青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年12月(2)>

(408)吉野田獅子踊 第1回
(409)吉野田獅子踊 第2回
(410)吉野田獅子踊 第3回
(411)吉野田獅子踊 第4回
(412)吉野田獅子踊 第5回
(413)吉野田獅子踊 第6回
(414)吉野田獅子踊 第7回
(415)吉野田獅子踊 第8回
(416)吉野田獅子踊 第9回
(417)吉野田獅子踊 第10回
 
(408)吉野田獅子踊 第1回 2004年12月 7日(火)
北畠家23代 北畠顕信書伝

東の方より男獅子に跨(またが)りて
南の方より女獅子に跨りて
西の方より神馬に跨りて
北の方より弁財天女 白く浄めし大蛇に跨りて
中央上下は大慈大悲の観世音
女夫の契りも及ばざる
此の身を三十三に分ちてぞ
何ぜに花の肌に背を向けて
教への艶文聞き分けず
曲りし心に蹴り飛ばす
今より四方に向いては
蝶々と誠一つに手をつなぎ
松の緑千歳の操千代かけて
菩薩は出てし祓いし如く
我が身の罪も心のとがも
功徳の風が此の世に吹いて
楽し踊れや踊れ
文殊菩薩が智慧の剣に舞いなして
普賢菩薩が慈悲の情の花かざす
薬師如来が諸人の病を除く功徳の水を携えて
望みの儘(まま)の大槌小槌を振りかざす
此の世と未来の二世かけて
吾等が口説きには
叶はぬ事もなかりしに
情の密に口閉じ
錦緞子のしとねをば
さてもつれなや諸人よ
蝶々と上下に向いては
此の家 此のをさめてぞ
此の世あるまで変りなし
浄みし如く
後もなしや
我が悩み吹き消し去りて後もなしや楽しや
此の世の春を太鼓や笛で神と共に


 江戸時代には四つの街道が交差するなど、浪岡町は古くから交通の要衛として栄えていました。
 現在でも国道7号線、国道101号線、東北縦貫自動車道路、JR奥羽本線、青森空港などの幹線道路のほか、津軽自動車道が整備され、往時の面影をとどめています。

 近年「中世の里」とも呼ばれることの多い浪岡ですが、そのもとになっているのは浪岡城跡です。
 この史跡は、北日本を代表する中世の城館です。
 この初代城主といわれる北畠顕成が浪岡城築城の際(室町時代)、領地内の平和と栄光、五穀豊穣を祈願するため、京都から持ち込んだのが「吉野田獅子踊(よしのだ ししおどり)」です。

 冒頭に挙げた、北畠家23代目北畠顕信も獅子踊について上のように触れています。

 昔は神前で神主社司領地内の社家などを招いて、神楽獅子として三本の榊の枝を奉典し、旧正月2日と8月15日に獅子を奉納することが定例となっていました。

 ところが、この活動は第二次世界大戦のとき、一時途絶えかけます。しかし、吉野田地域の人の熱意で昭和25年に「吉野田獅子踊保存会」が結成され、室町時代より、現代まで脈々と絶えることなく、吉野田地域に獅子踊が受け継がれています。

 それ以来、各種民俗芸能大会への出演はもちろん、神社奉納から、新築や出産などの地域住民の個人的な祝いまで依頼があれば踊るという、地域に密着した活動を続けています。
 保存会活動の最盛期は昭和30〜40年代。ちょうどそのころ、日本は高度経済成長期を迎え、地域活動・青年活動が全国的にも盛んな時期でした。吉野田獅子踊保存会も精力的な活動を続け、各種大会で数々の上位入賞を果たし、その評価を確固たるものにします。そして昭和36年11月4日、青森県無形民俗文化財の指定を受けることとなります。
 しかし、近年、様々な要因から、保存会構成員の高齢化と後継者の不在という問題が深刻になってきています。

 今度、2年ぐらいして、どうしてるかなと思ってここに来たとき、もう、私たちはいないかもしれませんよ。

 「えっ」と絶句してしまった瞬間でしたが、青森県を代表する(県無形民俗文化財)吉野田獅子踊も保存会の会員の大半が50〜60代で、存続の危機感を漂わせています。その保存会を引っ張っている方々も、79歳の会長を筆頭に、いずれも決して若くはない方々ばかりで、いつ自分たちに何があるかわからないよ、冗談交じりに上記のように語られていました。

 笑いながらも、決して笑い事ではないのだという危機感を感じたインタビューでしたが、その取材は平成16年8月8日、浪岡町吉野田地区でおこなわれました。当日、吉野田獅子踊保存会の中心となる方、工藤豊巳会長、工藤良二氏、木村鐵雄氏の3名に集まっていただきまして、長時間にわたり、忌憚のないご意見を青森県音楽資料保存協会の事務局長が伺いました。

 お金がなければないなりに、いろいろな所にアンテナを張って情報を集め、保存継承のための知恵を絞っています、とのことで、地域と一体化した保存会の実践的な活動は目を見張るものがあります。

 吉野田獅子踊保存会の活動を通し、伝統芸能のおかれている今の状況はもとより、様々な逆風の中、後継者の育成に向け、どのような活動を展開しているのか、保存会の方々の率直な声に耳を傾けてみたいと思います。


 (つづく)
 
(409)吉野田獅子踊 第2回 2004年12月 8日(水)
 「うーん・・・、いるのかなあ?」

 これは、「20代、30代の方はいないんですか」との、こちらの質問に答えられた保存会の人の声です。

 若手の名前は何人かあり、ゼロではないようなのですが、やはり主力は50代から上で、若手のリーダーが欠けている。これが将来への不安を大きくしているようです。

 保存会の方は次のように語っておられました。


 吉野田獅子踊が、青森県の無形民俗文化財に指定された昭和30年代は農村社会が華やかな時代で、「囃子方」「踊り方」がいっぱいいました。
 当時、集落の娯楽といえば、獅子踊ぐらいのもので、晩御飯の後、笛や太鼓の音に引かれて若い世代が集まって、見よう見まねで踊りや囃子を覚えていったものです。
 それが、農村の機械化とともに、次男、三男など、家にいなくてもよくなってしまった。
 それに、高度経済成長時代でしたので、「金の卵」といわれ、村からパーッと働きに出て、地域に若い人がいなくなってしまった。
 昔は青年団の集会所に集まるのが楽しみで、獅子踊はもとより、そこでみんなでワイワイやって一杯飲むとかあったものですが、そういった時代ではなくなってしまったのです。


 昭和36年に全国の青年大会に青森県代表として行き、全国最優秀賞をいただいた頃は、青年団の組織も充実していて、踊りも囃子も、若者たちだけで構成していました。
 練習もたくさんしました。なにせ、若者が各地にゴロゴロといた時代です。
 現在のように青年団そのものが衰退している時代ではなく、各地の青年団が隆盛をきわめていたころですから、その中で、上位入賞を果たすということは本当にたいへんなことでした。実際、私たちも昭和35年の年は県大会で落選しているのです。
 それで翌36年には練習量を多くし、県の大会で一番になり、若者が取り組む青年団の民俗芸能の全国大会で最優秀賞をいただくことができました。

 が、当時の保存会の主力メンバーも、近い所では青森市、その他、旭川やら東京やら他の都市に行ってしまい、分散してしまいました。本籍は吉野田だが、遠方にいる人が多いのです。
 もちろん、そういった人たちに声をかければ来てはくれますよ。
 しかし、それが、「今日も、明日も、あさっても・・・」となると・・・、難しいですね。


 青森県の芸能は、かつては青年団というものが主軸となって、そこで活発な活動がおこなわれていたのです。予選会でも郷土芸能の部で2日間もかけてやったほどです。
 それだけ当時は、出演団体があったということです。これには、ほとんどの町村の青年団が出ていたのではないでしょうか。
 かつては浪岡町も、吉野田地区だけではなく、各集落に青年団組織があり、それを統括する連合青年団がありました。
 しかし今では、「連合」がはずれ、ただの「浪岡町青年団」になっています。
 そこに参加しているのも、今は、人数的には20〜30人ぐらいのものではないでしょうか。

 現在、各集落で見られた青年団組織は解散状態です。もちろん吉野田も例外ではありません。だいたい、青森県で青年団が郷土芸能に取り組んでいるという話も、最近はあまり聞かなくなりました。
 吉野田では、青年団を作ろうにも青年がいない状態で、われわれ「老年団」が獅子踊の主軸になっている状態です。
 主力メンバーは50代、60代です。
 息切れをし、踊りを知っていても、体力的に踊れない人ばかりなのです。


 (つづく)
 
(410)吉野田獅子踊 第3回 2004年12月 9日(木)
 元弘3年(1333)、北畠顕家が、陸奥守、鎮守府将軍として津軽地方を統括し、長禄年間(1457〜59)に、北畠顕義が浪岡に築城したと伝えられ、5000町歩の領主として二百余年、繁栄を誇り浪岡御所とよびならわされ、文化が栄えていたそうです。
 室町時代の初期後小松天皇(1377〜1433)の頃、京都において北畠家の唱門師(しょうもんじ)が上流の武家や公家の保護のもとに盛んに獅子舞を踊っていたと伝えられ、その京都由来の獅子舞が吉野田に移入されたといわれています。
 その後、「田遊び」や「神遊び」といった農耕儀礼に関係を持ちながら発達しつづけ、修験信仰の影響も受け、現在の独特なスタイルが長い歴史を経て形成されたと考えられています。

 この京都由来の獅子がいったいどこから来たものか、元 吉野田獅子踊保存会の会長、工藤長助氏が調査したところ、発祥の地は、古代バビロニアに求めることができるとのこと。

 工藤長助氏の見解を以下に示します。

◇ ◇ ◇

 今から5000年前、天地の間に無数の悪魔が存在し人類に禍をなしていたという。その悪魔に打ち勝ち、神々の庇護を求めるためにバビロニア(今のイラン・イラクのあたり)の地で、悪魔退散のために獅子を舞わした。これがインドから中国、朝鮮半島を経て、1350年ほど前、日本に伝えられたとの言い伝えがある。
 これが、平安時代、修験が山奥での難行苦行の最中、月明かりの夜に、鹿が丸く輪になり、遊び戯れる様子を見て、衆生の病難・災難・剣難の相を除き、天下泰平・五穀成就・万民豊如意繁栄を念じて舞うところとなり、この修験の舞が「鹿獅子踊り」として、吉野田に伝えられたとされている。

◇ ◇ ◇

 実際の所、よくはわからないのです。
 伝承の起源だけではなく、舞台についても三本の木を立て山とするのですが、なぜ三本の木を立てるのか。「山」という字をかたどったという人もいますが、詳しいことは私たちもわかりません。昔は山の中に、よく御神酒をあげていたものです。

 獅子踊り自体を、北畠氏が作ったということではなく、浪岡への移入における中心的な存在とみた方がよいのかもしれません。
 獅子の起源は、やはり日本から出て行くのは間違いないでしょう。
 したがって、吉野田の獅子踊りはどこから来たのかと問われたら、私たちはバビロニアと答えることにしています。
 それが、修験信仰や各種農耕儀礼の影響も受けながら、長い年月を経るうちに、現在のような形になっていったものと、私たちは理解しています。

 現在の演目は、男獅子二匹 女獅子一匹 案内子(オカシコ)一人の役者で次のようになっています。

@追い込み踊り
 神社祭典などにおけるお祓いの儀と同様で、悪魔を追い、降神の場とする踊り。
 獅子は百獣の王として、自分の安住の地を求めて、山奥に入る出発の場面。

A橋かけ踊り
 獅子は安住の地を求めて山奥に入る途中、川にさしかかります。
 橋は見つけたものの、危険を感じ、安全を確保するため、男獅子が交互捜索します。
 これに女獅子は加わりません。

B山かけ踊り
 ようやく川を渡って希望の山に入ります。しかし、百獣の王といわれる獅子においても油断大敵で、山中に潜む敵の捜索を入念におこない踊ります。この踊りにおいても、女獅子は加わりません。

Cしめ縄踊り
 さて、いよいよ安住の地を求めることができたので、しめ縄を張り、神を呼び、四方を祓い清めるために踊ります。

D山担ぎの踊り
 四方の祓い清めも済みました。自分の身の罪も祓い、晴々しく、神とともに踊り戯れます。

E女獅子狂いの踊り
 ところが、踊り戯れる中、愛しい女獅子の行方がわからなくなります。男獅子が心配して狂って捜索しますが、実は隠された女獅子は、案内子(おかしこ)と一匹の男獅子の作戦であり、このために二匹の男獅子の間で争いが起こります。

F例え事の踊り
G機織(はたおり)の踊り

※FG合わせて和楽踊り

 争いが起こりましたが、案内子と他の男獅子の作戦がわかり、女獅子も発見され、話し合いがついて争いも収束。平和な安住の生活が営まれます。
 獅子たちは、機を織り、生活の安定に努力し、共に働き楽しむ場面です。

H暇乞いの踊り
 楽しや楽し、踊れや踊れ、と平和のうちに暮らしていましたが、国から、帰れとの迎えの船が来ます。そこで踊り場に暇(いとま)を乞い、一別の挨拶をし去る場面となり、すべての踊りが終わります。

 この演目全部をやると45分から50分かかります。獅子頭をつけ、それだけの長時間踊るのは、ずいぶんハードです。昔は通してやれましたが、今は途中に休みを入れないと、ちょっと体力的にきついです。


 (つづく)
 
(411)吉野田獅子踊 第4回 2004年12月10日(金)
 正式に踊ると45〜50分のものとなりますが、現在は15〜20分の短縮版で踊ることが多いです。大会に出るようになると15分程度でという時間制約がつけられ、その大会用の踊りが現在、主として踊られているものです。

 最初、時間制限をつけられたときは、いったい、どの踊りを選んだらよいか困りました。
 そこで、当時の経験豊富な先輩方のご意見を仰ぐこととなり、「追い込み」「山担ぎ」「例え事」「機織」「暇乞い」の演目から大会用の踊りを構成するところとなりました。
 ただ、これにしても、場所の大小で時間が延びたり縮んだりするのです。

 「獅子踊り」を知らない人には意外なことのように思われますが、「空間」が踊りの時間的なサイズを決定する大きな要因となるのです。
 獅子が動いていますが、ちょうど、よい位置に獅子が来たときに、笛吹きの切り替えるメロディーを合図に次の演目に流れていくのです。

 西洋の音楽のように小節数が決まっており、何小節目になったら、次の曲という具合にはいかないのです。

 お客さんにお尻を向けた、まことにまずい態勢で曲が切り替わらないよう、笛吹きは獅子の動きを注意深く見ています。

 獅子が、円を描いて動く場合でも、野外の大きな空間と家の中のような狭い場所では当然、周回する時間が異なってきます。それらが、全部、反映してくるので、囃子を含めた踊りは、空間のサイズによって、いつも影響を受けることとなります。こうした「踊り方」と「囃子方」の阿吽の呼吸で、踊りは進行していくのです。

 ですから、後で、子ども達の指導のところで述べますが、子ども達には楽譜で渡しています。そうすると、楽譜では何小節目で次の曲と決められているので、こうした踊りの空間に合わせた伸縮性がつかみにくく、苦労しています。


 さて、踊りにおいて重要なのが案内子(オガシコ)で、私たちでは、獅子の踊りをすべてマスターしてしまったベテランに案内子の役を頼んでいます。その名の通り、案内子は「案内人」であり、三匹の獅子を誘導するだけでなく、獅子踊り全体の流れをコントロールする総監督的な立場にあります。
 踊りの演出を常に考え、たとえば即興的に子どもがいればその子どもを抱いて踊るなど、おもしろおかしく観客を楽しませるために、場の雰囲気をコントロールする役割も果たします。
 ですから、案内子は道化、添え物のようでありますが、ある意味、一番偉いのです。
 祭りを盛り上げる要でもあります。文字通りの「先導役」なのです。

 ただ、キャラクターとしては、橋や山に行ったとしても、危ないと思われるところは、案内子は絶対に自分から行きません。
 行け、行け、と獅子を先にやろうとするんです。

 橋渡りにしても一番安全な最後を行きます。山に入っていくときも同様です。
 案内人なのですが、危ないところは自分から先に行かないという、ずるがしこいキャラクターです。顔もおかしいんです。


 こうした案内子が先導する獅子踊りの演目は全部で40〜50分もあるのですが、最近、踊る機会が少なくなってきました。
 短縮版を踊っているうちに、本来の型を忘れてしまう危険がありますので、平成13年度に、地域伝統芸能等保存事業として財団法人全国市町村新興協会、財団法人地域創造の助成を受け、浪岡町教育委員会の監修でビデオを作りました。

 これは50代以上の本格的な踊り方による完全版です。これを残すことができましたので、後世において、踊りが忘れられてしまうという危険は一応、回避された形となっています。

 ただ、この事業を始めるにあたっては、ずいぶん苦労しました。


 (つづく)


 <事務局注>
 以上、昨日、おとといの文面同様、本日も、吉野田獅子踊保存会の複数の方々の声をまとめ、保存会から発せられた一つの声として読めるよう、保存会の方々の審査・承認のもと構成しております。
 
(412)吉野田獅子踊 第5回 2004年12月11日(土)
 昔から伝承されてきたものは非常に大事だが、それを積極的に残していくということは大変です。ちょっと気を抜くと、あっという間に無くなってしまいます。
 ただ、私たち保存会としてはビデオテープに完全版を収録して残しましたので、形としてはそれが後世に残っていくことでしょう。

 ビデオには、踊りが主体で、囃子の演奏の様子がアップで入っていない。また、最初の囃子の部分がカットされている部分があるなど、若干、気になる点もありますが、しかし50代の年季の入った人の踊りを収めた、現時点では最高の映像資料となっています。
 全部の踊りを入れたものとしてはこれが唯一です。


 ただ、これを作るのにも60〜70万円もかかり、助成事業があってようやくできました。

 その助成をとるのも、3年がかりでようやく実現にこぎつけたものです。苦労しましたが、こうして後世に完全な形で映像と音を残せたということは、私たち保存会としても価値ある仕事をしたと思っています。


 また、平成2年に200万円強の助成を受けて、大人の獅子と子どもの獅子を、頭から衣装から全部更新しました。そのときに太鼓も小さいものを三つぐらい準備できました。
 平賀町の広船に獅子頭を作る人がいたのですが、こういった人も、最近では大変少なくなってきたということです。

 同じように衣装や獅子頭を更新したい、しっかりした映像として記録に残したいという団体は多いと思いますが、いろいろな問題で、にっちもさっちも行かない状態にあるというのが現状のようです。私たちも、お金がそんなにあるわけではないのですが、なければないなりに、いろいろなところにアンテナを立て情報を集め、助成事業があった場合は、だめでもともと、積極的に手をあげることにしています。
 ありがたいことに町の協力もあり、何年かに一回ぐらいは、こうして助成を受けられるようになっています。


 衣装の柄は、昔から牡丹と決まっています。現在の新調した衣装の色なのですが、実は、昔は紫だったので、今回も紫の色で頼んだのですが、布との関係で濃紺になってしまいました。

 もんぺは、かなり以前は赤であったそうですが、茶系になっていました。それを今回の衣装の新調で、本来の赤に戻しました。


 更新前の獅子頭や衣装は「中世の館」の収蔵庫に保管してもらっています。
 「中世の館」に入れたものは、それほど古いものではなく、昭和の戦後に入ってからのものだといわれています。その前のものは、全部お宮で燃やしてしまったという話です。
 その焼かれたものは何代目かわかりませんが、現在使用しているものは、焼かれたものから数えると三代目ということになります。


 私たち保存会としては、獅子踊りは「郷土芸能」であって、信仰の対象といった宗教的な見方は全然していません。
 だからといってどうでもいいというものではなく、総会のときには、桐箱の中から獅子頭を出して並べ、しめ縄を張り巡らし、いろいろな供物やろうそくを立てて、獅子頭を高いところにおき、二礼、二拍手 一拝。参加者全員で獅子に敬意を払って総会を始めることにしています。
 お供えは終わった後、参加者に切って渡し護符にします。


 今の獅子頭に更新するときも、古い獅子頭の魂抜き、新しい獅子頭への魂入れを、神主さんに頼んでやってもらいました。地域の長い時代を経て継承されてきた芸能に敬意を払うという意味で、獅子頭などはこうして大切に扱っています。


 (つづく)



 <事務局注>
 以上は、吉野田獅子踊保存会の複数の方々の声をまとめ、保存会から発せられた一つの声として読めるよう、保存会の方々の審査承認のもと構成・掲載したものです。
 
(413)吉野田獅子踊 第6回 2004年12月12日(日)
 おかげさまで吉野田獅子踊は、他の団体でみられるような何年、あるいは何十年かの休止期間というのは経験していません。昔からずっと継続してきています。
 これは神仏関係なく、おめでたい席はもちろん、弔いの席でも依頼があれば踊ってきたという地域密着型の活動を続けてきたためだと思っています。新宅祝いや地鎮祭、結婚披露宴など、依頼があれば踊ります。家のまわりや、家を建てる前の敷地をぐるり踊り回ることもよくあります。

 獅子踊りの第一の目的は、五穀豊穣、悪霊退散で、いわゆる念仏踊りとは違います。
 しかし、昔はお盆中、墓所に行って踊ったということはあったそうです。
 先祖供養の意味合いがあったのでしょうか。そのような墓踊りがあったということは聞いています。しかし私たちがかかわりをもってからは、そういうこともなくなっています。

 今はやりませんが、昔は囃子に唄もついていました。太鼓の縁を叩きながら唄っていたのを子どもの頃、耳にしたことがあります。
 ただ、そばで聞いていても、何を唄っているのか、文句はわかりませんでした。
 巻物が残っているので、おそらく、その中にある言葉を口にしていたのだと思います。

 現在「墓踊り」はやらないのですが、獅子踊りの仲間が亡くなったときには、お別れをするという意味で、「暇乞い(いとまごい)の踊り」をやります。
 「楽しや楽し、踊れや踊れ、と平和のうちに暮らしていたが、国から、帰れとの迎えの船が来て、一別の挨拶をし去っていく」という場面が「暇乞いの踊り」です。そこで使われる囃子、笛のメロディーは哀切の極みということもあって、本当に仲間を送るときの踊りは心を打ちます。祭壇の前などで、私たちはこうして一緒に踊った仲間に別れを告げてきたのです。


 このように獅子踊りは単なる芸能ではなく、地域生活にとってなくてはならない存在でした。それが時代も変わり、獅子の地域での存在感が希薄になりつつあります。

 地域の人にとって、吉野田獅子踊は誇りであり、大事に守っていきたいという気持ちは今も昔もかわっていません。
 しかし、獅子踊りだけで食べていけるわけがありません。それぞれに生活があり、現在のように農業だけではという時代になってくると、獅子踊りのために吉野田に残るわけにはいきません。物を食わねばならない。そのためには稼がなければならない。そうなると、ここにいられない。というわけで、みんな引越しして、吉野田の家にいなくなってしまうのです。誰だって自分の口が一番大事ですからね。

 これで一番困るのが、お囃子なのです。
 踊りは、小さい頃からずっと見ていますから、少し練習すればすぐにマスターできます。
 しかし、囃子、特に笛は、そうはいかないのです。
 特に吉野田獅子踊の囃子、笛は独特なもので有名です。
 昭和43年の7月に宮崎県に行って踊ってきたのですが、そのとき、向こうの笛の名人に集まってもらい、こちらの囃子を吹いてもらおうとしました。
 しかし、7〜8人の笛の名手たちも、汗をかきながらやっていましたけど、結局、吹けませんでした。

 ビニールテープなどであまり利用しない孔をふさぎ、七孔を六孔の笛としているところが多いようなのですが、吉野田では全部の孔を使います。そういった奏法だけではなく、メロディー自体もたくさんの装飾音のついた個性的なものなので、なかなか覚えようとしてもついていけません。しかも、40〜50分の演目すべて踊りによって曲が違ってくるのです。
 こういった囃子に聞かれる笛の個性が吉野田獅子踊の大きな魅力なのですが、逆にここが指導上の問題となって、笛の継承者を育てられない最大の原因にもなっているのです。

 宮崎県の一流の笛吹きも手余ししてしまったほど、めんどうなもので、ちょっとやそっとでできない笛、これを次代に継承していくというのは本当に大変なことなのです。
 私たちも頭をかかえています。

 後継者が地域からいなくなっている。囃子方が途絶えそうだ。などなど、厳しい事態に直面しているのですが、じっとしていても、事態は好転するはずはないので、とにかく多くの人たちに吉野田獅子踊の存在と現状を知ってもらう手段として、関係各部署などと相談し、地域の学校などで「知る機会」をつくれないものかと試行錯誤しています。
 私たちも歳なので、あと何年できるか・・・・。
 しかし、私たちがやれるうち、なんとか将来への道筋をつけておきたいので、後継者育成事業をいくつかおこしています。その中から、平成9年におこなわれた事業をここでご紹介したいと思います。


 (つづく)


 <事務局注>
 以上、吉野田獅子踊保存会の複数の方々の声をまとめ、保存会から発せられた一つの声として読めるよう、保存会の方々の審査承認のもと構成・掲載したものです。
 
(414)吉野田獅子踊 第7回 2004年12月13日(月)
 ◆平成9年実践研究のねらい◆

 無形民俗文化財は近年、青森県だけではなく全国的にもかなり厳しい状況に置かれています。これが、メディアの急激な発達や生活時間の変化、都市の人口集中に伴う核家族化、農村社会の急速な過疎化など、様々な社会的要因によって引き起こされた結果だとすれば、現状の改善は、かなり厳しいものと考えられます。

 残念ながら、吉野田獅子踊も例外ではなく、このような「時代の流れ」の影響を受けています。
 幸いなことに吉野田獅子踊は、今も精力的に活動していますが、もはや吉野田獅子踊保存会を取り巻く種々の問題は、保存会だけで解決できるものではなくなってきています。もっと地域の人たちや、学校、さらには県などとも広く意見を交換する機会を持ち、実践的、かつ有効な手段を考えていかなければならないところにきています。

 そこで、「民俗芸能伝承活動の支援調査事業」を、地域全体の人たちの協力でおこない、今までとはちょっと違った場所、違った人たち(今回は地域の小学生)で、発表する機会を持ちつつ、いろいろな立場の人の様々な視点からの意見を聞くことによって、「今後どのようにすればよいのか」についての実践可能な手がかりが得られるのではないかと考えました。



 ◆実践的研究の概要◆

 実践的研究の方法については「第1回浪岡町 民俗芸能伝承活動 支援調査の実行委員会の会議」の席上で話し合いました。その結果、各委員から次のような提言を受けました。


●子どもに伝承を期待するのであるなら、子ども達が自主的に運営できる「獅子踊り」を目指して欲しい。そのためには、子供用の楽器や衣装、踊り方の手引書、囃子の楽譜などの整備が必要ではないか。


●本物の「獅子踊り」の体験を大事にした上で、もっと子ども達が興味を持つようなしかけ、例えばオーケストラの伴奏で踊るとか、海外公演に行くとかを考え、練習に意欲的に取り組めるような試みや目標を持たせるのもよいのではないか。


●獅子踊りを見る機会はあっても、踊りや囃子を体験する機会はほとんどない。子どもとともに親が学べる機会を設けてほしい。


●学校での取り組みは素晴らしいが、地域の保存伝承活動にならなければ意味がない。子どもたちがみんな地元に残るわけではなく、むしろ地域に密着しているのは婦人会などの社会教育団体であろう。学校教育の場では一時的なものになる危険性が高いので、もっと考える必要があるのではないか。


●子どもに教えるのであるなら、理屈でなく楽しさを教えたい。無理に強いれば、かえって逆効果になりかねない。


●楽器や衣装・楽譜をそろえ、音楽や社会や体育の授業に取り入れて、学校教育の一環としておこなえばできるのではないか。



 これらの意見を受け、次の方法で本事業をおこなうようになりました。


 (つづく)
 
(415)吉野田獅子踊 第8回 2004年12月14日(火)
 ◆平成9年事業の方法◆


@楽譜の制作
 音楽の時間でも使用しているリコーダーでも演奏できるような簡単な楽譜を制作する。


A発表の機会
 「野沢小学校新築落成記念式典」での発表を目標に、一部学校教育に取り入れておこなう。


B練習の場所
 学校では週一回のクラブ活動でおこなえる見込みがある。夏休み中の練習については児童もそれなりに忙しいので、5〜7回程度が精一杯であろう。楽譜の作成によって、家庭での個人練習が可能となるので、子ども達の自主性に期待する。


Cアンケート
 伝承活動の実態をよく把握するために、吉野田獅子踊をよく知っている人を対象に実施する。対象者は野沢小学校の全面的な協力により、4年生以上の全児童、全教職員、全父兄とする。


 ★平成9年の具体的内容は下記のとおり★
      
●6月26日   第1回実行委員会
●7月1〜18日 クラブ活動にて週一回の定期練習
●7月25日   夏休み特別練習(踊り)
●7月28日   夏休み特別練習(踊り)
●7月29日   夏休み特別練習(踊り) 
●7月30日   夏休み特別練習(踊り)
●7月31日   夏休み特別練習(踊り)
●8月1日   夏休み特別練習(踊り・囃子)
●8月4日   夏休み特別練習(囃子)
●8月5日   夏休み特別練習(囃子)
●8月6日   夏休み特別練習(囃子)
●8月7日   夏休み特別練習(踊り・囃子)
●8月8日   夏休み特別練習(囃子)
      
●8月25日〜11月21日 クラブ活動にて週一回の定期練習
      
●9月8〜12日 アンケート実施
       (4年生以上の全児童、全教職員、全父兄)
      
●9月16日   アンケート集計
●9月30日まで 報告書作成
      
●11月21日   野沢小学校新築落成記念式典

 お囃子の楽譜作成については吉野田獅子踊保存会に一任した。
 できあがった楽譜は、現在児童が持っている楽譜で演奏する、という前提があるため、次の条件を満たしていなければならない。


@たくさんの児童に体験してほしいので、全員が持っているリコーダーで演奏ができるように、リコーダーの音域に合わせて作成する。


A児童でも演奏できるよう、あまり長すぎず、難しすぎず、それでいて雰囲気のつかめるものにしなければならない。しかし、これでは踊りのお囃子としては成り立たないので、あくまで一つの試みとして実施し、児童に感想を聞くということに留める。


 以上の実践的研究を通して得られた効果、及び特記すべき事項は次のとおりでした。


 (つづく)
 
(416)吉野田獅子踊 第9回 2004年12月15日(水)
 実際に「獅子踊り」を導入しているのは、5・6年生で、4年生ではまだまだ見学の域を脱していません。
 しかし踊ったことのある児童とない児童を比較することによって、より児童の意見がつかめるのではないかと考え、4年生以上の全児童を対象にアンケート調査を実施しました。


 ★後継者の可能性★

 「今後、続けてやりたいですか」の問いに対し「やってみたい」と答えた児童が5・6年生で約半数でした。

 実際に踊りをやったことのある児童の中で「続けたい」と答えた児童が2人に1人います。

 これは決して少ない数字とはいえません。


 後継者問題も、やり方次第では、解消される可能性があるというのがわかります。
 ただ、せっかく小学校で興味を持っても、中学・高校と進学するうちに途絶えてしまうという現実があるので、その対策をどうするかが最大の課題だといえます。



 ★活動の方法について★

 「踊りをどう思いますか」の問いに対しては、「好き」と答えた児童が4年生で5割、5・6年生で7割ほどでした。
 
 「授業でやりたいですか」では、「やってほしい」という希望では5年生が一番多く、ついで4年生。
 6年生は他の学年に比べ、希望者が著しく少なくなっていました。


 ふだんの生活からちょっとかけ離れた「獅子踊り」ですが、授業で地域の歴史を勉強したり、獅子踊りにふれる機会を与えると、受け入れる態勢が児童側に出てくるようです。

 授業に取り入れることに関し、6年生があまり希望しないのは、勉強が難しくなることと、中学校への進学の不安があること、卒業の年なのでいろいろ忙しいことなどの理由が考えられます。

 いくら「知る機会を作ろう」といっても、こうした児童の動揺を考えると、安易に授業に導入できないということもわかります。



 ★児童の意見★

 児童の獅子踊りに対する意見として肯定的なものでは「かっこいい」「迫力がある」「きっとなにか大切なのだろう」というものが多く、否定的なものでは、「かっこ悪い」「恥ずかしい」「難しそうだ」というもののほかに、「長すぎて飽きる」「長くて疲れる」と答えてきた児童が大多数でした。

 また「せっかく獅子踊りをしても、あまりよいことがない」と感じている児童もおり、「外国で公演したい」「テレビに出たい」という希望を出す児童もいました。


 代表的な意見を次に示します。


 ◆4年生◆

●ぼくは獅子踊りに向いていないし、踊りなんてできないから、ぼくはできればやりたくないです。見ているだけだったらいいけど、それ以上はやったりしたくない。

 
●私は獅子踊りが好きじゃない。あまり時間が長すぎる。


●やりたくない。ずっとやっていきそうもないから。


●獅子踊りを見て楽しそうだなぁと思うけど、人の前で踊るのは恥ずかしいから、ぼくは獅子踊りはあまり好きではないし、郷土歴史クラブはあまり好きではないです。


●ぼくは獅子踊りをとてもやりたいです。なぜかというと、とても獅子踊りがかっこいいからです。


●見たとき「私もやってみたいなあ」と思いました。見たときむずかしそうだけど、かっこいいと思っていましたができませんでした。でも、これからも獅子踊りがあったほうがいいと思います。


●服がキラキラして、音もかっこいい音で、3年生からやってみたいと思っていたからできたらうれしいです。キラキラした服を着て踊って拍手してほしいです。


●ぼくは太鼓をやりたいです。ときどき「踊るから太鼓をやって」といわれるときがある。それでなんどやっても失敗するから、きっとうまくなりたいです。


 (つづく)
 
(417)吉野田獅子踊 第10回 2004年12月16日(木)
 ◆5年生◆

●私は獅子踊りをちょっと見るのはいいけど、あんまり長すぎたり、やってみたりするのはやりたくないです。わたしはそういうふうな昔から伝われている踊りや、昔っぽいものにはあんまり好きじゃないからです。だからずっと見てるとあきてきます。


●服装はあんまりかっこよくなくてむずかしそうで、おもしろそうじゃない。実際クラブ発表のとき踊ってみたら、あんまりおもしろくなかった。


●ぼくは初めて見たけど、とても踊っているのが長くて、あきてしまうのでいやだなあと思っています。ぼくは絶対やりたくありません。


●獅子踊りを見ていて、ほくはなんか難しそうで、あまりやりたくない気分だった。そのわけは、みんなに見られて、もうヤダみたいになってしまうので、あまり好きではなかった。


●わたしは運動会などで、獅子踊りを見てすごいなあと思いました。クラブ発表でみんなで少しやったときは楽しかったけど、ずっとずっとやるのはあんまりやりたくないです。


●少し難しいけど、まねしてちょっとだけやってみたら、少しだけ踊りたくなってきた。踊れる人はいいなあと思う。音楽もやってみたい。


●難しいけど、みんなでやっていると、とてもおもしろいから、ずっとやっていきたいです。すごいおもしろいし、カネとかがおもしろいです。


●わたしは獅子踊りをやってみて、難しいけど、楽しいと思います。わたしが一番おもしろいと思ったところは音楽です。あまり、昔に興味ないけど、音楽がいいと思いました。




 ◆6年生◆

●獅子踊りはあまり好きじゃないのに、毎日練習に行かなければならないからいやだ。


●音楽はとても好きだけど、踊るのが長いから短くしてほしい。


●獅子踊りは好きだけど時間がないからいやだ。


●踊りをおぼえるのがめんどくさいし、みんなの前で踊らないとだめだから恥ずかしくていやだ。


●難しい所もあるけど、いっしょうけんめい練習して発表のときにがんばってやったら、拍手がたくさんあって、とてもうれしかったです。


●私はクラブでも獅子踊りをやっています。初めてだったけど、少し踊れるようになりました。初めて踊って、踊りがかっこよくて楽しいと思います。でも、おぼえるのが大変だと思います。


●獅子踊りをやって疲れるけど、とてもおもしろくて、また踊ってみたいと思いました。リコーダーで獅子踊りの曲を吹いてみても、とてもおもしろかったので、ずっと続けてみたいと思いました。


●獅子踊りを見て、はじめ難しそうだなぁと思ったけど、やってみたら楽しかったです。振り付けは難しかったけど、おぼえるとうれしかったです。


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 吉野田獅子踊の全演目の所要時間は40分ほどです。
 現在、児童に教えているのは、20分程度に短縮した特別版です。それでも児童には長く感じるようです。
 テレビ世代の人の集中力はコマーシャルで分断されることに慣れすぎているため、興味のあることでも、だいたい12分程度しか続かないといわれています。
 そう考えると仕方のないことなのかもしれません。

 興味を持たせること、一般に受け入れられること、保存伝承、長さ・・・これらのバランスを考えなければ、児童に伝承活動を託すのは難しいようです。


 さらに、なにか特別待遇されることがあれば、やる気が起きるが、そうでなければやりたくないと感じている児童も多く、発表の機会を工夫して目標を与えなければ続かないという現実を示唆しています。



 (つづく)


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