青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2005年1月(1)>

(433)宮田獅子舞 これまでの歩み その1
(434)宮田獅子舞 これまでの歩み その2
(435)宮田獅子舞 これまでの歩み その3
(436)宮田獅子舞 これまでの歩み その4
(437)宮田獅子舞 これまでの歩み その5
(438)宮田獅子舞 これまでの歩み その6
(439)宮田獅子舞 これまでの歩み その7
(440)宮田獅子舞 これまでの歩み その8
(441)宮田獅子舞 これまでの歩み その9
(442)宮田獅子舞 これまでの歩み その10
 
(433)宮田獅子舞 これまでの歩み その1 2005年 1月 1日(土)
 新年あけましておめでとうございます。
 本年も、よろしくお願い申し上げます。

 さて、年明け最初の連載は、昨日も触れましたように、青森市の宮田獅子舞のインタビュー情報です。
 宮田獅子舞はお盆だけではなく、正月も地域の各戸まわりをして、福をふりまく、たいへんおめでたいもので、お正月の連載にふさわしいものではないかと考えております。

 昨年2004年8月11日、かつての宮田獅子舞保存会を支えてこられた和田一久氏に長時間取材し、今まで活字になることのなかったいろいろな情報をまとめました。
 ほとんどが本邦初公開となります。
 宮田獅子舞を通し、地域の除魔・授福の存在であった青森県の芸能、それを支えることにおける苦労譚など、ご覧いただければ幸いと存じます。

 それでは新年最初の連載をスタートさせることにいたします。 


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 【はじめに】

 私は宮田の獅子舞を二十数年踊ってきました。今現在はどうなっているかといいますと、中心になって活躍された会長さんも15〜6年前亡くなって、昔からの保存会は活動停止の状態です。

 その後、かつての保存会で笛を専門に教えていた我々の先輩が独立されまして、新しく会を作り、宮田地区の子どもたちを集めて指導しています。ただ、新しい会といっても、踊りや囃子は以前のスタイルがそのまま継承されていますし、使われている道具類も、獅子頭や、昔から使われている宮田獅子舞保存会の旗など、すべて今までのものが使われ、かつての保存会のお金も全額そちらに寄付されています。
 したがって、県や市の認識としても、その新しい会が「宮田獅子舞」の保存会ということで、現在、「宮田獅子舞」は、その新しい会を中心に継承されているという形をとっています。

 新しく会ができたといっても、地域の獅子舞自体は、新しく作っていくという性質のものでもないのでこれは当然なのでしょうけれど、どういった形であれ昔からの宮田獅子舞が保存されていくのであるなら、私はそれでよいと思っています。

 私は現在、新しい会の活動にはかかわっていませんが、以前のことをある程度知っておりますので、今日は、昔の宮田獅子舞保存会の様子について、少しばかりお話ししたいと思っています。



 【獅子舞という呼称について】

 宮田の場合は、形態はいわゆる「獅子踊り」なのですが、昔から「宮田獅子舞」と呼ばれてきました。
 猿賀神社でおこなわれる県の奉納大会に行ったときも、「獅子舞」の保存会なのか「獅子踊」の保存会なのかということで、よく議論になるんです。


 宮田の場合は昔から「獅子舞」と呼び習わされてきているのですが、これは主として、座敷で踊られてきたからではないかといわれています。

 実際「座敷踊り」は、新築の家があったら、私たちも家の中に入ったり、玄関などで踊ったりしてきました。
 こういったことが名称にどの程度影響しているのか、それは、実のところ私たちもよくわかっていません。
 とにかく昔から「獅子舞」と呼んできたので、以下、「獅子踊り」ではなく、「獅子舞」という表現を使わせていただきます。どうぞ、ご了解ください。


 (つづく)
 
(434)宮田獅子舞 これまでの歩み その2 2005年 1月 2日(日)
 【保存会設立の経緯】

 他の保存会では、幼少の頃から獅子に関わっているという方も少なくないようなのですが、私は20歳過ぎから獅子舞を始めました。私が獅子舞を始めることになったのも、半ば強制的で、好きで始めたというわけではないのです。その当時、保存のための「会」というものは宮田にはなかったんです。

 宮田の獅子舞は300年以上の歴史のあるものなのですが、10年ぐらいの休止状態が続いていました。
 宮田の獅子舞を私が見たというのも、子どものときだけで、その後、全然見たことがありませんでした。

 村にしっかりした保存会組織がなかったということも原因だったのでしょうが、誰か跡を継ぐだろうと、のんびり構えているうちに、当時の踊っていた年寄りたちが次々にお亡くなりになって、気がついたら、踊りを覚えている人が、たった一人になってしまったんですよ。しかも60代ぐらいの方です。
 
 この方も、いつ何があるかわかりません。

 それで、みんなが騒ぎはじめたんですよ。

 このままでは宮田の獅子舞がなくなってしまう、と。


 こうして、村の長男に、「村の獅子舞を守るのはお前たちだ」と、強制召集がかけられることになったんです。

 このときの発起人は保存会の初代会長になられた石川さんという方でした。もうお亡くなりになりましたが、当時70歳ぐらいだったと思います。

 正直なところ、召集がかかったときは、イヤイヤだったんですよ。しかし話を聞くと、このままでは獅子舞はなくなってしまうというでしょう。
 そのうち、これは大変だという考えに変わりました。しかも、私は長男で、村にいなければならない人だし、それだったら、村の何百年という伝統ある芸能を覚えようかという気持ちになって、それからは、もう真剣に取り組むことになったんです。
 こうして、今にも消滅しそうな宮田獅子舞をなんとかしようということで、召集がかかった村の長男を入れて保存会が設立されたのです。昭和44年のことです。
 宮田獅子舞は300年以上の歴史はあるものなのですが、保存会組織は、このとき初めてできました。


 せっかく保存会ができたんだから、「宮田獅子舞しおり」を作ろうということで、小笠原忠雄会長のとき、PR用に作りまして、ここに「宮田獅子舞由来」を載せました。
 以下がその文です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今からおよそ三百年前に深沢一帯を襲った大きな台風により、あちこちの川が氾濫し、田畑は流され、その濁流に尊い生命が奪われました。
 また、悪い病気が流行り、人々は不安な日々を送っていました。
 時の津軽四代藩主の信政公はこの話を聞き、大きな川すべてを獅子舞で祈祷し、川の荒れるのを鎮めさせたといいます。
 それ以来、大きな台風がなく、田畑を潤し、病気もなくなり、村は豊作が続いたと伝えられています。そして獅子は八幡宮に神として祭られ拝され続けています。

 獅子舞には大別して、熊獅子と鹿獅子があります。宮田の獅子舞は鹿獅子であります。
 それは野内川の流れが急なので、崖を自由に往来する鹿を表し、それが踊りとなり、起伏の高い笛の音と、拍子の合った太鼓のバチさばき、踊りには「丘咲き」「追い込み」「山取り」「女獅子隠し」があり、神と人間の信仰が表現されています。

 今日では、神楽の前夜祭や、豊作を祈願する村参りや新築祝いなど、農民生活に溶けこんでいます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 (つづく)
 
(435)宮田獅子舞 これまでの歩み その3 2005年 1月 3日(月)
 【初心者としてのスタート】


 さて、長男の招集がかかり、私も含め、あのとき15〜6人も集まったのかなあ。

 最初はそれぐらい集まったんですが、やっぱり、練習がたいへんだし、疲れるしというわけで、だんだんいなくなって、いなくなって、結局一年ぐらい経ってみると、最初に集まった人間で、踊り手は5〜6人ぐらいになってしまいました。


 当時、囃子方は、手びらがねとか太鼓・笛は年取った人で充分間に合っていました。しかし、踊り手が不足していたんです。

 踊りは、覚えているからできるというものでもありません。

 覚えていても、年をとると体が動かなくなってきますでしょう。
 特に宮田のは「跳ねる踊り」なのでなおさらなのです。


 若い者でないと踊れないのです。その不足していた若手を、召集のかけられた我々が補充したわけです。


 保存会ができたのが昭和44年。私は昭和22年の生まれなので、当時22歳ぐらいのときです。
 それまで宮田の獅子舞は子供のときにちょっと見たことがあるというくらいで、全然踊ったこともない状態で、まったくの初心者でした。
 当時は、獅子舞そのものにも、まったく興味がありませんでした。
 ただ、みんなで集まって、終わった後にお酒を飲んだり、いろいろな年寄りたち、つまり獅子舞の先輩ですね。彼らから獅子舞はもちろん、それ以外の昔の話が聞けたり、話し合いができる。

 そういう楽しみがあり、興味がありました。
 古老はいろいろなことを知っているでしょう。最初はそんな楽しみがあるから、獅子舞にかかわっていた。
 これが正直なところです。

 そうこうしているうちに、以後20年以上、獅子舞に、はまってしまうことになるのですけどね。


 (つづく)
 
(436)宮田獅子舞 これまでの歩み その4 2005年 1月 4日(火)
 【練習方法】

 さて、練習なのですが、かすかに覚えていた古老からようやく聞いて、踊りをマスターしていきました。そのとき、獅子舞の好きな方の家があって、その家に集まって、自宅の板の間で練習しました。狭かったですよ。六畳ぐらいの広さだったと思います。

 そこに踊り手の候補者が4人集まって指導を受けるわけです。

 踊りは獅子が三匹、サルが一匹で4名必要なのですが、最初は役割分担を決めず、全員で基本となる踊りを仕込まれました。

 囃子は生演奏ではなく、当時まだ貴重な存在であったテープレコーダーに囃子を吹き込んでやりました。どこから持ってきたのかわかりませんが、機械があったんですね。

 それを使って練習し、ようやく伝統をつなぐことができたんです。

 最後の一人となった継承者の方は、だいぶ危機感を持たれていましてね。練習となると、毎晩来て教えてくれました。やっぱり、ここで宮田獅子舞を絶やしてはなるものかという気持ちがあったのだと思います。

 宮田獅子舞は、他の保存会が持っているような昔から伝承されている巻物がありません。囃子の楽譜なども、もちろんありません。世代から世代に、耳で聞き、目で見て覚えるという方法で継承されてきたのですが、私たちも昔の踊りを知っている先輩が踊ってみせてくれるその動きを見ながら、一つ一つ覚えていったというわけです。
 最初は獅子頭なしで練習しました。
 足の動かし方、手の振り方、首の動かし方を特訓されました。
 そして、ある程度覚えたところで獅子頭をつけ、総仕上げとなるわけなのですが、年をとった人から一番指摘されるのが「腰が高い」ということです。

 宮田獅子舞は、跳ねる獅子です。しかも中腰になった状態で跳ねるので疲れるんです。だから最初はどうしても腰が高くなってしまうのです。
 
 腰が痛くてね。

 やっぱり腰が落ちてくるまでは、ある程度の熟達が必要です。
 今見ると、若い人はやっぱり腰が高いですよね。私らも、きっと最初は、そうだったんでしょう。


 こうして練習は相当やりました。
 私をはじめとし、踊り手は20代前半の初心者ばかりでしょう。人に見せるという技術のない連中ばかりでしたので、もう練習に練習でした。

 ただ、各自それぞれの仕事があり、毎日召集をかけているわけにもいかないので、一週間に1回程度しか集まって練習する時間はとれませんでした。それでも行けないときもありました。
 各自それぞれ忙しいスケジュールを調整し集まるのですが、やっぱり練習は夜になりますね。日曜の夜だったかなあ。1時間ぐらいやりました。
 それ以上となると、疲れてできませんでしたね。それぐらい、真剣に、みっちりやりました。

(つづく)
 
(437)宮田獅子舞 これまでの歩み その5 2005年 1月 5日(水)
 【猿賀神社の奉納大会への出場のこと】


 このように踊りもきついし、演目も多い。
 なにしろこっちは初心者でしょう。覚えることがたくさんあるわけです。

 なかなか完全な形で踊ることができません。
 それでも、近くの学校の運動会などで披露してはいましたが、あくまでもこれは内輪での発表ということです。

 やっぱり正式な披露は、猿賀神社で毎年おこなわれる獅子踊の奉納大会でしょう。

 多くの専門家の目に触れるわけですので、ここに出て評価され、はじめて一人前という感じになるわけです。

 宮田獅子舞保存会を昭和44年に立ち上げたものの、なかなか踊りが上達しませんで、ようやく猿賀神社に奉納に行けるようになったのが昭和49年。

 実に5年もかかっているんです。


 さて、猿賀神社に行くことになったのですが、困った問題が起こりました。

 宮田獅子舞の休止状態が長かったということもあり、古老でも、やっぱり忘れているんですよ。踊りを・・。
 途中、二ヶ所、踊りと踊りの「つなぎの部分」がどうしてもわからないんです。


 猿賀の大会に出て、つなぎがダランとしたもので、踊りがないようじゃまずいでしょう。


 かつては、必ず何かの踊りが「つなぎ」としてあったはずなのですから、その「つなぎの踊り」を私が創作することになりました。先輩方はみんな忘れていたので、仕方ありませんでした。そこで「こういうふうにやるべ」というように決め、スムーズに踊りが流れ、つながるようにしたのです。

 まあ、特別な踊りじゃなく、あくまでも「つなぎ」の部分だから創れたというところもありますが、その踊りが現在も、そのまま受け継がれています。


 おそらく、今、踊っている人は、新しく作られた部分があることを知らずに、踊っていると思います。どこが創作の部分かは後述します。


 昭和44年に保存会ができたのですが、それまで宮田の獅子舞は猿賀神社に奉納に行ったことはありませんでした。

 それが今度、初めて行くということになったわけですね。

 しかも十年以上も休止状態にあった村の獅子が、正式な場で復活、お披露目ということでしょう。


 廃れかけていた獅子舞を、みんなでがんばって残していこうと、5年かかって、ようやく復活させた・・・。村の人たちは、やっぱりね、そのことに対する喜びがあったと思うんですよ。
 廃れてきて何年も見られなかった獅子舞を見るわけだからね、やっぱり熱が入るわけですよ。

 それで猿賀神社の大会に出たとき、出演者と「村の応援団」が、国鉄バス“2台”で猿賀神社に乗り込むことになったんですよ。



 (つづく)
 
(438)宮田獅子舞 これまでの歩み その6 2005年 1月 6日(木)
 【奉納大会での成果とその後の活動】

 ・・・これにはさすがに、猿賀神社の側も驚いていました。こうしたことが、何年か続けておこなわれたんです。
 今は亡くなった保存会の会長さんが国鉄に勤務していた人だったので、バスをチャーターしやすかったということもありますが、我々保存会と応援団とで5年かかって仕上げた村の獅子舞の実力を猿賀で試してみたい。そしてその様子を見てみたい、応援したいという、村の方たちの熱意というものは大変なものがあったんです。獅子舞が復活したときの、村の方々の喜びようといったら、それは、それはたいへんなものでした。“バス2台”で猿賀の奉納大会に乗り込むぐらいですからね。想像がつくとは思いますが。

 やっぱりファンは年寄りです。おばあちゃん連中が多かったねえ。
 何百年という歴史のある村の芸能を、ここで絶やしてなるものか!
 こういった思いは、最後の踊りの継承者となった古老だけではなく、皆それぞれ、胸の内に持っていたということなのでしょうね。
 私らの踊りもそうした応援団の声援に支えられ、ずいぶん熱の入ったものになりました。

 こうして、猿賀の奉納大会で「準優勝」、「優勝」、「優勝」と、大きな評価をいただくことになったというわけなのです。

 その後、小笠原会長が亡くなるまでの20年ぐらいは活発に活動が継続することになります。
 以下が、その経歴となります。

●昭和49年8月14日(旧暦)・・・県下獅子踊大会・準優勝
●昭和50年8月14日(旧暦)・・・県下獅子踊大会・優勝
●昭和51年8月14日(旧暦)・・・県下獅子踊大会・優勝
●昭和53年1月9日・・・・・・・NHK録画
●昭和51年1月18日・・・・・・・ATV録画
●昭和54年9月3日・・・・・・・飛鳥田委員長 来青の際(市民会館)
●昭和54年9月19日・・・・・・・ロシア革命60周年記念(農業会館)
●昭和54年10月23日・・・・・・・電気通信部30周年(アラスカ会館)
●昭和54年12月2日・・・・・・・郷土芸能の夕べ(市民文化ホール)
●昭和55年1月28日・・・・・・・青森市民生協総会(教育会館)
●昭和55年8月14日(旧暦)・・・県下獅子踊大会・準優勝
●昭和55年10月4日・・・・・・・青森高等学校80周年(県営体育館)
                 青森県100年祭(県営体育館)
●昭和55年2月・・・・・・・・・青森雪まつり(総合運動公園)

 猿賀神社での奉納大会が一番大きな行事なのですが、村の行事として大きなものは二つありました。

 一つがお盆の休み中、そして、もう一つが正月の元旦・2日の村回りです。

 その他は、例えば、新築の家の「清めの踊り」をするというようなことも呼ばれればやりますが、村の定例行事は、盆と正月の村回りがあります。
 今まで踊ってきて何が大変かといって、毎年のことですが、正月の吹雪の中、村回りすることです。お盆時は雨になることもあります。雪が降ろうが、雨が降ろうが、盆と正月は、必ず我々は回りました。あれが一番大変なんです。

 (つづく)
 
(439)宮田獅子舞 これまでの歩み その7 2005年 1月 7日(金)
 【村回りのこと】

 道具は消耗品で、村回りの際、雪や雨にあたっていくと当然悪くなるので、10年ぐらいしたら替え時となります。宮田の獅子の「幕」も2回ぐらい替えました。

 あれは特別な染物なので、青森ではできませんでした。
 もちろん頼むのは青森の染物屋に頼むのですが、京都の方に送ってやってもらったらしいです。
 柄は、「青い生地に赤牡丹の構図」で、これは昔からの宮田獅子舞の伝統です。
 一着作るのに、やっぱり数万円はかかります。


 また、獅子頭の方なのですが、こちらも村回りの際、雪や雨にあたると傷んでしまいます。
 特に獅子頭の毛は、すぐに抜け落ちてしまうんです。

 そのままではみっともないので、きれいな羽の鳥をもらってきて、つぶして、羽を植えつけて修繕するということも何回かしましたよ。
 もちろん肉は、その後で、みんなでごちそうになるのですけれどね。


 獅子の道具は、古いものも新しいものも、神社に保管してあります。
 古い獅子頭は重くて踊りにくいので、獅子舞保存会を立ち上げた当時に新調しました。現在もその獅子頭が使われているはずです。
 古いほうも破棄せず、神社にちゃんと残してあります。

 しかし、あの古いものは年代物ですね。作られてから、百年以上は経っているんじゃないでしょうか。
 現在の獅子頭はボリュームのある見事なものですが、昔のは獅子頭といっても、一枚の板を張り合わせて作った簡単なものです。
 「稽古館」という青森市の施設がありますが、そこで展示するというので古い獅子頭を、何回も借りていきました。それくらい貴重な歴史あるものです。


 さて、村回りのときの踊りは、挨拶程度の踊りだけなのですが、それでも、一軒一軒となると大変です。
 この辺は、宮田町会と馬屋尻町会がくっついているんですが、戸数でいうと全部で250〜260ぐらいあり、この全部を回るんです。それを一日でやるんですから、もう、朝から晩までかかります。

 当時は、笛吹きも、子ども達がいて、囃子方の人数がそろっていたのですが、人がだんだんいなくなってきて、私が参加していた後期の頃は、囃子を吹き込んだテープを流しながら踊ったということもありました。車のスピーカーを使ってね。
 そんなこともやりましたよ。

 こうして最低でも10qぐらいは歩くことになるわけです。しかも獅子の衣装をつけてでしょう。
 冬は寒いし、夏は暑いしで、獅子の中に入った人じゃないとわからないと思いますが重労働です。人数がいれば途中で交代ということもありましたけど、いない場合は、最後まで、かぶりっぱなしということも珍しくありませんでした。それを20年ぐらい、毎年やったんですね。
 ですから、お盆とお正月は、家でのんびりしているということがありませんでした。


 村回りは、もちろんボランティア奉仕です。
 各家庭から寄付金などをもらうんですが、それらは大会に行くためのバス賃だとか、獅子の道具を直すとか、そんなところに使うので、私たちの手もとには届きません。
 それどころか、かえって出ていくお金の方が多いくらいです。獅子舞を記録しようと8o買ったり、カメラのフィルムを買ったりと、そんなことをやったりしていたものですから。


 こうしてボランティア奉仕の、大変な肉体労働なのですが、それでも村の人たちが「よく来た よく来た」と言って喜んでくれましたので、その声を聞いて、毎年続けられたという感じです。今は、大通りだけで、各戸回りはやっていないようですね。もっとも今でも回れば、それなりに歓迎されるとは思うんですが、当時は年をとった方が多かったということもあって、みんな、たいへん歓待してくれ、お酒とか、ビールとか、その季節によって出してくれました。回るときは、そのお酒をいただきながら、体をあたため回ったものです。正月時はそうでもしないと寒くて回れませんでした。

(つづく)
 
(440)宮田獅子舞 これまでの歩み その8 2005年 1月 8日(土)
 【記録保存のこと】


 獅子舞にかかわるようになってから、PTAをやったり、村の消防をやったり、さらには神社の仕事もやらなければならないなど、ずいぶん村の仕事をやらされました。
 もちろんすべては獅子舞がきっかけ。あのころはまず忙しかったね。

 お正月は、元旦は年越しを早くすませて、元旦のお参り客の準備になります。
 だから泊り込みですよ。そして、すぐ正月2日に獅子の村回りでしょ。
 ですから紅白歌合戦なんて見たことがないのですよ。


 今は、環状線の道路が走っているので電気も通っていますが、道路がなかったころは、神社に電気もなかったんですよ。
 神社は村のはずれから、さらに500mぐらい奥にありますので。
 そこで、発電機を借りてきたりして必要なときは電気を供給していました。


 私は神社の総代役を務めていますが、聞こえはいいかもしれませんが「総代」といっても、準備だなんだと草刈をやったり、提灯を下げたりなどの小間使いです。
 それを今も続けています。
 こういった神社の仕事をやらされますと、やっぱり昔のことに関心が向くものですね。
 今から26年ぐらい前に「神社の総代をやれ」と言われ、やることになったのですが、そのとき、帳簿をはじめとした資料が神社には一切ありませんでした。
 これじゃあダメだということで、帳簿などもちゃんと作り、神社の歴史も、初代からの神社の総代が誰なのかということを、何年もかかってようやく聞いて調べまして、5年ほど前に、初代から15代ぐらいまでの系譜を作りました。間違っているかもしれないので、一応、神社に掲示し、みんなに見てもらっていますが、今のところ、誰も文句を言う人がいないので、これで正解なのかなあということで、今度は、ちゃんとしたものに書こうかと考えているところです。
 宮田地区に限らず、昔の農家は、記録に残そうという意識が一般に希薄だったような気がします。

 世代間の結びつきが強かった昔は、情報の継承がスムーズにおこなわれていたので、それでも、まだよかったのでしょうが、核家族化が進み、世代間の断絶がみられ、伝統の継承がうまくいっていない今の時代は話が違ってきます。


 昔のことを知る古老が次々に消えると同時に、昔の情報もなくなってしまいますから、今ここで記録をしっかり保存しておくことは、非常に大切なことだと思います。

 神社の実務的な仕事もあるので、村の昔のことを知っておかなければならないし、また、私としても宮田の村の歴史は覚えたいという気持ちがあるんです。ですから私なりに勉強はするのですが、いかんせん、残されている資料が少ないので、そう簡単にわかるものでもなく苦労しています。

 しかし、私が関わってからの宮田獅子舞に関しては、後世の人が困らないように、記録をいろいろな媒体で残してきました。


 (つづく)
 
(441)宮田獅子舞 これまでの歩み その9 2005年 1月 9日(日)
 【オープン・リール録音機】

 ただ、残念なのは、ビデオが出るずっと前、8o映画に宮田の獅子舞を収めたのですが、その貴重なフィルムがどうしたわけか出てこないんですよ。
 どこかに紛失してしまったようなのです。
 今も探しているんですが、どうしても見つからないんです。

 しかし音の方は、しっかり残っています。オープンリール録音機器を使って、マイクを2本立て、ステレオで宮田の獅子舞12の全演目を最初から最後まで録音しました。
 当時は、まだカセットテープを使ったモノラル録音が多かった時代なのですが、高音質のステレオ録音物としてお囃子を残しています。
 これも貴重な資料です。(※青森県音楽資料保存協会で管理済)

 録音となると当時は、普通カセットテープだったのですが、やっぱりオープンリールテープは全然、「音」が違います。
 放送局はみんなオープンリールテープを使っていましたが、それも納得できる音質でした。
 ジャズとかを、良い音で聞きたかったということもありますが、やっぱり、獅子舞の囃子も良い音で録りたかったというのが購入動機の一つにありました。

 今は飾りで部屋に置いているだけですが、このオープンリールのデッキも、ソニーの一番安い方の機種ですが、欲しくてもなかなか買えなくてね・・。独身でまだ若いときで、給料もいくらももらっていないとき、月賦でようやく買えました。
 それだけに捨てられず、壊れて再生できないのですが、ここに置いています。私は昔からこういった新しい機械に興味があったので、録音機のほかにも、カメラや8o映画などに、獅子舞を記録してきました。今なら、ビデオに簡単に音も映像もデジタル収録できる時代ですけどね。当時は、こういった機械がまだ珍しかった時代です。

 私も若くてお金がなかったので、オープンリールの録音機同様、良い機械は買えなかったのですが、それでも趣味の種類が広かったので、あれこれ、一通りそろえてしまって支払いに困ったものですよ。でも、その結果、こうして宮田の獅子舞の記録が後世に残していけますので、無駄遣いしたわけではなかったとその点ではよかったと思っております。


 (つづく)


 【事務局注】
 倉庫の中に埃をかぶっていた2巻の宮田獅子舞のお囃子を収録したオープンリール録音テープを当協会ではデジタル処理し、永久保存の態勢を整えました。
 オープンリールテープであっても、アナログ録音物は時間が経過すると音質劣化が進み、最終的には音が消えてしまいます。そうならないうちの早めのデジタル処理をおこないました。
 ここに記録されている音楽は、エネルギーの奔流といった感じで、その迫力に驚きました。太鼓の低音が鮮やかに収録されているということもそうなのですが、囃子方や踊り方の狂騒的な掛け声が生々しく収録されており、荒々しい迫力に満ち満ちていました。青森ネブタもそうですが、狂ったような激しい声を発しながら宮田獅子舞も踊られるそうで、このような激しい声をお互いに掛け合うことで踊り手の意識が高まり、全体的な雰囲気が盛り立てられてゆくのだそうです。この様子が最高の音質で収録されていました。
 倉庫の中でこの音源が朽ち果てる前に保存のための処理をおこなうことができ、青森県の貴重な音楽資料がまた一つ守られました。
 ホッとしたところでございます。
 
(442)宮田獅子舞 これまでの歩み その10 2005年 1月10日(月)
 【歌詞の復元】

 こうして、宮田獅子舞保存会ができてからの記録は残したのですが、それ以前のことをいろいろ調べてみたものの、やっぱりわかりませんでした。

 やるとなると、私も、のめり込んでしまうタイプなので、ずいぶん一生懸命、勉強したり、調べたりもしたんですが、どのような歴史と経路をとって宮田に獅子舞が入ってきたのか、なにしろ300年以上も昔のことで、古文書もまったく村に残っていませんので、わかりませんでした。

 ただ、獅子舞で昔から唄われていた歌詞はなんとか復元させることができました。
 まったくそのままではないかもしれませんが、伝承されていた歌詞を復元し、意味を解読して文字に残しました。

 現在もこのように歌われています。その歌詞は次のとおりです。


@さても見事だ  このお庭
 四角四面で   マス型だ  
 四方のすみから 金がわく
 ここのご亭主は 福の神 福の神


Aさても見事だ   このお山
 すそに開いて   扇なり
 夏に緑の花が咲く 花が咲く


B奥の深山の めざさの沢から
 女獅子コを そろりそろりと 
 おびきだしたや 
 おびきだしたや


C女獅子コはこのお庭で
 女獅子 とられた
 女獅子 とられた


D獅子の子は 生まれて落ちると
 かしら ふる  
 かしら ふる


E松にからまる つたの葉は
 天に   ほごいらば
 ばらばらと ほごいろ 
 ばらばらと ほごいろ


F太鼓の胴は ぎりぎりと締めて
 ささら ほしゃくと
 尻とめたや
 尻とめたや


Gおらが国から 急ぎ戻りて
 おいとま申して
 家に帰りましょうか 
 家に帰りましょうか


(つづく)


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