、日曜、土曜のない仕事でした。駄馬に鞭うたれながら、ようやく第4集が発刊されました。
これは、いつもながら斎藤先生のご熱意と、木村弦三先生、松木明先生のあたたかい御指導によるものです。
第3集を編集した時に、実は「第1分類・遊びの唄」を計画していたのですが、資料不足と採集した数も少なく、断念して先に「第4分類・自然現象、
第7分類・悪口唄、
第8分類・ことば遊び」をまとめたのです。
したがって、この「第1分類・遊びの唄」は、整理するのに2年間かかったわけです。
わらべ唄の中心は「第1分類・遊びの唄」です。
そのためか、採詞、採譜の数も多く、次のようになりました。
分類番号 内容 採詞数 採譜数
10 遊び一般 27 14
11 あやこ唄 46 16
12 手まり唄 37 16
13 きり遊びの唄 3 1
14 手指の唄 13 6
15 羽根つきの唄 5 2
17 拳遊びの唄 9 2
18 人当て遊びの唄 7 4
計 147 61
(つづく)
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(343)わらべ唄 青森風土記 その41
| 2004年 9月25日(土) |
【第4集(昭和39年1月刊行)より】
★ 編集後記 その2
★
工藤
健一
採詞にあたっては、以下の参考文献を中心に整理し、私の母 工藤つねから、文献より記憶を呼び起こし32編を新たに加えました。 母のことを、ここに書くのはおかしいことですが、記憶力が非常によく、生活暦も、北郡金木、菖蒲川、南郡大鰐、弘前市と経ていること、祖母もまた歌好きであったことから、非常に助かっております。
★参考文献★
◆津軽口碑集 内田邦彦著 郷土研究社 昭4・12
◆日本支那童謡集 松本竹一編 近代社 昭5・5
◆東北の童謡 仙台中央放送局編 日本放送出版協会 昭12・5
◆津軽むがしこ集 斎藤正著 津軽むがしこ集刊行会 昭26・10
◆東北のわらべ唄 武田忠一郎編 日本放送出版協会 昭29・3
◆続 津軽むがしこ集 斎藤正著 津軽むがしこ集刊行会 昭30・7
◆津軽のわらべ唄 工藤健一編 自筆稿本 昭30・10
◆東北民謡集(青森県) 武田忠一郎編 日本放送出版協会 昭31・6
◆津軽の民話 斎藤正著 未来社 1958・5
◆津軽の旋律 木村繁編 音楽之友社 昭33・10
◆津軽のわらべ唄 第1集 斎藤正・工藤健一編 津軽のわらべ唄刊行会 昭和35・3
◆西北のむがしこ 佐々木達司著 青森民友新聞社 1960・8
◆津軽のわらべ唄 第2集 斎藤正・工藤健一編 津軽のわらべ唄刊行会 昭和36・3
◆わらべ唄 110曲集 藪田義雄・安部盛 共編 全音楽譜出版社
◆続々 津軽のむがしこ集 斎藤正著 弘前教職員組合文化部 昭37年・2
◆弘前語彙補遺(津軽語彙9編) 松木明著 昭37・6
◆わらべ唄考 藪田義雄著 カワイ楽譜 昭37・7
◆わらべ唄 町田嘉章・浅野健二 編 岩波書店 昭和37・1
◆津軽のわらべ唄 第3集 斎藤正・工藤健一編 津軽のわらべ唄刊行会 昭和38・1
以上の文献のほかに、まだ、津軽のわらべ唄に関連した参考文献のあることは知っているのですが、国会図書館にあるとか、また探す暇を見出せずに、参考にできないものがあります。しかし、代表的なものは以上の参考文献で、だいたい出ているのではないかと思います。
採譜については今回から、採譜者・唄った人を明確に出しました。
採譜にあたっては、調号をできるだけ少なくするようにしました。 また、できるだけ単純化するようにしました。
いつものことですが、12音階にない音がたびたび出てくるので困りました。
次に採譜者の氏名を御紹介しますが、坪田繁樹先生から、奈良常吉氏の録音テープをお借りでき、4編追加できたことを特記します。
●斎藤 正氏 明治41年生まれ 弘前市田茂木町 ●奈良 常吉氏 明治20年生まれ 弘前市桔梗野町 ●斎藤 秀代氏 明治36年生まれ 弘前市田茂木町 ●工藤 つね氏 明治26年生まれ 弘前市富田
斎藤氏の話からも、母の話から考えても、時代的には徳川時代中期〜後期のものが、ずいぶん入っていることがわかります。
お城のお侍衆は おかごに おもてで みじゅく そらせる みずふき 坊さん しーふーみー よえずつ なんなつ こごのつ とお まずまず 一貫 貸し申した
意味のわからぬ言葉がずいぶん出てくるのですが、なんとなく奥ゆかしい感じがします。
200年前の城下町弘前、着物・ちご髪の子供が、長袂をおさえ、手まりをしている情景が、目に浮かんできます・・。
(つづく)
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(344)わらべ唄 青森風土記 その42
| 2004年 9月26日(日) |
【第4集(昭和39年1月刊行)より】
★ 編集後記 その3
★
工藤
健一
今回の編集にあたっては次のことに留意しました。
@採詞した代表的なものはできるだけ挙げました。
A採詞した1稿1稿を分類番号によって整理しました。 (千位・百位は遊びの分類、十位・一位はその中の順位) なお、遊びの分類番号は前にも書きましたが、次によります。
10 遊び一般 11 あやこ唄 12 手まり唄 13 きり遊びの唄
14 手指の唄 15 羽根つきの唄 17 拳遊びの唄
18 人当て遊びの唄
これでわかったことなのですが、私の調べたものによると、「縄跳び遊びの唄」が発見できなかったのです。 ということは、縄跳びは、古い津軽にはなかったのでしょうか。明治以降に他県から入ってきたものなのでしょうか。
B歌詞はできるだけ漢字にし、それにカナをふるようにしました。
これは20年前の採譜したものでも、私たちの理解に苦しむ言葉が多いことから、意味のわかっているものは、できるだけ漢字にしました。 その漢字も解釈のしかたで間違いがあるかもしれませんが、それでもあえて漢字にしました。 また、漢字だけでは、どのように発音したか不明なので、できるだけカナをふりました。明らかに方言のために濁音になっているものは、共通語としてのカナにして濁音にしました。(例
家・「うぢ」、五つ・「えづつ」など)
C促音、拗音は片仮名にしました。
これは今までの文献を見ると活字の間違いから、同じ大きさの字となったりして判別のつかないことから、このようにしました。
D採譜と採詞が一致できるように、採譜曲にも分類番号を付し、また、採詞編にも、採譜したものは太字として、関連して見られるようにしました。
E速度記号もできるだけ、つけるようにしました。
F採詞、採譜して困ることは、それがどんな内容の遊びであるか、わからないことです。 斎藤先生に遊びの種類と内容をまとめるように、前からお願いしておったのですが、幸い「童戯の古典」としておまとめになり、東奥日報紙上に連載になり、大好評のうちに終わりました。今回の編集ではできるだけ、これを利用しました。遊び方が不明確になっている今日でありますので、今後、非常に参考になるかと思います。
G唄われた地方、方言の解説も、できるだけ努力しましたが、方言の解説については不充分です。それでもいくらかできたのは、松木明先生の著書によるものです。
今回も松木明先生、木村弦三先生、斎藤正先生から玉稿をいただきました。お三人の先生は年末の御繁忙中のところをお寄せくださり、本当にありがとうございます。
心からお礼申し上げます。
第4集もこうして陽の目をみることになりました。 私たちの計画として、古い津軽のわらべ唄は、次の第5集をもって完結する予定です。(事務局注 その後、第6集まで刊行が続けられる。)
第5集は
@第9分類「俗神信仰と呪符呪厭に関した唄」の採詞、採譜したもの
A第2分類(動物)、第3分類(植物)、第5分類(郷土行事)、第6分類(子供をあやす唄)の採詞編
B第1分類〜第8分類の、その後の採集したものの追補
C津軽に残っている、物売りのふれ声、子供のあいさつ、わらべ唄以外の発声の伴ったことば。
上記でまとめるつもりです。
その他、第6集で「現代のわらべ唄編」、第7集で「南部のわらべ唄」、ほかに、木村弦三先生にお願いして「津軽の民謡」「津軽の神楽」「獅子舞」「お山参詣」「ねぶた祭り」なども計画を進めております。私の仕事は、もう10年位かかるようです。
・・・・・・ 昭和38年師走、9日 降りしきる雪を見ながら 弘前市庁舎四階にて
【津軽のわらべ唄 第4集】
昭和39年1月31日発行
編集 津軽のわらべ唄刊行会
・斎藤 正
・弘前市教育委員会 社会教育課 工藤健一
印刷 八木沢 孔房
・・・・・・・・・
(つづく)
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(345)わらべ唄 青森風土記 その43
| 2004年 9月27日(月) |
【第5集(昭和40年8月刊行)より】
★ 綱引き ★
●懸(か)けろじゃ 懸けろじゃ
※西津軽郡鯵ヶ沢町
融雪後、間もなく4月上旬に降り積もった雪も消え、道も乾くころになれば、子どもたちは毎夜、外に集まり「懸けろじゃ 懸けろじゃ」と叫び歩く。
こうして子どもたちが叫び歩く夜が数日続けば、町内の大人が、この声に誘われて山に行き、藤を切り取ってくる。そしてこれをやわらかにたたき、濱の町と岡の町とが、各々、引き綱を作るのである。 綱づくりが終われば、両方の町から代表者を出し、負け損とか、引き損とか、綱を全部とるとか大体の規則を決める。 こうして老若男女を問わず、町全部の人が出て、ヨイサ、ヨイサと、かけ声にぎやかに綱を引き合うのである。
岡が勝てば米が安くなり、濱が勝てば米が高くなると伝えられている。
●つーなこ かーけべぁ よいかげ 無(ね)ぇなあ 爺(お)こでも 婆(ばあ)でも みな 出はれ
※西津軽郡金木地方の綱引きの唄
・・・・・・・・・ 以下、事務局注
金木の大綱引きは、かつて県下でも有名な年中行事の一つであった。 記録によれば1848年、天保の大飢饉の痛手から立ち直り、荒廃した水田の再開発に着手した農民の士気を鼓舞することと、慰安とを兼ね、大綱を作り上げ、金木村と下金木村の村民の大半を集めて綱引きをさせたのが、そもそもの始まりと伝えられている。
この行事は後の世にも受け継がれ、昭和6〜7年ごろまでは重要な年中行事として盛大におこなわれてきた。 しかし、満州事変の勃発にともない、中止命令があったこと、芦野公園の桜祭りが重なることなどにより、自然廃止の状態となった。
長い冬が終わって、雪が消えかかると、各町内の子どもたちが家々から縄を持ち寄って綱を作り、夕方、それをみんなでかついで「ツーナコ、カーケベァ、ヨーイ、カケアネーナ、ジコデモ、ババデモ ミナデハレ」と声高らかに町内を数回ねり歩く。いわゆる町内総動員のふれ歩きである。
子どもたちは全員、綱の引き手になり、隣町の子どもたちと綱引きを始める。それに大人も加わるようになり、だんだん綱が大きくなって、最後には、上金木(神明町・朝日町・山道町・寺町・浦町・新富町地域)と、下金木(小川町・田町・栄町・川端町・米町・三軒町・沢部地域)の大綱引きとなるのである。
以上 金木町教育委員会提供資料より
綱引きは,後漢の明帝の時代に中国で行われ、その後、日本にも伝来し,正月の飾り物を焼く左義長の大綱引きが
日本における綱引きの起源であるといわれています。
関西や九州では盆や仲秋の名月の夜の行事であり、近畿以東では正月の行事となっています。 九州では葛曳(かつらひき)
茅曳(かやひき)と呼び、綱に葛・茅・藤のつるが使われるそうです。これが東日本では藁縄(わらなわ)となります。
沖縄県などでは、今も盛んにおこなわれているそうですが、青森県では、ほとんど衰微し、地域総出の行事であったこと自体忘れられているようです。
(つづく)
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(346)わらべ唄 青森風土記 その44
| 2004年 9月28日(火) |
【第5集(昭和40年8月刊行)より】
★ ねぷた(ねぶた)★
●ねぷたコ 見でけへ ねぷたコ 見でけへ
津軽地方の行事から、ねぷたとお山参詣を忘れることができない。 子どもの世界の遊びにも、この催しが反映していく。 ねぷたどきになると、大人ねぷたを真似し、道路を子供用の一人持ち扇燈籠、金魚ねぷたが行列を作る。紫色の塗りで胴の小さな皮太鼓、おもちゃの笛が囃子を奏でてゆく。 夜がふけ、大きなねぷたが、ドンコ・ドンコと大きな鳴り音をたてて通り過ぎた後のむなしい暗がりに、ヒョロ・ヒョロ・ヒョロと子どもねぷたの遊びがしばらく続き、「ねぷたコ 見でけへ ねぷたコ 見でけへ」と、囃声が、かまびしく各家々に響いたものであった。そして、あたりは次第に、森閑とした闇夜に変わっていったのであった。
●ねぶたコ 流(なんが)れろ 豆の葉さ 止まれ
ねぷたは、旧7月1日より7日まで、津軽地方におこなわれる七夕行事で、枝をつくして作った高さ数丈の紙人形や燈籠を川や海に流す行事である。 秋田の「ねぶり流し」や、花輪の「七夕」、その他各地の七夕祭の型と同一であり、祇園の神の古い信仰が、この祭の中心の意味をなすものだといわれている。 ねぷた燈籠は「流される祓い」の形式であり、穢れ・禍罪・禍いを負わせて流す「祓い人形」である。 「ねぷた(ねぶた)」という言葉は、秋田の「ネブリ」と同様、「ネムリ」を流すというところに由来するもので、古代の人たちは、真闇の夜を最も神秘なものと考え、同時に黄泉の国を連想するところから、眠ることはすなわち「死」であり、不吉なこの禍いや穢れを祓うことが大きな目的となっていたようだ。
●ねぷた 流(なんが)れろ 豆の葉 とっちぱれ はぁ やっさ やっさ やっさよ
ねぶたの起源については、その昔、坂上田村麻呂が津軽の蝦夷大丈丸の反撃にしばしば苦戦におちいったので、あるとき、一策を案じ、大燈籠を飾り立て、囃子おもしろく練って大丈丸を釣り出し、これを討ちとった故事に倣ったものという。 しかし、実は、ずっと降って豊臣秀吉の時代、留守役をして京都にあった津軽為信が祇園の大燈籠に影響を受け、「人形ねぷた」を創作したのがはじまりというのが事実のようである。
●どん どこ どこ どん こど どこ どこ どこ どーんこど やーれ やれ やーれよー
どん どこ どこ どん こど どこ どこ どこ どん こど やぁ やどー
子どもたちは、ねぷたの時以外にも、こんな調子で唄いながら、棒やホウキを立て、ねぷたの真似をして遊んだものだ。
●とへろれこ れこれ とへろれこ れこれ とへろれこ れこれ とへろれこ れこれ とへろれこ れこれ やれ やれ やれや
これは笛の真似が中心となっている。
・・・・・・・・・
★事務局注★
ねぷたに影響を及ぼしたとみられる祇園の信仰はバックナンバー2月24日「伝統芸能うんちく その2」に、ねぶたの起源については7月23日〜25日にかけ、関連記事がございます。
未見の方は、そちらも、どうぞご参照下さい。
(つづく)
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(347)わらべ唄 青森風土記 その45
| 2004年 9月29日(水) |
【第5集(昭和40年8月刊行)より】
★ その他の祭りから ★
●人形出せ 人形出せ
※南津軽郡尾上町金屋地方
「ボの神」、別名「虫おくり」とも称し、若者達が春秋の「さなぶり」を利用しておこなう悪魔払いの行事である。 春は野菜などの害虫払い、秋は五穀を荒らす虫の退散祈願である。 さなぶりの前日に、男女一対の人形と龍をワラで作り、夕方の6時頃から太鼓をたたき「人形出せ、人形出せ」と叫びながら、村の端から端まで練り歩く。 そして、御神酒も一軒一軒に配ると同時に、米(酒代)を貰い、気勢と人形を庚申様に納め、龍もまた納めた。
若者達は毎戸から集めた酒代で、若者頭の家で酒盛りを催した。 ワラで作った男女の龍の人形は非常に巧みであった。人形は男女の性別をはっきり出すことに苦心が払われた。 金屋地方では明治37〜38年頃、自然に廃れてしまった。
●おしゃらいの 伝兵(でんべえ)コさま 腹コ 病んだ 病んだけぁ 病んだけぁ 臍(へちょ)コ 抜げだ それぁ まだ 困るじゃ 困るじゃ 困るじゃ 早ぐ 医者(えしゃ)さま 呼ばてきへじゃよ
弘前地方で一番にぎやかなお祭りは八幡宮のものだ。 このときは各町会から山車も出された。 このときの囃子(笛・太鼓)は、各町会独自のものであったが、それも消滅してしまった。 上記の歌詞につけられる旋律は代表的なもので、祇園囃子ともいえ、京都と弘前の交流の名残りを感じさせるものである。 おそらく、お祭りの囃子に使われた旋律を、子どもたちが替歌で真似たものであろう。歌詞はこれ以外にもある。
●6月13日 大円寺(だえじ)の宵宮(よみや)で 石燈籠(いしどろ)、金燈籠(かなどろ) まんどろで あじらで 花火コ じゅ こじらで 花火コ じゅ
新寺町に国宝五重塔がある。この境内には、以前、八坂神社と大円寺が建っていた。 その後、大円寺は明治初期に大鰐に移り、かわって最勝院が同居するようになり現在に至っている。しかし弘前の人々は、今でも大円寺の名前を呼んでいる。 旧暦6月30日の宵宮は非常なにぎわいであるが、子どもたちは即興的に上のように唄う。 まんどろは「万燈籠」の意と解する説もあるが不明である。
●にわかだ にわかだ だえじの よみや いしどろ かなどろ まんどろで わきこで 花火コ ちゅう ちゅう
先の唄と同内容である。 弘前地方には神社やお寺が多いので、初夏のころから、そろそろ秋風が立つころまで、次々に夜宮がおこなわれて、市民を楽しませてくれる。一般に夜宮というが、神社などのは、例大祭の前夜祭なのである。これらの夜宮の中でも、最も市民に親しまれているのは大円寺の夜宮であった。 この日には、ほとんど全市民が出かけるので大変にぎやかだ。
※にわか・・・「にぎやか」の意
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☆事務局注☆ 「虫送り」については、バックナンバー8月3日〜4日に関連情報がございます。未見の方は、どうぞご参照下さい。
(つづく)
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(348)わらべ唄 青森風土記 その46
| 2004年 9月30日(木) |
【第5集(昭和40年8月刊行)より】
★お山参詣★
●さえーぎ さえぎ どっこぇ さえぎ お山さ はじだえ こんごう どうさ いーじに なーのはい なーむ きんーみょう ちょうらえ えー山 かげだじゃ あー ばだら ばだら ばだらよ 朔日山(ついたちやま) かげだじゃ あー ばだら ばだら ばだらよ
元国幣小社岩木山神社は、光仁天皇の創始(1440年)で、宇都志国命・多都比毘売命・宇賀能売女命の三柱の神々を祭祀、その後、坂上田村麿が、父 刈田麿命を合祀、岩木山麓の十腰内村に下居宮を建て、岩木山頂を奥の院と呼んできた。降って、寛治元年(1751年)、この下居宮を今の岩木山百沢に遷宮。 津軽の祖大浦為信以降、代々の藩主の信仰厚く、神域を拡張し、社殿も善美をつくして奥日光とまで呼ばれるようになっていった。
さて、この地方では7月28日から8月18日までを登山の季節としており、山頂から「御来光」を拝することを理想とし、かつて男子という男子は、必ず登山することになっていた。
この頃になると、村々では、参詣徒が鎮守の社に集って7日間の精進潔斎をし、「山かけ」に用いる幣衣を整える。 当日、参加者は、身軽なジュバンにワラジ、脚絆の足ごしらえもりりしく、腰のまわりにはジャンバラをめぐらし、肩から胸にかけて小さな御幣を結びつけたタスキをななめにかける。こうして、後に続く囃子方の笛太鼓・ジャガラギ(鉦)に合わせて唱える「サイギ サイギ」の唄の響きは、秋空高くこだまし、群がり光る赤とんぼをおびやかす。
さて、この唄であるが、「ボルガの船唄」の型とそっくりだという見方をする人もあり、また、鎌倉時代の平家琵琶の続物という節の語り方に発するという説もある。
●ばったら ばったら ばったらよ いい山かけだ 朔日山(ついたちやま)かげだ ばったら ばったら ばったらよ いい山かけだけぁ 初孫授じかた 手も足も大きくて こりぁ 本当の相撲どりだ ばったら ばったら ばったらよ
下山囃子の唄は、登りの整然とした行列にくらべて、降り山には列も乱れ、酒に酔った参詣人たちは、紙でこしらえた黒烏帽子を頭にいただき、キツネやヒョットコ面をかぶり、腰には松の小枝を差しはさんで、腰の低い、はうような格好の踊りを面白く踊る。この囃子は「大黒舞」や「鳥刺舞」の系統である。
「朔日(ついたち)山かげだ」というのは、旧暦8月1日の登頂が、山開き中、最も重要な日となっているために、このように唄った。
●神様のおかげで ええ 山かげだ ばったら ばったら
8月朔日(ついたち)、首尾よく目的を達して下山するや、村中あげて、二里も三里も迎えに出て、凱旋将兵を迎えるような態度で「おめでとう おめでとう」を浴びせた。
村に入ると、烏帽子、面の扮装で、このように囃して踊りつつ、まずは産土神へ参拝し、踊りつつ村を一巡して解散した。
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★事務局注★
お山参詣については、バックナンバー8月7日〜8日に関連情報がございます。未見の方はどうぞご参照下さい。
(つづく)
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