(365)わらべ唄 青森風土記 その63 |
2004年10月17日(日) |
【第6集(昭和40年10月刊行)より】
◆俗神信仰と呪符呪厭に関した唄 その1◆
★子もらい遊び★
●一きじょ 二きじょ 三きじょ 桜 五葉松 柳 柳のうらさ 丁半かげで 誰 誰 呼んだ よしか 五太郎か お山の べんけい さしたか ささねか お杯(さかずき) 一丁(えっちょ)
子どもたちが多数集まり円形を作り、上の言葉を唱えつつ、一人ずつ退き、最後に残る一人を「おこっ」と言って両目をふさぎ、他の人を捕まえて、その名をあてさせる。
●雀コ ほしい どの雀 ほしい 中の雀 ほしい 羽コ 無(ね)えで 与(け)られね 羽コ 与るはで 飛んで来え 川にかって 飛ばれね 川の橋 跳ねで来え
二群に分かれた子ども達がこのように唱え遊ぶ声がよく聞かれたものだ。
・・・・・・・・・
「俗神信仰と呪符呪厭に関した唄」の項を作ったが、作業をしていて、分類に困ることがあった。
そもそも、この大分類の仕方に問題があったようだ。
なぜなら、わらべ唄は、すべて子どもの遊びの中から生まれ、その遊びは、大なり小なり俗神信仰と関係があるからである。わらべ唄には、呪符・呪厭に関したものが非常に多い。 例えば、植物の唄の「松葉あそび」も、その年の吉凶を占うものであり、また、「ほうずきの唄」も早くネブ、サブを出すためのマジナイである。 我々の生活の中に俗神信仰が根強く入っているのに驚いている。
したがって、ほとんどのわらべ唄が「俗神信仰と呪符呪厭に関した唄」として分類できるのだが、他の8つの分類に少しでも関連があるものは、そちらにまわすこととした。 そこに属さないもの、そして、はっきり呪符呪厭に関したものを、「俗神信仰と呪符呪厭に関した唄」として、ここにまとめた。
上の「子もらい遊び」は、「遊び唄・第1分類」としてもよかったかもしれない。 今後の研究方向も、ここから再出発しなければならないようだ。
(つづく)
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(366)わらべ唄 青森風土記 その64
| 2004年10月18日(月) |
※事務局パソコンの定期メンテナンス後の「事務局日記」の更新となったため、いつもよりも更新時間が遅くなりました。ご迷惑おかけいたしました。
【第6集(昭和40年10月刊行)より】
◆俗神信仰と呪符呪厭に関した唄 その2◆
●天子(てんし) 天こ しめこたいしょう 日本照らす あきらか じぇんくわい お願えたてまつる あぶらん そわか あぶらん そわか あぶらんけ そわか
北津軽郡水元地方での太陽を拝むときの言葉である。
●海波の尊 海波の尊 たった今 待ちうけけれども おみき おどもを 差し上げまする
北津軽郡水元地方での月を拝むときの言葉。
●そらいし さんそく そわか そらいし きんみょう がってんす 土佐山陰の 南無ふのさいの五十鈴 森八百屋 ころづの みのきとにて 三国一の弥陀如来 南無大師の観世音 おー さんさく そわか おー さんさく そわか おー さんさく そわか
北津軽郡水元地方での二十三夜様を拝むときの言葉である。
●ぺろぺろのかめのこ 尊い かめこ ◇◇ちゃん 屁コ ふたべがな ◇◇ちゃん 屁コ ふたべがな だれでも かれでも 屁コ ふった方さ ちょっとむげよ
こよりを先を曲げて一本作る。 子どもが数人集まって丸くなる。 一人が一本両手に持って、もむようにグルグルまわす。 このとき、この唄がうたわれる。
こよりが静止したとき、こよりのかぎに向いた子どもが犯人ということになるのである。こうして遊んで、屁をふった犯人を見つけるのだ。
これは太古の神事「カギ占い」が今日、子どもの遊びに残存したものという。
(つづく)
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(367)わらべ唄 青森風土記 その65
| 2004年10月19日(火) |
【第6集(昭和40年10月刊行)より】
◆俗神信仰と呪符呪厭に関した唄 その3◆
●えんこや えんこや うしろがら 馬(おま)来るはで ふこめ ふこめ
夜などに便意を催したときに、こう唱え唄う。
●わらしの まなぐサ ごみ 入(はえ)った 仏さまの あがりこで ぴんと なでれ
子どもの眼にゴミが入ると、母親やおばあさんが、このような呪文を唱え、舌でゴミを取ってくれた。
●ねずみコ ねずみコ ワの歯ど おめえの歯ど とりかえで け
小学校1、2年頃になると、歯が生えかわる。
歯が抜けると、このような呪文を唱え、ミザ(流し元)の下や縁の下に置いた。
●川のカッパ 堰のカッパ とらない とらない
川に小便やタンを出した後、カッパに許してもらうために、このような呪文を唄うのである。
●けんなり けんなり
猫がネズミをとってくると、このように猫に対して唄う。
猫に対する感謝の言葉であり、このように唄うと、また、ネズミをとってくるという。
●けなーり けなーり
焚火の火が、まさに消えようとした時に唱える言葉。
●ねんじょね だんだ 田のもの あたのぎ なにほど あっても ごへんぞ あぶらんけ そわか あぶらんけ そわか あぶらんけ そわんか
夜、就寝に際し、火を埋めるとき、このように唱えた。
●麻糸 麻糸 麻糸のむすびも これや これや ただいて ください あぶらんけ そわか あぶらんけ そわか あぶらんけ そわか
糸がからまったときに、ほどくときの唱言。
●麻糸のむさしのすごろ ほろぼろと ほごえなが この糸こぁ あぶらんけ そわか あぶらんけ そわか あぶらんけ そわか
前と同じく、麻糸がからまったときに、ほどくときの唄。 この唄によってほどけた糸は、縫糸にせず、凧糸にするのである。
●そめ うん じょう じそう めっぽう そうみつみつ そごみつ
恐ろしいものを見たとき、このように唱える。
●お千代さま のー のー 遊びに あがれした のー のー
昔、士族の女の子どもが、友達の家に遊びに行ったときに、玄関で唱える挨拶唄。
●(1)きんか ほうほう 嘘せば おたがの 爪ぬげる
(2)きんか ほうほう 針道(はりみぢ) 十くぐる
友達と何か約束するとき、これが唄われると、約束を破ることができなくなるのである。
(つづく)
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(368)わらべ唄 青森風土記 その66
| 2004年10月20日(水) |
【第6集(昭和40年10月刊行)より】
★津軽の消えゆく「ピピの音」
その1★
斎藤 正
後継者がいないまま、自然と消滅して、なくなっていくものは多い。 津軽一帯を商売の地域とし、わずかな生活の費をその生業からあげていた「カラミ飴屋」も、その一つである。
時勢に押し流され、一人減り、二人減り、年老いた商売渡世人が次々に亡くなって、今では、ごくわずかになってしまった。
これは当然の成り行きであろうと人々は言うであろう。しかし、たいへん惜しく、子ども時代に耳にした、あの客集めの笛のメロディーは、今も、私の耳から離れないでいる。
あわれなようで、それでいて、うれしいようで、家にいても、その笛の音が聞こえてくると心がワクワクふるえ、出て行って買いたくなるような、ほれぼれするほどの旋律であった。
私ら子どもの時代は、一銭、二銭とこづかい銭をねだって、背負箱をせおった飴屋さんの周囲に「そらっ」とばかり群がったものである。
背負箱は、なんでこんなに呼ぶのか「テンコ箱」といわれ、箱の上の何本かの釘には、子どもの喜ぶ彩りの風車や小さい日の丸の旗が、よしの棒に糊づけされ、ヒラヒラはためいていた。 これがいっそうの景気を添えていた。
飴屋さんは、子供たちが群がってくると、一段と頬をふくらませてピピ(笛)を吹き、そのころ流行の「ここは み国を何百里」だの、「草津よいとこ 一度はおいで」だの、わらべ唄「泣げば山がら モコ来らねー」と、おまけの笛を吹いて聞かせてくれたものである。
テンコ箱には引き出しが小二つ、大四つもついており、各々に、へら、ふきん、箸を入れ、カラミ飴が入っている。
その一つからカラミ飴を出し、引き出しを半分出して、人から見えるようにしておいてから、おもむろに、ふきんで手先をぬらし、「ウントコ ドッコイ」などとおどけて、力を入れるまねなどをして、檜の12cmばかりの箸に飴をからみつけるのである。
「あんさ、あねさ、まげであげせー」などと、ご愛嬌をきいて、その先に、またたくまに、女の人のマゲ形に飴はからみつけられていく。
買った子どものうれしそうな顔と、ほおばっている飴の味とが、トロリと津軽の空にとけ、それはなんともいえぬ民俗的・民芸的な、郷土色あふれる一風物詩であった。
私などは郷愁にかられ、今なお、その風情を忘れることができないでいる。
・・・・・・・・・
今日では板柳に一人、高崎に一人、石渡に一人、悪戸に一人(目が悪く老齢)、五代に一人と数えるぐらいしか、カラミ飴の笛の吹ける人は津軽にいないということだ。
近頃は、くだり菓子に押しまくられ、笛を吹いて飴売りにくる飴屋さんは、ほとんどいないといってもよい。 転業したり、出稼ぎに出たり、別の商売に変わってしまったのである。カラミ飴屋さんは、そのうちに根絶してしまうであろう。
そして、あの妙なる客寄せのメロディーも、この津軽の地域から、聞くことが絶対になくなる日もあるだろう、と思うと、なんとも寂しくなるのである。
私は、津軽地方に自分のやるべき労作を求めて何十年、脳裏から、このカラミ飴の渡世商売のこと、そして、このメロディーを何とかして残すべきであると、強く考えていたのであった。
(つづく)
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(369)わらべ唄 青森風土記 その67
| 2004年10月21日(木) |
【第6集(昭和40年10月刊行)より】
★津軽の消えゆく「ピピの音」
その2★
斎藤 正
カラミ飴のような商売は、山形や秋田県にもあるのだが、いずれも吹く笛が違うという。また、笛だけでなく、曲も、その地方地方で違っている。
全国を行脚しているこの方面の研究家によると、なんといっても、昔のカラミ飴の飴箱、唐人笛、そしてそこで聞かれるメロディーは津軽に指を屈するそうである。 「全国カラミ飴曲コンクール」でも開かれるとしたら、さしずめ、津軽の客寄せのメロディーは天下第一だということであった。
ただ、「灯台下暗し」で、足もとにこんなものがあるなどとは、津軽の人は誰一人として知っていない。研究に手をつける者もいない。もちろん、こんなのは学者などは研究対象にはしないし、決してテーマには選んでくれないのである。 研究しても何にもならない、無駄だ、と早くも考えがちなのである。
しからば、誰も、黙ってかまわないでおいて、消える入るまま、我々の時代に失ってよいのであろうか。 これは、誠に我々の子孫に対して、申し訳のないことだと思う。
かつて、松野武雄先生が、民俗学の草分けである柳田国男先生の御訪問を、弘前の地に受けたことがあった。 柳田先生は、ある宿屋に三日も四日も武雄さんを呼んで、話を聞いてつかまえ、はなさなかったそうである。 そして、「あなたは『夜這い』の研究をしないか」と柳田先生が言われ、「こんなことは大学の先生とか、世の中の偉いインテリは研究の対象にしないので、ついにこの研究は日本の民俗学の中で誰も手をつけないで、わからないまま消えていくであろう」と話されたそうである。
もちろんこのことと、カラミ飴屋さんのことは同列には論ぜられないのであるが、何かしら似ていて面白いと私は思う。
弘前では、ほとんど見向きもされないカラミ飴屋さんに、仙台の駄菓子研究家(この道の第一人者)が着目し、心魂を傾け、一年のうちに3回も弘前を訪ね、研究に研究を重ねて帰っていかれた。
実に津軽のカラミ飴屋さんの一人が、仙台の研究者の心をとらえたのだ。
客寄せのメロディーを一人前に吹けるまでには、独学で10年もの年季を入れなければならない。 私が仙台の研究家に紹介したのは、五代に住んでいる、名もなき津軽のカラミ飴屋の伝承を継ぎ、その笛の吹き方を知っているT氏であった。
つい先年まで、田植後のサナブリがやってくると、テンコ箱を背負って(近頃は自転車の荷あげに小さな箱を乗せて)、自慢のチャルメラ(唐人笛)を吹き、客寄せのメロディーを、市内に流しながら売り歩いていた。
顔見知りのオガサマたちや、子どもが5円、10円と買ってくれ、飴売屋さんが来るのを毎日楽しんで待っていてくれるようになったそうだが、それも近頃は、ぱったり出歩かなくなった。こうして、弘前市内のどこからも、この愛すべきメロディーが聞こえることはなくなってしまったのである。
私は、この学問もない、一介の飴屋さんと親しくなる機会があり、上方からも仙台からも来る研究者たちの通訳をつとめてきた。
しかし、これら研究者の中に、県民・市民が誰一人いないことは、はなはだ残念なことであった。
では、このT氏について物語ってみたい。
(つづく)
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(370)わらべ唄 青森風土記 その68
| 2004年10月22日(金) |
【第6集(昭和40年10月刊行)より】
★津軽の消えゆく「ピピの音」
その3★
斎藤 正
☆T氏のこと
明治45年、岩木町字五代に生まれる。百姓を業とし、学校は小学校2年生ぐらいで退学。 その後、家業の手伝いに就くが、カラミ飴屋に興味を持ち、家業のかたわら飴屋に転向。子ども相手の商売に入った。 しかし、ピピ(笛)の吹き方がわからず苦労し、約10年間で、やっと一人前に、誰よりも良い「音」の客寄せを吹けるようになった。その苦心、精進、努力は並々ではなかった。 学問で身を立てる人が、大学院を出るぐらい、真に驚嘆すべき努力だったと思う。
自分がこれからの口過ぎとしての商いに必要なピピの吹き方を、何十日も山の上に寝転んでは晩までピピを吹き、雀追いヤグラに寝て徹夜をして過ごし、練習に練習を重ねた。
このままピピを折って転業しようかと考えたことも、幾度あったか知れないそうだ。
ピピは、舌で笛の吹き口をおさえて鳴らす洋楽でいうスタカットや、ハーモニカのベースのように一息も外へもらさず、笛の胴に呼気が力強く入っていかなければ、メロディーの高音部は出せないのである。口をタコのようにとんがらせて、唇をピピの吹き口に、ヒルのようにくっつけて吹く。 舌はもちろん、口の中の筋肉すべてが活動し、これを助ける。 慣れるまでには、唇、舌端、口の中の筋肉が傷ついて腫れ、痛みのため、食事が何日もノドを通らなかったそうである。
カラミ飴屋の奏でるメロディーは西洋音階のドレミファでは律することはできない。 いわゆる、日本音階のメロディーであるため、指と舌と呼気ですべての音を出さなければならない。音を「出す」というより「作る」のである。この点、御神楽の笛や尺八などに似ている。
ピピの胴についている裏一孔、表の六孔をふさいだり開けたりして吹くのだが、最も驚いたのは裏一孔の巧みな使い方である。裏孔を開けたり閉じたりし、あるいはトレモロや半孔にして指で押え、軽くしめたりして、微妙な音を奏でるのである。
これは、人から手をとってもらって習ったのではなく、自分ひとりの工夫と習練によって、独りで創った「音」であった。
メロディーは彼の友達や同業者が吹いているのを側で聞いて覚え、吹く様子を見たり、指の動かし方を見て工夫し、練習したという。
一曲を覚えるのに十年である。
これを自分のものにしたあとは、世俗の流行歌などは、どうにかこうにか吹けるようになったと言っている。
彼の快心の曲は、今では私の記録した録音テープに残っているだけだが、それを耳にすると、客寄せのメロディーが生々として余韻を引いて聴く者の魂を揺さぶり、瞬く間に、子どもの心にかえすのである。
本当に懐かしくてたまらないメロディーなのである。
(つづく)
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(371)わらべ唄 青森風土記 その69
| 2004年10月23日(土) |
【第6集(昭和40年10月刊行)より】
★津軽の消えゆく「ピピの音」
その4★
斎藤 正
☆T氏のこと A
私は学者や仙台の駄菓子屋の主人が対談したり、質問したりしている側で、T氏の津軽弁を標準語に翻訳して相手に伝え、江戸弁(標準語)を方言にたくみに、そして即座になおして彼に伝え、その答えを求めるので、私もその間にあって「津軽カラミ飴屋学」を学ぶことになった。以下の内容は、T氏より伝え聞いたものである。
ピピをほんとに吹ける人は、この津軽には、今では、一人か二人に減ってしまって稀になってしまった。 カラミ飴屋の客寄せの楽譜は、どうしてこの津軽にだけ、原譜(メロディー)が残されてあるのか。これは世界的な視野において、おおいなる研究の問題であるかもしれない。
あるいは南方、あるいは天竺、唐、中国、朝鮮からか。 あるいは昔のミシハセ国からか、あるいは北方諸国から南下し伝来して、この地方に残存、わずかにその祖形を残しているのかもしれない、ということである。
中国ではお祭りの行列に唐子(からこ)などが一種のチャルメラを吹くが、その笛がきわめて似ていることも興味がある。
ピピ(笛)の胴の後端には、大・中・小三つの真鋳部分がとりつけられているが、飾りといえばそれが唯一の飾りである。
表六孔と裏一孔は、津軽の飴売りの笛だけで、秋田や山形県のは孔の数と太さ、胴の材質が異なっている。よって、ピピは、津軽に伝わってきた一種独特の唐人笛なのであろう。
ピピの胴(共鳴部)は、サビタなどの材質の木で、木地挽(きじひき)で作らせるそうである。 長さが30cmあまりで、太さは径1cmほどである。下に行くにしたがって太い、いわゆる朝顔形となっている。 ところで、ピピの胴であるが、最良の材は、バラの古木であるということだ。 その古木で作ったピピで、メロディーを奏せんものなら、禽獣虫魚から人間はもちろん、蛇蝎(だかつ)にいたるまで、皆、酔ってしまう、という。
バラの古木で作ったピピの胴は、津軽にまだ残っているはずだ、と、T氏は、もっともらしく、また、あるときは、それを夢のように語るのであった。
さて、どんな商売にも、その道だけで使われている「ことば」がある。 飴売屋さんにも「専門語」がある。私のメモしたものは、主としてピピを奏するときに使用する「ことば」であるが、それをいくつかここに付記しておきたい。
●もぐ・・・・トレモロのこと ●ころぶ・・・はやくなること ●ながす・・・のばすこと ●かぶりゆ・・ヨシの中のあま皮 ●さがね・・・胴につける真鋳の飾り
このほか、彼は、客寄せの曲は「津軽追分のくずし」であろう、と言ったり、昔は、飴売りの曲の中に、支那24孝の曲というのが津軽の飴売りによって奏でられていたものだ、と謎のようなことも語っていた。
これはメロディーの研究者に、何かしらの示唆を与えているようにも思う。
また、「チャルメラ」というのはポルトガル語で、我が国では、最初は長崎で吹かれ始め、その後、全国に広がっていったものだということである。
(つづく)
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(372)わらべ唄 青森風土記 その70
| 2004年10月24日(日) |
【第6集(昭和40年10月刊行)より】
★津軽の消えゆく「ピピの音」
その5★
斎藤 正
☆ テンコ箱の由来 ☆
背負箱(飴箱)をテンコ箱といういわれについては、定説がなく、はっきりわかっていない。
仙台の駄菓子研究家、石橋幸作氏によると、カラミ飴屋の背負う飴箱は、全国的にテンコ箱と称せられているという。
これは江戸時代、藩政の折、各藩では小物商いの飴売りに課税をおこなわず、貧しい者の手仕事としてこれを許し、飴売りは、全国どこへ行ってもおおっぴらに行商をおこなうことができた。ここに由来しているのではないだろうか。
誰から見てもそのかっこうで飴売りとわかる印。それが背負っている箱であり、それすなわち、天下御免の印として、誰言うとなく「天下箱」と呼ばれ、後日、それが訛って、「テンコ箱」というようになったのではなかろうか。
数あるテンコ箱の中でも、津軽のテンコ箱は、真鋳の金具付で、赤塗りのまことに美しい飴箱である。
もう一つの説もご紹介しよう。
「津軽のことば」の御著者の鳴海助一先生から、ムジナ・イタチに類する「テン」という動物があることを伺った。
和名はテンで、津軽では「テンコ」と称していたようだ。
昔は津軽地方にたくさん生息していたらしく、また、普通のイタチも同じようにテンコと呼んでいた。よって「テンコ」という呼称にはイタチも含まれる。
ところで、このイタチを捕る簡単な器物を「イタチばこ」と呼ぶそうなのである。
ということは、「テンコばこ」とも呼ばれることがあったのではないかと想像される。 飴売りの背中に背負う小さな四角な箱は、この「テンコばこ」によく似ているのである。
唐風の服装をした飴売りは、こんな箱を必ず背負っていた。しかし、津軽の人は名前がわからないため、それを見て、身の回りにある類似の品、すなわち「テンコばこ」を、飴売りの呼称に流用していった可能性もある、とのことである。
「はちひげ」を「つまかわ」などというのと同じで、似たもので卑罵の意を込め、よく評するのが、津軽人の味のある点であるとのお葉書を、鳴海先生からいただいている。
ところで、ピピの音の良し悪しは、口先をあてる最尖端部につける「ヨシ」で作った吹き口によって決まる。
これの作り方は、飴売屋の企業秘密ともいえるもので、門外不出の秘伝中の秘伝であったのだが、T氏は我々にこれを包み隠すことなく教えてくれた。 それについて、述べてみることにしよう。
(つづく)
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