(349)わらべ唄 青森風土記 その47 |
2004年10月 1日(金) |
【第5集(昭和40年8月刊行)より】
★カパ カパ★
●かぱ かぱ かぱ かぱ
※南津軽郡浪岡地方
若者達はワラで作った長さ1尺位の福俵を戸口から投げ込んで「カパカパ カパカパ」と唱える。福俵の舞込んだ家では餅を与え、あるいは酒を飲ませる。 その由来については、永禄の頃、浪岡地域内に内乱があって、浪岡御所の家運はおおいに衰えた。 そこで、家士の禄も充分にわたらず、加えて凶作があって年貢米も納まらず、その日の生活にも困る武士達は正月になっても餅がつけず、子供達にせがまれるまま覆面して夜分、民家に立ち、刀で戸を「カタコト」と叩き、紙製の人形を出して、ひそかに餅を請うたのが「カパカパ」の起源であるといわれる。しかし、これは民俗上の行事で史実の根拠はない。 もともとこれは、津軽一般の風習であったが、今は廃れてしまった。
●あぢの方がら かぱ かぱ 来したじゃ
※南津軽郡尾上町金屋
カパカパの起源はわからない。 赤い紙の着物(女)と青い紙の着物(男)を着せたカパカパ人形を作り、女の子供達が歩きまわった。 これは先祖の爺さまと婆さまであり、この行事の意味は先祖供養でもあり、また、感謝のしるしでもあったといわれる。 昭和14〜5年頃まで、旧正月15日(小正月)の午後、3歳〜小学校6年生まで、人形と袋、すなわち「カパカパ」「福差し」とを持って歩く。女の子供は「カパカパ」、男の子供は「福差し」を持って戸口に入って叫び、餅や菓子を貰い歩いた。昭和16年頃、戦争も激しく、物資も不足してきて、学校より禁止され、廃止された。
●かぱ かぱ 見でけれ
※南津軽郡黒石地方
旧正月15日、子供達が色紙で男女二つ作ったカパカパ人形を持って各家々を上の文句を唱えながらまわった。この行事は、田畑の虫除けと豊作を祈るためだともいわれている。各家では餅を1〜2個くれる。 一方、若者は福俵や宝槌を作り、若い女性は大根や人参でこしらえた高砂を作りまわった。
●あぢの方がら 福差(ふぐさ)し 来したじゃ
※南津軽郡尾上町金屋
カパカパから変化したものだといわれている。 旧正月15日(小正月)、男の子供(3歳〜小学校6年)が、このように唱えて戸口に入る。すると、餅・菓子・お金をくれる。やはり、昭和16年ごろ、学校より禁止され廃止となった。
●臼 鍋 へへだじゃ
※南津軽郡尾上町金屋
旧正月15日(小正月)、子供達が「カパカパ」や「福差し」にくると、餅・菓子・お金をくれたが、物品がなくなると、大人がこのように唱える。
いわば「もう何もないよ」の意味である。
・・・・・・・・・・
(事務局注)
昔、旧暦1月15日の小正月の夜、子どもたちはカパカパ人形を作り、「あじ(明け)の方がら、カパカパねきした」と、大声を張り上げ、各家々をまわったそうです。 どこの家も「よぐきた、よぐきた」と言って、餅やカント豆、ミカンやダラコ(小銭)をくれたそうで、子ども時代、白一面の雪道を一列になりながら、カパカパ人形を持ち「カパカパに来した」と、声をかぎりに叫び歩いた思い出が忘れられないという人も少なくないようです。 その「カパカパ」の名の由来は、折敷の底を木の棒で叩いたからだ、もとは手に何か鳴るものをもっていたからだ、など、上に記した説以外にも、諸説あるようですが、よくわかっていません。 ちなみに下北地方では「カパカパ」を「カセドリ」と呼んでいたそうです。
カパカパに使われる人形は、割り箸を十字に組ませて、ダイコンやニンジンなどで頭をつけて、紙の衣服を着せたものだったそうで、青森県内各地域に、それぞれの特色があったといわれています。 しかし、物もらいの風習だとして、禁止するよう指導する学校も大正時代の頃から出てくるようになり、カパカパの行事は衰微・消滅してしまいました。
ところが、事務局で調査したところ、田舎館村のある子供会で復活させているという情報をキャッチ。今年のはじめより交流が続いています。
カパカパについては、物もらいの卑しい風習であるとして、学校から指導が入り、禁止になったという経緯がありますが、当協会で調査を進めましたところ、どうやら、旧正月に訪れる「神」の異形としての思想が根底にあるようで、卑しいどころか、たいへん神聖な行事であって、類似のものが全国に散っているということもわかっています。
カパカパは旧正月におこなわれる行事ですので、来年、田舎館村の子供会の実施の状況も含め、まとめてお伝えしたいと準備をしておりますので、どうぞご期待ください。
(つづく)
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(350)わらべ唄 青森風土記 その48
| 2004年10月 2日(土) |
【第5集(昭和40年8月刊行)より】
★その他 お正月の行事★
●舞え込んだ 舞え込んだ 西の方がら 福俵(ふくだわら)が舞え込んだ 十二万八千俵 どっさり どっさり 舞え込んだ あぢらの方の すみがらも こぢらの方の すみがらも お正月の福俵 どっさり どっさり 舞え込んだ 舞え込んだ 舞え込んだ
正月松の内、福俵を人の家に投げ込む唄である。 鈴のついた福俵を正月15日各戸に投げ込み、餅・菓子・みかんなどを貰いまわる。
旧正月の元旦に若者達は福俵を作り、娘達は大根や人参でこしらえた高砂をもって「福の神が舞え込んだ」と言って各戸を歩く。カパカパ行事(昨日記事参照)の変形であろうか。 各家では餅を1、2個くれたが、若者達はそれを集め、食べて楽しんだものである。 福俵はワラ製で1尺位の大きさであった。
●春の初めの 断刀人(たちとう) 参(ま)えった 春の初めの そめどこ 参えった
※東津軽郡小湊地方
旧正月14日、少年少女たち5〜6名が一団となり、男の子どもたちは「春の初めの 断刀人 参えった」、女の子どもたちは「春の初めの そめどこ 参えった」と言って戸ごとにまわり歩く。 農家では縁起がよいと言って、子どもたちに銭や餅などをくれる慣わしとなっている。
「断刀人」とは春、水田を耕作する前に、田のあぜ整理のため、ナタに長柄をつけたようなもので、あぜを打ち切ってまわる人のことをいう。これを「断刀人廻し」ともいう。
「ソメドコ」とは、この地方で杜若(カキツバタ)のこと。 田んぼの外辺にやさしい影を映じて咲くソメドコは、娘の代名詞となり、転じて田植えする娘の意味になった。 田植え女をソメドコ何人という。
●とーたよ あんぶら カラスね 餅 はんぶ ほらぁ
正月11日朝、童たちが餅をカラスに投げ与えるときの呼声である。
●ナマコどのの お通りだ ナマコどのの お通りだ もぐらもち ひっこめ ひっこめ
津軽地方、旧正月15日の朝、槌棒などを縄で結び、屋敷内を引きまわして子供たちが唱える。 モグラや蛇を追い払う行事である。
津軽地方では北郡金木地方などに、近年まで残されていたが、消滅してしまった。
(つづく)
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(351)わらべ唄 青森風土記 その49
| 2004年10月 3日(日) |
【第5集(昭和40年8月刊行)より】
★その他 懐かしい年中行事から★
●福(ふぐ)は内(うぢ) 鬼は外(そど) 天に花咲げ 地に実はなれ
節分にこのように唱え、家の中に豆をまく。 また、昔は、豆を焼いて各月の晴雨を占う習慣があった。
このような占いの習俗も、今は、もうない。
●今夜の しょぶ打(う)じぁ とんがも 無(ね)え
旧暦5月5日、端午の節句の唄。
男の節句としてコイノボリをあげてお祝いをする。 家の中には、五月人形や、しょうき、よろい、かぶと、金太郎、仁田の四郎などの人形が飾られる。
野原からはショウブ、ヨモギが摘まれ、それが束ねられた。昔はワカメで帯のように結わえつけ、イワシの頭を一つ添え、屋根にあげたり、軒にさしたりしたものである。
天保の頃まで、津軽地方では、節句の晩に、「ショウブたたき」とも「ショウブ打ち」ともいわれる子供の遊びが残されていた。
これは邪気・魔よけの行事であり、昭和30年代頃までは、金木地方で見られたという。
子供らが幾人も晩にそろって、上記のように唄い、ショウブ5〜6本とヨモギを束ねたもので、道路をたたき、遊んだ。
●おじなぁ おばなぁ あしもとの明(あが)りに 茶コ 飲むに ござぁれ ござぁれ
※北津軽郡沿川地方、五所川原地方、水元地方
盆に、いろいろごちそうをこしらえて、午後、墓地にお参りする。 そして、毎晩、上記のように唱えつつ、迎火を門口でたく。 迎火には樺の皮を使用する。
このような唱えごとを記憶する人も、今では大変に少なくなった。
(つづく)
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(352)わらべ唄 青森風土記 その50
| 2004年10月 4日(月) |
【第5集(昭和40年8月刊行)より】
★ 懐かしい遊びの唄より
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●十歩 八歩 早馬(はやま)のはやしこ 長十(ちょうじ)はけんご もちゃくちゃの 花コで 咲えだが 咲がねが まだ 秋(あぎ) 来ね おとらえこ とらえこ さむらい きろろ
「さむらい きろろ」を、「あぶらえ きろろ」として唄うところもある。
これは昔、津軽に御用商人がいた。彼は勘定奉行の腹心となり、年貢をひどく取り立て、その威をふるった。 人々はそのひどい仕打ちに憤り、彼を揶揄する唄がいつしか生まれて流行したとのこと。
子供と大人が向かい、または子供を後向きにしたりし、大人の足の甲に子供の両足を乗せ、両手を握ってやる。一歩一歩前進したり、後退したりして歩かせる。 幼児の喜ぶこと限りなし。
●ねねつむ ねねつむ すて てん てん まきぎり まきぎり あぺろ
※北津軽郡長橋村福山
4〜5歳の子女が朝起きて洗面しないときに「ねねつむをせよ」と言われる。 このとき、洗面のかわりに、上のように言って、次のような動作をするのである。
まず、一方の手背を他手の人差指で軽く数回たたいて「ねねつむ」。 次に一方の手背を人差指で3回たたいて「すて てん てん」。 さらに両手を胸に近づけて、2回ほど横に円柱形を描きつつ「まきぎり まきぎり」と唱える。 最後に、両手のひらで顔をなで、洗面の真似をして「あぺろ」と言う。
「あぺろ」は「浴びろ」の意か?
●手うじ 手うじ まぎぎり まぎぎり すてで すてで すてで すてで めめつぶ めめつぶ あっぺろ ばあ
祖母が孫をこうしてあやしながら、最後に両手で顔を隠し、「バア」と言って両手を離し、子どもを笑わせる。
●鰈(かれ)コ 焼いで とっくら反(け)えして 焼いで 醤油つけで ぺちゃ ぺちゃ
※東津軽郡野内
子どもたちが 両手を炉にかざしてあたりながらこのように唄う。 まず、鰈を焼くと言って、左右の手をならべ、火にかざす。 さらに醤油につけて、左の手を右の人差指で数回なでる。 「ぺちゃぺちゃ」の部分で、口を左手につけ、右の人差指で鰈を口に送るまねをする。
五所川原では「うが うが」と言って、口を手の平にあてる。 また後半「醤油コつけて、あご あご」とする地もある。
●鰈(かれ)コ 焼えで とっくら反(げ)えして また 焼えで お味噌つげで また焼えで お皿サ とって むしゃ むしゃ むしゃ
※弘前地方では先の唄をこのようにうたった。
冬になって寒さが厳しくなると、3〜4歳ぐらいの子供たちの手が、寒さにこごえるように冷たくなる。
子供たちが、自分の息を、手にハアハア吹きかけながら暖をとるため家に入ってくる。
老婆が囲炉裏のそばにいると、幼児を炉のそばに座らせて両手を火にかざし、この唄をうたいながら暖をとらせるのである。
いつの間にか温かくなった子供達は、また外に出ていく。
(つづく)
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(353)わらべ唄 青森風土記 その51
| 2004年10月 5日(火) |
【第5集(昭和40年8月刊行)より】
★ 懐かしいふれ声の響き
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●にしの はしり よごえしが・・・
初ニシンを売るときの魚屋のふれ声である。
明治〜大正のころは、鯵ヶ沢方面でたくさんのニシンが獲れた。 藩政時代には、初ニシンが獲れると、まっさきに殿様に献上したと伝えられている。
ニシン漁期になると、鯵ヶ沢から弘前への西浜街道は、ニシンを満載した荷車が、まるでキャラバンのように続いたという。
浜の町の橋を渡って、市中に入るのだが、朝早くから夕方まで、チリン・チリンという荷車の鈴が絶えなかったそうである。
「にしの はしり よごえしが・・・」と威勢よく、ふれまわった。
初ニシンのうまさは、魚好きの舌をばかにして、一人で3、4匹食わないと承知させなくなる。 脂がのって、大きな数の子がたくさんつまっているのだ。炭火で焼くと、ジュウジュウと脂が燃え、煙がもうもうと立ち込める。ニシンの田楽も、また格別である。
●にし にし にしね かれ ほ
明治、大正のころ、魚屋を「イサバ」または「イサバ屋」と言った。
魚屋は店に並べておく以外に、天秤棒をかついで売り歩いた。 彼らのことをボデフリと言った。
それぞれ町内に得意客があって、帳面につけて貸し売りをした。 魚売りは威勢がよくなければダメだから大きな声でふれ歩く。
●あさづき よごしなぁ・・
春先に「あさづき」を売る
ふれ声。
あさづきは、まだ残雪があるうちに黒土をわけ、ニョキニョキと芽吹きはじめる。 その浅緑の彩りと独特の香味は、いかにも早春の食べものにふさわしく新鮮だ。
近在の農家の婆様が、孫をおんぶして売りにくる。
シクラゲ(尻はしょり)とって、浅黄色や水色の足絆をぶらつかせ、「あえものコ(和えもの)ねへば、めごさぁ(おいしい)。 しめ売り(終い売り)コだはで、まげでおぎさね(安くして売る)」と、ご愛想も言う。
いかにも、のどかな早春の風物詩である。
あさづきは、今も、いち早く八百屋の店先に出るが、もう、こうして売りに歩く婆様の姿はなくなった。
(つづく)
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(354)わらべ唄 青森風土記 その52
| 2004年10月 6日(水) |
【第5集(昭和40年8月刊行)より】
★ 懐かしいふれ声の響き
その2
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●むぎつぶ 買えへんがー つぶ 買えへんがー
昔、春先になると、水田からたくさんの田つぶが拾ってこられ、このようなふれ声とともに売りに出されたものだ。
●きのめ 買えへんなー こめのご 芽(もえ) よごすなー たらんぼの 芽 買えへんなー
「きのめ」は木の芽のことで、木々の若芽を買って食べるのである。 「こめのごの芽」は「やぶてまり」や「こごめうつぎ」の芽であり、「たらんぼ」は「たらの木」の芽で一番おいしいとされている。
早春の木の芽は主として、あけびの若芽で、それを買って家庭で、あえものをこしらえて食べたものである。
●きぶす 買えへんがー
「きぶす」というのは、ほうき草を秋にこいて干して乾かしたもの。 それに納豆と味噌を混ぜ、あえものをつくるのである。
●とごろ よごすがー
この声が聞こえてくると、いよいよ、ひな祭りが近い。
●たげの子(ご) 買えへんなー あがりご よごすなー
竹の子の長く伸びた上の所、30cmばかり折ったものが「あがりご」である。
●花コ よごしがぁー しがん花コ よごしがぁ
春、弘前地方で彼岸に花を売る声である。
彼岸近くなると造花売りがまわってくる。
芸紙に彩色した造花をベンケイにさして、昔はそれをかついで、このようにふれまわった。
彼岸には、茂森や新寺町界隈に今も造花売りが姿を見せるが、こうしたひなびたいでたちの造花売りの姿はもう、消えてしまった。
(つづく)
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(355)わらべ唄 青森風土記 その53
| 2004年10月 7日(木) |
【第5集(昭和40年8月刊行)より】
★ 懐かしいふれ声の響き
その3
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●あめの なかから おたさんが出たよ ほら また 出たよ
あめ売りの声である。 春のお彼岸のころになると、子ども達はみんな、戸外の遊びに夢中で、石蹴り、縄跳び、陣取りなどに日の暮れるのも忘れる。 ・・・そんな時、遠くから、あめ屋の太鼓が聞こえてくるのである。
その飴は細長く、いくらかじってもオタフクの顔が出てくるものであった。
鳥コあめ屋も、やって来たものだ。
鳥コあめ屋はピピ(笛)を吹いてくる。 これを耳にすると子ども達は遊びをいっせいに止め、一目散に家の中にかけこみ、小銭をねだる。
鳥コあめは、細い竹の先に飴をつけて、ヒョウタン、ウグイス、ニワトリなど、さまざまな形のものを、手とハサミで器用に作り上げる。 そして細竹から息を吹き込むと、プーンとふくらむのである。 そこに赤、青、黄色などの色をつけてくれるのである。
お金が多いと、細工もこまかくなった。
子供らは一人一人、それができあがって手渡されるまで熱心に見物する。
●雪(ゆぎ)ぁ よごしが 雪、 雪 ・・・
旧6月1日「歯固め」といって、雪と飴をつけて干餅を食べる習慣があった。
岩木山麓の村の人たちが、岩木山からとった雪を売り歩く。 後に不潔で衛生的でないという理由から、雪売りは禁止となった。 しかし、人造氷のない時代は、珍しいのでよく売れた。
歯固めのときでなくても、雪を買って砂糖をかけ、今の氷水と同じように食べた。
●水 よごしがぁ・・
水売りのふれ声。
水道になる前の弘前は、あまり水がよい方でなかったので、富田の清水を売りに歩いた。
大きな木箱のようなものを手押し車に乗せて引いてくる。
手桶一杯いくらで売るのだが、この水は主として、お茶水用に使った。
これは、明治天皇が東北巡幸の際、弘前に来られ、金木屋に宿泊されたときに、お茶水として差し上げたという、いわくつきの清水なのである。
(つづく)
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(356)わらべ唄 青森風土記 その54
| 2004年10月 8日(金) |
【第5集(昭和40年8月刊行)より】
★ 懐かしいふれ声の響き
その4
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●名代(なだい) うちわ餅(もぢ) 名代 うちわ餅・・
うちわ餅屋のふれ声である。 食べ物やお菓子の類では、カラメあめ、ウチワもち、ダマコもち、羽二重もちなどがあった。
大円寺の戸田の餅屋が有名であった。
天秤棒を担いで、町々をふれ歩く。
うちわ餅は、竹串にさした長方形の餅で、すりゴマ、砂糖、醤油を塗ったものだった。
●羽二重餅(はぶだえもぢ)ぁ よごしがぁ・・・・
羽二重餅は名前のとおり、皮がフワフワとやわらかで、白とヨモギと二種類ある。 この餅は今でもあるが、町々をふれ歩く姿は見えなくなった。
●玄米ぱんの・・・・ ほや ほや・・・
大正末期から昭和初期にかけて玄米パンが流行った。
玄米パン売りは、木箱を自転車の荷台につけ、メガホンで大声でふれ歩く。
特においしいわけでもないのだが、珍しいので、ずいぶんと売れた。
●いろは膏(こう)なる こうげんは おいちに・・・ 産前(さんぜん)、産後(さんご)の 血の病い おいちに・・・
日露戦争のあと、傷病兵の薬屋が全国をまわり歩いたが、津軽地方にも来た。
上のように、効能をならべて歌をうたうのである。
膏や正露丸などの薬を売るのだが、黒ラシャの軍服に、白いガウンをつけた姿は人目を引いた。
この「オイチニ・・・」という囃子がおもしろいので、みんな「オイチニの薬屋」と呼んでいた。
(つづく)
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