青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年11月(4)>

(393)風太鼓ストーリー@
(394)風太鼓ストーリーA
(395)風太鼓ストーリーB
(396)風太鼓ストーリーC
(397)風太鼓ストーリーD
(398)風太鼓ストーリーE
(399)風太鼓ストーリーF
(400)風太鼓ストーリーG
(401)風太鼓ストーリーH
 
(393)風太鼓ストーリー@ 2004年11月22日(月)
 事務局パソコンの修理が完了いたしましたので、「事務局日記」の連載を再開いたします。
 
 さて、今年の「こども郷土芸能フェスタ21」が昨日終わりました。東京在住のため、見に行けませんでしたが、昨年同様、盛況だったのではないかと思います。

 本日より、昨年の「こども郷土芸能フェスタ21」で大熱演だった蟹田中学校の風太鼓、様々な知られざるエピソードをご紹介してまいります。蟹中風太鼓は今でこそ、評価も確立し、他校の先生方も見学にみえるほど、活発な活動を繰り広げていますが、その歩みは順風なものではなかったようです。
 では、どうして現在のような状態に発展させることができたのか・・・。

 その秘密を風太鼓保存会の会長、梅田永氏に語ってもらいました。非常に興味深い話が綴られていくと思います。

 では、本文をどうぞご覧ください。


・・・・・・・・・・・・・・・・

 おおー

 緞帳が上がり、舞台を目にしたお客さんからのどよめきが会場を包み込みました。

 舞台にはたくさんの太鼓と35名もの蟹田中学の生徒たちがバチを手に気合を込めて立っていました。

 ここは平成15年11月「青森県こども芸能フェスタ21」のむつ市の会場。

 太鼓の音が出る前に、すでにお客さんは蟹中風太鼓の子どもたちの勇姿に引き込まれていました。
 それを会場で見ていた一人の男性がいました。

 風太鼓会長 梅田永氏です。



 不思議なんですけれど、音が出る前に、お客さんのあの声を聞いたとき、心の底から感動してしまいました。そして、あのどよめきが出た瞬間、「やったね!!」とも思いました。
 いつも一緒に舞台に上がって演奏するので、客席から自分の教え子の姿を見る機会は、あまりないのですが、あのときばかりは、本当に指導者冥利に尽きると思いました。

 こう語る梅田氏、しかし、この風太鼓の歩みは順風なものではなく、何度か存続に対する大きな危機に見舞われたそうです。

 今でこそ、風太鼓、そして蟹田中学校の生徒たちによる蟹中風太鼓も有名な存在となり、東京演奏もおこなうなど活発な活動を繰り広げています。

 こうした活動に、見学のため、青森県内の各学校の先生がたびたび蟹田中学を訪れるという状況ですが、初年度は、風太鼓への蟹田中学生の参加希望者はゼロだったとのこと・・・。
 第2希望、あるいは第3希望者ばかりで、第1希望でやりたい活動の抽選からもれ、仕方なく風太鼓にまわってきた子どもたちでスタートしていったとのことです。
 それが現在は、希望者が多すぎて、オーディションで希望者を選ぶという活況を呈しているそうです。

 平成元年に生まれ、こうして次第に郷土芸能として定着しはじめている風太鼓ですが、最初は、蟹田町の中でもそれほど興味を示す人はいなかったといいます。
 こうした状況をいったいどのようにして好転させていったのか。


 子どもたちの芸能離れ、後継者問題に頭を悩ませている保存会の方々は少なくないと思いますが、ここに現状を打開するヒントが含まれているのかもしれません。

 梅田氏は、自分たちの活動が何かのお役に立てるのなら、ということで、率直に、核心部分について、いろいろと語ってくださいました。

 明日より、蟹田町の風太鼓にみる成功秘話について触れてまいります。


 (つづく)
 
(394)風太鼓ストーリーA 2004年11月23日(火)
 私たちの太鼓も最初は受けがよくなかったんですよ。イベントで太鼓を叩いても、蟹田の町の人がほとんど集まらなかったんです。町の人の耳は正直でした。

 このように語るのは、蟹田風太鼓会長 梅田永氏。

 海の青さ、そして空の青さの境目が、遠くで交わり消えてなくなるほどの好天の折、蟹田の海を一望できる塔に梅田会長と二人で立ち、気持ちのよい潮風を受けながら、団体誕生時の頃からの話に聞き入りました。今年の春のことです。

 蟹田町では、ふるさと創生事業の一環、つまり「町おこし」として、和太鼓団体が結成される運びとなり、昭和50年頃からアマチュアバンドでドラムを担当し、蟹田町のイベントでも知られた存在となっていた梅田氏に、蟹田町役場から声が掛かりました。平成元年のことだそうです。

 その当時のことを梅田氏は次のように語っています。


 最初は、青森県外の出身の高名な音楽家に曲を委嘱し、それをレパートリーにしていたんです。
 楽曲は、玄人受けのする奥の深い作品で、素晴らしいものですが・・・、そこには「蟹田」の匂いがありませんでした。

 「蟹田」の名を冠し、町から発信するはずの太鼓の音に地元「蟹田」の匂いがない。こうしたところに、町の人たちの耳は敏感だったんですね。


 さらに梅田氏は述懐します。


 叩いている我々も、なんかこう、蟹田で生まれ、蟹田で育った血というか、魂にズシンとくるものがないんですよ。良い曲だとは思うんですが、なかなか楽曲に共感できないというか、入り込めないんです。
 こうした我々演奏する側の気持ちが、もしかしたら聞いている人に伝わったのかもしれませんね。
 また、当初は、私たちの技量も、曲を表現するには、まだまだのものがありました。

 これらのことが影響したのか、演奏に対し、なかなか好意的な反応が得られませんでした。

 最初のうちは、それでもがんばって、仲間とともに活動していました。

 しかし、やはりそれにも限界がありまして、もうこれはダメだ。やめよう、と真剣に思うようになりました。



 ・・・しかし、ふるさと創生事業の一環として、新たなる蟹田町の文化と人づくりに向けて私たちに期待をかけてくださっている方々も一方にはいらっしゃる。

 今ここでやめてしまっては、そういった方々の信頼を裏切ることになる。

 本当にどうしようかと思いました。


 こんな葛藤の末、梅田氏はひとつの決心をします。


 いったん、これまでの活動をゼロに戻し、楽曲から何から、自分たちの手作りではじめてみよう!



 蟹田風太鼓の「新しい歩み」は、こうしてスタートすることになるのです。


 (つづく)
 
(395)風太鼓ストーリーB 2004年11月24日(水)
 さて、梅田氏は以前からバンド活動をされていたため、曲作りの経験はあったそうなのですが、和太鼓用の楽曲は初めてです。

 どのように譜面にそれを表現していったらよいのか・・・
 それもわからぬままの手探りの状態でスタートしていくことになったといいます。

 ただ、梅田氏は生まれも育ちも蟹田という、生粋の蟹田っ子。
 自分の身体の中に息づく「蟹田の心」
 それをそのまま素直に表現すれば、蟹田の風土が反映した「これぞ蟹田!!」という楽曲にできるのではないか。
 しかも、それを演奏するのも蟹田に生きる我々だ。


 全身全霊を込め、太鼓を打ち込んでいくことで、楽曲に蟹田の魂が吹き込める。

 こうしていけば町の人も納得できる「蟹田の太鼓」になるのではないか。


 漠然とではあるが、こうした自信のようなものが、闇の向こうにぼんやり見えていたといいます。

 こうして平成8年、一つのオリジナル曲が完成しました。


 北緯41°04′真上をアンドロメダ大星雲が通る町、これが「蟹田の心」なんだという気概の込められた楽曲『大星雲』でした。


 蟹田町の真上を通るアンドロメダ大星雲に届けとばかりに打ち鳴らす、この強い響きが「風太鼓」の新しい歩みを決定づけたといいます。

 このオリジナル曲がきっかけとなり、その後、蟹田風太鼓のメンバーの意識も徐々に変わっていくことになりますが、ここで蟹田町役場から、ショックな通達を受けることになったそうです。


 平成元年の「ふるさと創生事業」の一環として蟹田風太鼓は生まれたため、当初は行政主導で、風太鼓のメンバーはあくまでも役場に協力する「お客様意識」だったといいます。
 また、役場の担当者がたいへんよく動いてくれたこともあって、ついついそれに甘え、団体としての「自立」という意識が宿らなかったといいます。

 こんなとき、役場の担当者から、「役場でも協力はするが、ゆくゆくは独自で活動して欲しい。」
 そう言われたそうです。

 これを聞いて蟹田風太鼓のメンバーは動揺します。

 事務局から何から全部自分たちでやらなければならない。

 できるのだろうか・・・



 (つづく)
 
(396)風太鼓ストーリーC 2004年11月25日(木)
 役場から、ある意味、突き放されたようなことを言われ、蟹田風太鼓のメンバーの心が揺れました。

 今までのように、役場から与えられたメニューを半ばお客さん的にこなしていく。役場に協力してやっているという意識を、自分たちがやりたいから活動しているというところに変えていかなければなりません。
 当然、リスクも背負うことになり、運営から何から全部自分たちで責任持ってやっていかなければならない。

 団体としての「責任」と「やる気」が、このとき問われたといいます。

 しかし、すでに先述したように、このとき蟹田風太鼓の活動は「楽曲の問題」もあって一つの行き詰まりを見せていました。


 本当にあのときが、風太鼓存続の分岐点だったと思います。
 梅田会長はこのように述懐します。

 結局、我々はすべてを自分達の手でやっていくという道を選びました。
 結果的にそれがよかったと思います。
 関係者のみが知り得る情報、例えば、いろいろな補助金制度・賛助・奨励などの申請ノウハウ。
 こうした点については行政と連携し、支援を仰ぐということは必要です。
 しかし、かつての自分達がそうであったように、「みんな役場でやってけろ」の団体は、現在のような時世、これからは大変だと思います。
 行政にもたれかかるのではなく、自立した意識を持つことが必要だと思います。
 そうした意識がオリジナル曲の制作をきっかけに固まっていったのは、本当によかったと思っています。
 当時は、どうなることかと思いましたが・・・。

 こうして、町の事業から産み落とされた蟹田風太鼓ですが、役場による保護期をしばらく経験した後、ようやく平成8年ごろから自立。独自の歩みを見せるようになっていきます。

 これは蟹田風太鼓の年譜を見るとよくわかります。

◆平成元年
名称を蟹田風太鼓としてメンバーを募集

◆平成3年
蟹田風太鼓保存会を発足

◆平成8年
秋田鷹巣「大響祭」出演

◆平成10年
青森県文化観光立県宣言出演

◆平成11年
風のロマン「笑顔が一番」全国放送

◆平成12年
子どもの部「県青少年健全育成団体の部」受賞
子ども放送局出演 青森発 全国へ

◆平成13年
北海道木古内町「みそぎ祭り」

◆平成14年
青森県太鼓フェスティバル出演
青少年育成団体として全国表彰

◆平成15年
・蟹田中学校 風太鼓県代表として
 東京の「全国中学校総合文化発表会」に出場
・11月「青森県こども芸能フェスタ21(むつ市会場)」に蟹中風太鼓出演

 平成8年を境に、はっきりと活動に変化が見られます。
 この年はじめて制作されたオリジナル楽曲『大星雲』に象徴されるように、「蟹田風太鼓」は、この年を境に新しく生まれ変わったのでした。

 蟹田風太鼓としての個性を打ち出した活発な展開は、ここから開始していくのです。


 (つづく)
 
(397)風太鼓ストーリーD 2004年11月26日(金)
 さて、その後、ほぼ3年ごとにオリジナル曲が生み出されレパートリーが増えることで、蟹田風太鼓の活動は、昨日の年譜にあったように、ますます充実していきました。

 蟹田風太鼓の代表曲を梅田会長に簡単に解説してもらいました。

●風の彩り(1999)
 風太鼓代表曲。
 町の人々の明るさ、力強さを、女性の打ち手の組太鼓ソロ、低く構えて横にした太鼓を打つ男性の躍動で表現。力を合わせ、心を合わせ、太鼓の響きは風となります。

●東風(ひがしかぜ・2001)
 「やませ」を、あえて「ひがしかぜ」と呼び、立ち向かおうとする風太鼓。2001年、鼓動は異色の太鼓曲へと進化。



 ところで梅田会長には音楽の他に、もう一つの側面がありました。
 それが競技スキージュニア選手の育成でした。

 梅田氏は、自身の中学・高校(青森高校)でのスキー部経験を生かし、蟹田町スキークラブや、自分のレーシングチームで、青森県で戦えるジュニア選手(昭和57年〜平成9年)を育ててきました。
 とりわけ自分のチームの選手では、全国中学出場1人(後にインターハイ東北)、東北大会(小学)3人などの選手を輩出するなどの目覚しい活動を続けてきました。

 このような指導者としての資質が評価されたのか、あるとき、蟹田中学校の生徒に蟹田風太鼓を指導してもらえないかという話が持ち上がったのだそうです。 

 きっかけは、平成13年度に、蟹田風太鼓保存会へ蟹中祭(文化祭)の発表部門の一つとして生徒による「蟹中風太鼓」を加えたいとのことから、学校から指導を依頼されたことだといいます。

 学校へは役場から、こういった素晴らしい太鼓があるよ、という紹介があったようで、実際に蟹田風太鼓の演奏を見た学校の先生が、「これなら!」ということで依頼を決めたのだそうです。

 蟹田中学校の先生の思いとしては、「太鼓をやったことのない生徒達に、一つのものに集中し、短期間の練習で発表させる中で、物事に打ち込むことから生まれる充実感や達成感を与えてやりたい・・・」このような考えがあったそうです。

 一方、風太鼓の側としては、依頼を受けたことはたいへんありがたいが、本番が近づくと練習は、ほぼ毎日となる。
 中学生への太鼓指導は初めてでもあり、仕事の合間をぬってのコーチでもある。
 しかも、短期間で効率よくマスターさせなければならない。可能か?
 心配材料は多かったそうです。


 しかし、様々な心配材料を跳ね飛ばし、青少年の健全育成と町の活性化を目指していこうとの強い思いにより、蟹田風太鼓のメンバーは指導にあたることを、ついに決めます。

 さて、先生の期待・思惑とは裏腹に、当の蟹田中学生の反応は鈍く、太鼓を進んでやりたいと手をあげる生徒は、一人もいませんでした。


 (つづく)
 
(398)風太鼓ストーリーE 2004年11月27日(土)
 初年度に風太鼓に参加した生徒たちは、本当は別な活動をしたかったのだが、残念ながらそちらの抽選からはずれ、仕方なく回ってきたという生徒ばかりだったというのは、すでに触れたところです。

 さて、そんな太鼓経験のない、やる気の見られない生徒たちに太鼓を指導していかなければなりません。しかも、文化祭発表まで、残された時間は、わずかしかありません。

 いかに子どもたちに効率よく技術を指導していくか・・・。
 それには、子どもたちのやる気を、まず引き出さなければなりません。

 さあ、どうするか。蟹田風太鼓のメンバーは頭を抱えてしまいました。

 梅田会長に当時のことを伺いました。


 そうですね。最初は大変でした。
 スキーの指導経験はあったのですが、それとはまったく別物でした。
 
 スキーの場合は、記録・結果がすべてですので、そこに向かうため、ある程度のスパルタ的な指導をおこなうことも可能です。
 しかし、文化系の指導はその方法をそのまま踏襲したら失敗してしまう、ということに気がついていました。
 手探りで進むしかありませんでしたが、キーワードは「楽しさ」ではないかと感じていました。
 太鼓は「楽しい」ものだという意識を子どもたちに与えられれば、それで指導の大半は終わったようなものだと思います。楽しいことは、進んで学びとろうと、子どもたちは自発的に努力し始めますからね。そこまでの子どもたちの意識改革が、まず最初の勝負どころでした。

 さて、その指導方法なのですが、他の団体にみられる一般的な手法とは少し変えました。

 一般的には、メトロノームを使ったバチ打ちによる単調なリズムトレーニングが延々と続きます。

 基本を固めて応用に進むというこの方法が、熟練者を生み出す常識的アプローチなのですが、なにしろ、こちらは、本番までの時間がありません。また、このような単調な練習スタイルでは、もともと太鼓に興味があって参加した生徒がゼロですので、せっかく、イヤイヤながらも来てくれた生徒が、さらにイヤになって、すぐにやめていくことが十分予想されました。

 そこで、いきなり、蟹田風太鼓のレパートリーの一番「おいしい」部分を叩かせることにしました。もちろん、初心者でも打てる部分を選んでということですが、いきなり楽曲の一番よい部分に触れさせてしまうのです。こうして太鼓の醍醐味を体験させると同時に、その演奏に対しては素晴らしいと言って心から褒めてあげる。
 こういったプロセスを経ることで、生徒たちの気持ちが大きく変わっていくようです。
 太鼓というものに心から感動してくれ、その感動をエネルギーに、もっとうまくなりたい。もっとうまく叩きたいと練習に自然に身が入るようになっていくようなのです。

 子どもたちへの指導は、階段を順に最初から登っていくのではなく、いきなりゴールを提示し、子どもたちが、自分たちの力でその地点への到達を目指す。
 そういった道筋を作っていくことが指導の要になっていくのではないかと感じています。

 ただ、親しくなってくると、中だるみが出てきます。そういったときにはスキーの指導のようにカミナリを落とすこともあります。
 ただ、その場合には、個人攻撃にならないように、じっくり考え、今度のこの機会に、こうして落とそうと入念に計画して効率よく怒ります。でも、それも年に1回ぐらいですかね。

 こうして「楽しさ」を主軸に、「厳しさ」もスパイスとして、ときに織り交ぜながらの指導を心がけていったのですよ。


 (つづく)
 
(399)風太鼓ストーリーF 2004年11月28日(日)
 さて、こうした指導を受けているうちに、生徒たちは太鼓のとりこになりはじめ、蟹田風太鼓のメンバーを心より信頼し、自発的に「師匠」と呼ぶようになっていったそうです。


 「師匠」という言葉はきらいなんですよ。
 最近は「コーチ」と呼んでもらっています、とは、梅田会長の弁。

 最近は、先生を平気で呼び捨て、その先生に暴力を振るう子さえ珍しくない昨今、大人を尊敬しない子どもが増えている中で、こういった点は、少しばかり考えさせられます。

 蟹田中学校では、風太鼓を、学校の教育課程に位置づけていますが、その目的に「体験を通して、地域の伝統文化に触れることと、風太鼓保存会の指導者から、太鼓に打ち込む姿勢や生き方を学ぶため」という点をあげています。

 地域の方の力を借りて、一体となって、子どもたちの教育にあたっていこうという動きは、青森県のあちこちでも見られるようですが、蟹田町は風太鼓のメンバーを媒介にして、たいへんうまくいっているケースといってもよいようです。


 ところで、風太鼓使用の楽譜を見せてもらいましたが、五線譜を利用しており、音符の下には「ドン・ドン・ドン・ドン・ドドンガ・ドン・ドン」、音符の上には「右・左・右・左・右・左・左・右・左」と手の動きを示した、わかりやすい楽譜となっていました。

 梅田会長によると、最初、和太鼓に取り組んだころ、楽譜をどのような書き方にしたらよいか、ずいぶん悩んだそうです。

 試行錯誤の末、楽譜の読めない初心者でも理解が進むよう、リズムを口ずさめるように、歌詞ならぬ、「リズム詞」をつけ、ここに「手の動き」を付加していくことで、効率よく音楽情報を伝達できる楽譜に整備していったということです。


 たまに、忙しいときなど、楽譜にリズム詞を書き忘れて配ってしまうこともあるそうで、そういったときには、あの「ドドンガドン」を書いてくださいよ、と言われてしまうようになったといいます。


 また、ポピュラー音楽のドラム奏者として活躍していた体験を活かし、そこで使われていたテクニックも、積極的に和太鼓に組み入れたといいます。


 オリジナル曲はすべて梅田氏の手によるものですが、作曲について伺ったところ、太鼓を使わず、まずはパソコンで作ってみるのだそうです。

 この利点は、すでに演奏前にイメージする音が自分の耳で聞けること。
 また、太鼓合奏のイメージとなるように音響処理も自由に施すことができるので、パソコンによるその「デモ演奏」を録音、メンバーに渡して耳で覚えてもらうこともできます。

 こうして、わかりやすい楽譜に、さらに模範演奏としての「音」がつけられ、メンバーに提示されることで、短期間で楽曲がマスターできるようになるのだそうです。


 梅田会長によると、和太鼓をずらりと並べて叩く『組太鼓』のスタイルはわりあい新しいもので大昔からあったものではない。まして、私たちの風太鼓は平成元年に発足したばかりなので歴史も浅い。だからこそ、思い切って自由なことができる。とも語っていました。

 しかし、今の伝統芸能と呼ばれるものも、当時の「芸好き」「新しいモノ好き」たちが、京都などから持ち込んだもの。
 はじめはどれも新興勢力でした。

 それが次第にその土地の風土を取り込み、世代を継いでいくうちに伝統となっていった経緯は見落とせません。

 やがて、風太鼓も蟹田の町に溶け込み、あと50年、そして100年という時の流れを経るうちに、地元蟹田の郷土伝統芸能として、しっかり根をはっているかもしれません。

 その初期の胎動を今、こうして記録しておくことは、意義あることだと思われます。


 (つづく)
 
(400)風太鼓ストーリーG 2004年11月29日(月)
 こうして楽曲も、蟹田に生きる風太鼓のメンバーたちの中から自然に湧き上がる思いをそのまま音にしたオリジナル曲にしてから、町の人たちの共感を得られるようになってきたといいます。

 役場におんぶにだっこの初期の状態から、自立した活動を迫られたことにより、蟹田風太鼓としての活動を存続・発展させるために、一般へのPRを真剣に考えるようになったといいます。

 そのことを次のように梅田会長は語ります。


 マスコミに取り上げられることも多いため、誤解されることも多いのですが、私自身は、あまりそういった一般への啓蒙活動をおこなうことは好きな方ではないんです。人前に出て何かするのは恥ずかしくて、あがってしまう方ですからね。

 でも・・・、黙って待っていても、向こうからやって来ることはありませんし、メンバーを増やしたり、蟹田風太鼓の活動を発展させていくためには、ある程度のPR活動は必要なものだと思います。
 私たちには「伝統」という貯金がないので、なおさらです。

 イヤだと思いながら、会長の立場としてやるべきことでもあるので、新聞社などに電話したりして、積極的にアプローチしようと心がけています。
 
 こうしてマスコミなどに取り上げられることが活動の動機づけの一つともなります。

 また、コンピューターには弱いのですが、ソフトを買ってきて、自分で蟹田風太鼓のホームページを作って、情報発信もしています。

 現在のように情報発信の道具を手軽に持てる時代に、かつてのように好きだから活動している。それだけでおしまいというのは、活動の継続は望めませんし、代表者としては、やはり、会を発展させていこうという、そういった努力が足りないとも言われることになりますので・・・。


 穏やかに、ゆっくりとこのように語る口調の中にも、蟹田風太鼓の活動にかける情熱、その厳しさがにじみ出ていました。

 さらに梅田会長は続けます。


 後継者不足に悩む伝統芸能の団体から、相談を受けたこともありました。

 どうしたら後継者の問題を克服していったらよいのか・・

 そのとき実は、私のところも同じ問題を抱えているのです。と、お茶を濁すようなことを言っておきましたが、本当は、このように思っているのです。


 新興の団体が生意気なことを言うな、と怒られるかもしれませんが、私の考えはこうなのです。


 (つづく)
 
(401)風太鼓ストーリーH 2004年11月30日(火)
 まず、時代錯誤を解かなければならないように思います。
 テレビもラジオも何もなかった時代、村の唯一の娯楽は芸能だったと思うんです。

 その芸能に参加し、脚光を浴びるということは、当時の若者にしてみれば最高に「カッコイイ」ことだったと思うんですよ。

 今、テレビをつけると、若いタレントがファンの声援を浴びてキャーキャー騒がれていますでしょ。
 それを見て、若い人が自分もああいったタレントになりたいと憧れますでしよ。

 それと同じ意識が、昔の芸能に参加する動機の一つの要因だったと思うんです。
 当時の若者にとっては、芸能に参加することはカッコイイことだったんですよ。
 実際、芸能に参加していた人たちは、もてたといいますしね。

 しかし、今は時代が変わりました。情報の洪水でいろいろな娯楽が入ってきます。テレビなどで、いろいろ刺激的なものを目にしたり耳にしたりします。もう、かつてのように、芸能が無条件でカッコイイ時代ではなくなったのです。

 カッコイイものを求める若者の意識は、昔も今も変わりませんから、今の若い世代が昔ながらの伝統芸能から離れ、他のモノに向かうというのは当然の理屈です。


 こういった時代背景を理解せず、ただ、後継者がいないと嘆いている団体が多いように感じています。

 今の時代、昔のように強制的に青年団などに加入させるわけにもいきません。
 そうなると、若い世代の自主性で伝統芸能なども継承していかなければなりません。
 それなら、そういった若い世代が、カッコイイと思わせるような何かを用意しなければなりません。
 ここで誤解してもらっては困るのですが、これまでの伝統を捨て、今流行りものに、全部変えてしまえ、というのではないのです。


 長い期間、世代から世代の手を経て、時の研磨にかけられて残ってきた芸能は「絶対にいい」のです。ただ、そういったものの良さがわかるまでには時間がかかります。
 
 体験を深め、目が肥えてこないと、こういった深い部分はわかりにくいものです。
 そういった素晴らしさは捨てずに、しっかりと保持しておく。

 そこへ引っ張っていくための、若い世代を引きつける何か魅力的な要素、現代の若者にアピールする何かを、伝統芸能の「入口」に用意しておくことが必要だと思うのです。

 伝統という看板に頼るだけではなく、現代という時代の流れに対応した動きをしていくことも必要だと思うんです。


 具体的に、私たちはどうしていったかをご説明します。

(つづく)


←11月(3)     バックナンバートップ     ホームへ     12月(1)→