青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年12月(4)>

(428)宮田獅子舞 序説 その1
(429)宮田獅子舞 序説 その2
(430)宮田獅子舞 序説 その3
(431)宮田獅子舞 序説 その4
(432)宮田獅子舞 序説 その5
 
(428)宮田獅子舞 序説 その1 2004年12月27日(月)
 バックナンバーの2004年7月に「津軽の横笛」「ねぶた囃子」が、そして8月に「虫送り」についての秋村しおり氏の論考が収蔵されていますが、昨日、秋村氏より、新しい原稿が到着いたしました。
 “新しい”といっても実は、昭和56年に書かれたものであり、今回の原稿掲載にあたって、かつての文面に目を通していただきました。

 秋村氏は最初、「ほとんど洒落で書いたようなものなので・・・」と、ホームページ掲載にあたって、躊躇されておられました。

 しかし、ここには、20年ほど前に秋村氏ご自身の足で取材された「青森市の宮田獅子舞」についての貴重な取材情報が含まれております。

 当時の宮田獅子舞のお囃子について分析されている箇所もあり、青森県の音楽資料情報として歴史的にも貴重と判断。特別にお願いしまして、秋村氏の承諾を受けまして、ここに掲載するものでございます。


 この「宮田獅子舞」については、かつての活動を支えておられた方に今年の8月にインタビューし興味深い情報もまとまっておりますが、それは秋村氏の文面に続いて掲載したいと考えております。

 まずは「宮田獅子舞 序説」ということで、秋村氏の文面を先にご紹介いたします。

・・・・・・・・・・・・・


 青森県の代表的な芸能は南部地方のえんぶりに対し、津軽地方は獅子踊りということになろうか。

 獅子踊りの季節は旧暦8月2日が獅子起こしで、旧9月29日が獅子納めという村が多い。

 一般的には9月から10月にかけてがその季節であるらしいが、私の見た青森市の「宮田獅子舞」は、元旦にも獅子踊りをおこなっていた。

 ※宮田獅子舞の芸態は「獅子踊り」に分類されるものであるが、地域の人たちによって、昔から「獅子舞」と呼ばれているので、「獅子舞」と表記することにする。


 津軽獅子踊りは「熊」と「鹿」の二種に分かれている。


 「熊獅子」は地味な柿色や紺の衣装が多く、踊り方のテンポがゆるく雄渾荘重で重厚な感じがあり、頭の角が短い。
 一方、「鹿獅子」は、華やかで明るい赤系統の衣装が多く、踊り方はテンポがはやく、跳躍が見られ、軽快な感じを受ける。頭の角は鹿の角を模して長く枝分かれしている。

 このように「熊」と「鹿」では、まったく対照的になっているのは興味深いことである。


 さて、その歴史であるが・・・


 (明日につづく)
 
(429)宮田獅子舞 序説 その2 2004年12月28日(火)
 獅子踊りの歴史であるが、その発祥はマタギ(狩猟民)が発端といわれている。
 彼らは山野で捕えた獣をその場に横たえ、鹿ならば「足柄の神」、猪ならば「息吹の神」、熊なら「熊野の神」を奉り、それらの神を迎えるために、または獣の霊を慰めるために踊った夜もあったであろう。

 元来、マタギの獲物の中心となるものは、カモシカ(今でも青森県内の山中に生息している)であったので、獅子踊りの頭は古来、鹿獅子に一定していた。
 また「シシ」というのは、さまざまな獣の総称で元来「肉」のことを言い、特定の獣をさしていたわけではない。
 だから獅子踊りは猟のたびに踊られ、集団生活をするようになった人々には欠くことのできない生活信仰の糧だった。


 猟の中心となっていた鹿は、神の申し子のように信仰され、また、その供養のために鹿塚が建てられた。
 その後、狩猟生活から農耕生活に入り、米生産の神として熊の神が祭られるようになり、「熊頭」が発生した。これは鎌倉時代以降のことである。


 米生産の神として熊を祭ったところから「熊頭」は発生したといわれているが、鹿獅子とは違う熊獅子の対照的な囃子の流れはどこから来るのだろうか。


 鎌倉時代に、幕府は南津軽郡平賀町に熊野神社を建て、そのために紀州熊野山伏が、津軽に往来するようになり、権現獅子にコブを植えつけたような型の獅子頭で舞っていたというから、山伏に影響されて、熊獅子の囃子が完成していったと思われるのである。
 マタギの生活に密着した囃子と、山伏の勇壮な囃子とでは、違っていたのは当然といえる。現在では海岸地帯に近い所には鹿獅子が多く、山岳・内陸部には熊獅子が多いとされる。


 津軽藩になってからは、獅子踊りについての制約が出され、「嘉永年間省略ヶ条」の中に、獅子踊りは年に3回ぐらいにすることや、祝儀は三分の一だけ受け取ること、といった指示がある。

 農民の生活が華美に流れないよう、かなり締めつけていた形跡が見られる。


 平賀町・弘前市・黒石市などの古老の間には、獅子踊りが踊れなくなって、獅子頭を山の中に埋めたという言い伝えが伝わっている。そして、その後、日常生活に災厄が訪れ、これは獅子踊りをしないためで、獅子頭が騒ぎ出したとして、明治になって、獅子踊りを復活させた集落もあるという。


 獅子踊り研究家で、猿賀神社で毎年おこなわれている青森県獅子踊大会の審査員を務めている、葛西矯氏によると、獅子踊りのうち、「舞い」の所作には祈願を表し、「跳躍」の所作には感謝を示すという。

 これらは岩木山参拝の登山囃子・下山囃子にも通ずるそうである。

 熊獅子は「舞う」という感じが強いし、鹿獅子は「跳躍」の所作が多い。と、すると、熊獅子を山伏の信仰心の現れた「祈願の獅子」、鹿獅子を狩猟民の神への「感謝の獅子」と考えることもできる・・・

 (つづく)


 <事務局注>
 作者である秋村しおり氏の審査承認を受け、以上、こちらに掲示いたしました。
 
(430)宮田獅子舞 序説 その3 2004年12月29日(水)
 ところで、現在おこなわれている獅子踊りについてであるが、これにはいろいろな名称の踊りがある。

 神社の参道や街頭を流し踊る「街道渡り」、神前で行う儀式の「宮ぼめ」、村の家々を回るときに個人の家の前で踊る「庭ぼめの段」、そして佳境となる「山ぼめ」などである。

 「山ぼめ」は、山で暮らす人が山を恐れ、神秘におののき、山を信仰する気持ちを表現したもの。未開の山野に踏み入った獅子たちが、山や谷を越え、安住の地を求めていく。その様子は、見ているだけで展開がわかってくる。


 2匹の雄獅子が1匹の雌獅子をかばい、オカシコを道案内に立て、ムシロやゴザを橋にみたてて山野を越えて開拓に成功。安定した生活の中で獅子の恋愛が始まる。
 1匹の雌獅子に2匹の雄獅子、当然のように「雌獅子争い」となり、やがて和解し、歓喜の乱舞となり、神々に収穫をそなえ、感謝の祈りを捧げる儀式が行われる。
 以上がおおまかな踊りの筋である。


 ここで“鹿獅子”の代表として、北津軽郡中里町の中里獅子保存会の囃子による新田獅子踊りの「縄踊」をみてみよう。途中で旋法は変わるが、いずれも陽旋法であり、構成は「レミソラドレ」→「ミソラドレミ」→「ラドレミソラ」と変化している。

 同じ新田獅子踊りの「花ほめ」では、「ラドレミソラ」の陽旋法。

 「縄踊」「花ほめ」とも、青森ネブタとよく似た囃子のところがあり、獅子踊りの囃子の、青森ネブタへ与えた影響がうかがえる。

 この新田獅子踊りは、陸前松島から移入開拓に来た福士勘左ェ門が、教道したものと伝えられている。
 津軽藩主信政(1656〜1710)の時、神楽師の第一人者であった彼が、獅子踊りの普及に努め、そこで生まれ現在に至っている。新田獅子踊りは約400年もの間受け継がれてきた伝統がある。


 次に“熊獅子”の代表として、南津軽郡尾崎村の尾崎獅子舞(この地域では「青森市の宮田獅子舞」と同様、獅子踊りではなく「獅子舞」と呼んでいるが、形態は獅子踊りである)の中から「和合三角舞」を取り上げる。

 (つづく)



 <事務局注>
 以上、作者の秋村しおり氏の審査・承認を受け、こちらに文面を掲示しております。
 
(431)宮田獅子舞 序説 その4 2004年12月30日(木)
 「和合三角舞」は、3匹の獅子が渓流にかかる橋を渡り、山へ入って安住の地を求め、「山納舞」となり、その後、3匹の獅子たちが各々背を合わせて踊る。
 これは山の神の三角形を表現して安穏を祈る所作である。

 和合三角舞には「ソラドレミソ」の陽旋法が使われる。

 尾崎村は、南部七戸に至る間道として、南部・津軽の往復のあった所でもある。
 村の八幡社は尾崎権現と呼ばれ、中世には修験者が集まって、天地融合の釜立の行事がしばしば行われた。
 したがって、囃子の中に修験者の体験の節調が多く表されているのも、前述したように「熊獅子」の特徴となっている。


 さて、実際私が見ることのできたのは、青森市内宮田地区の正月行事(昭和55年)として行われた獅子舞(鹿獅子)である。
 宮田地区でも、尾崎村と同様、形態は獅子踊りであるが昔から「獅子舞」と呼び習わされている。


 宮田獅子舞の「丘咲き」に使われているのは「レミソラドレ」の陽旋法であり、太鼓は3種類のリズムで旋律を支えていた。
 「丘咲き」は、村の家々の前で、いかにも愛嬌のある面をつけたオカシコを先頭に、後の3匹の獅子が一列に並んで感謝の所作を表す踊りである。

 「道獅子」は道路を囃したてながら、3匹の獅子が円を作って跳躍の多い踊りをし、そのまわりでオカシコが踊る。
 使われているのは「ラドレミソラ」の陽旋法で、太鼓のリズムは一種類である。


 道獅子の進行係は笛吹きで、途中、踊り手が休んでいるときでも、囃子は途切れることがない。


 囃子方は、笛が5〜6人、太鼓は2人、手びらがね2人の編成であった。


 太鼓の奏者には80歳を過ぎたという高齢の男性も加わっていた。20歳前からやっているとのことである。笛は小中学生が担当していた。
 子供達の笛の指導には、ネブタの囃子から入っていくそうである。


 家々を廻る獅子舞の集団と、とりまく見物の子供達の後について、昼ごろから、終了する夕方近くまで、同行させてもらった。

 (つづく)



 <事務局注>
  以上、作者である秋村しおり氏の審査承認を受けての掲載です。
 
(432)宮田獅子舞 序説 その5 2004年12月31日(金)
 子供達は獅子の後をついて歩き、大人は獅子が近づくと「ほれー、獅子来たやー」と、各々家から出てきては、紙に包んだご祝儀や、マスに入れられたお米や御神酒を差し出す。

 3匹の獅子を誘導するオカシコ役の方は、出された御神酒に酔っぱらってしまったのか、ひょうきんな猿の面がずり落ちて、中から赤ら顔がのぞいていた。
 頭を左右に振り続ける所作だから、お酒のまわりは早い。
 地区の方たちも、それを良く知っている。

 舞う側には何も気取りはないし、見ている側も素朴に楽しんでいる。
 次々と袋に入れられていくお米と、獅子踊りに対する人々のあたたかい思いが、積み重なっていく様に感じた。


 一昨年がひどい冷害だったため、去年の獅子踊りは経費の関係上、中止することも考えられた。しかし、土地の方たちの伝統を思う気持ちが強く「やっぱり出さねばまいね」、ということになり、実現する運びになったという。


 宮田獅子舞の繰り返される囃子を何度も耳にしているうちに、頭と身体から、それが離れなくなった。土地に根づいた方たちの、「願い」のこもった囃子や舞だったからなのであろう。
 あるいは同じ血が、私の中にも流れているからなのかもしれない。
 特に太鼓の響きは心強くひかれた。幼い頃からネブタを身近にして育ってきた私の中では、太鼓の響きと空気を震わす波動、それに加わる跳躍する舞のステップは、心騒めかせるものなのだ。

 こうして、家々をまわって歩いて、終わったのは暗くなりかけている頃だった。




 手袋をしている私でさえ、体のしんまで冷たくなっていたのに、素手で笛を吹いている囃子の方たちは、どんなに大変だったろう。

 一日中歩いて疲れているはずの方たちが、終わった後で公民館に集まってくださり、わざわざ、私のためにと、獅子踊りの全行程をもう一度見せてくれたことは忘れられない。


 地区の方達の親切なあたたかい心が伝わってきて、うれしさいっぱいの感激と、耳に残った囃子の音をそのまま持って、帰りのバスに乗り込んだ・・・


  (終)


  <事務局注>
  以上、作者である秋村しおり氏の審査承認を受け掲載いたしました。


 さて、いよいよ明日は2005年のスタート、1月1日です。
 事務局日記は、明日も休まずに更新いたします。
 新年最初の連載は、秋村氏の訪ねた「宮田獅子舞」の詳細インタビュー情報です。興味深い内容が満載となっております。

 どうぞ!ご期待下さい。


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