青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー


<2009年9月>

(787)県庁ねぶた囃子方初代隊長語る その4
(788)県庁ねぶた囃子方初代隊長語る その5
(789)県庁ねぶた囃子方初代隊長語る その6
(790)県庁ねぶた囃子方初代隊長語る その7
 
(787)県庁ねぶた囃子方初代隊長語る その4 2009年 9月 6日(日)
 【手びらがね】


 ところで、ネブタの囃子に華をそえる「手びらがね」ですが、あれは、もともとは青森のネブタにはなかったものです。
 実際、私が県庁ネブタにかかわった当時、手びらがねは、囃子の中に入っていませんでした。
 それがあるとき、登山囃子で使う手びらがねを誰かが取り入れたんでしょう。いつ、誰が、ということはわかりませんが、パーッと広がりました。そして気がつくと、いつの間にかネブタに手びらがねが必需品となっていたのです。手びらがねは、登山囃子の影響でしょうね。
 このように、青森のネブタは、最初から決まった型があったわけではなく、時代ごとに付け足しがなされ、現在のスタイルに変化していったのです。


 手びらがねは、あれは今は1枚で1万円ぐらいします。両手に持ちますので、2枚となると2万円ですね。今は子どもたちまでそれぞれ持っていますが、小さいのに大変高価なものです。弘前に行くと、そういった祭りの道具を専門に作るところがあるようで、太鼓・笛・鉦など、ほとんど弘前で調達できるようです。

 太鼓のサイズは昔から同じで、直径が四尺五寸ぐらいでしょうか。あれが4つ並ぶわけです。

 太鼓は高価なので、枠はそのままで、皮だけ取り替えて使っています。

 皮は一度張ると、だいたい普通に使って2〜3年使えます。ただし、元気のよい者が叩くと、やっぱり平均寿命前に裂けてしまうこともあります。
 皮は、馬と牛の両方あるようですが、やっぱり牛の方が強いようですね。馬は弱いです。

 おかげさまで借り物だった太鼓などの道具も、現在では全部買うことができています。他団体は買ったはよいが、その保管場所に苦労しているようです。倉庫を借りるのも、ばかにならない経費となりますからね。県庁の場合は、あちこちに関係事務所の倉庫があるので、その点では助かっています。道具は、確か八重田の方の倉庫だったと思いますが、そこに保管されています。


 (つづく)
 
(788)県庁ねぶた囃子方初代隊長語る その5 2009年 9月13日(日)
 【笛について】


 笛は小さいときからやらないとだめです。
 小学校の三年生ぐらいからやるのが理想ですね。その際、いい音色を出す上手な人につかないとだめです。

 昔は音を聞いて、指使いをまねして覚えていったようですが、今は、どことどこを押え、どこを開くというものを、わかりやすく記した楽譜があって、それを見て合理的に覚えられるようになっています。

 歳をとってから笛を覚えようとしても、肺活量がなくなってくるので、長時間の練習に耐えられません。やはり、体力的にも記憶力の面からも、子供の頃から学習するというのが鉄則です。

 今は全部組織化され、囃子などでも各団体ごとに講習会を開いたりして習えるようになっているので、あちこちから助っ人を呼んできて、混成部隊を構成し、それぞれ微妙に異なる笛の旋律を、どのようにそろえていこうかと昔のように頭を悩ますこともなくなりました。

 ここまでの骨格を作るまでが本当に大変だったんです。手探りで、道具もなにもない状態からスタートしたわけですからね。

 私自身もネブタには縁のない十和田の出身でしたから、文字通りのゼロからの出発でした。


 (つづく)
 
(789)県庁ねぶた囃子方初代隊長語る その6 2009年 9月20日(日)
 【技術の蓄積】


 苦労の連続でしたが、昭和43年に1回、県の財政難で休んだ以外は現在まで、連続出場です。やっぱりネブタはお金がかかるんですよ。ネブタを出すとなると、ちょっとした家が一軒建つぐらいかかりますから。

 そのネブタ製作者と囃子方との交流は、ありそうなのですが、意外とないものです。作り手と囃子方とは、同じネブタでも、やはり別ものという印象です。県庁ネブタが出るずっと以前は、本当の手作りという感じだったので、まだ交流はあったようなのですが、今は、ネブタ職人がいて、より専門的になってきていますでしょ。こういった環境も影響していると思いますよ。
 昔はねぶたも小さかったんですね。今や競争でだんだん大型化してますでしょ。当時は、どこの団体も組織化しているところは少なく、県庁同様、囃子方も寄せ集めで、祭り自体も、バラバラといった印象でした。

 以前は、かつぎネブタで、ロウソクで灯をともし、それを海に流したものだそうですが、観光化が進み、花火を上げたり、海上運航も今はたいへんなにぎわいですね。やっぱり、他の団体を見て「負けられない」という競争意識があって、それが規模を大きく、祭りを派手にさせているんでしょう。今は太鼓だって、7つも8つも叩くでしょう。青森に新幹線が入ってくれば、これからもっと派手に大掛かりになっていくのかもしれませんね。

 さて、こうして参加を続けながら、努力し、囃子方の質も昔とは比べものにならないくらい上がってきました。囃子のできる人もいない、道具もないという、全部借り物の状態からスタートした当時のことが嘘のようです。

 教える人は、囃子方に一人、上手な人がいればいいんです。みんなその人の真似をすればいいんですから。私なんかも太鼓は初心者で始めたのですが、20年以上もやっていればそこそこうまくなってきます。そうした技術を若い世代に伝えてきて、その技術の積み重ねが、現在の水準に到達させたのだと思います。なにごとも「継続は力」。こうして県庁ネブタの伝統が消えることなく継承されているということを誇らしく思っています。自分たちの蒔いた種が、大樹に成長しているのを見るような感慨があるのですよ。

 初期のころとは違って、県庁囃子方も充実してきて人数は充分足りているのですが、門戸を閉ざすというのではなく、私が隊長のときは、県職員ではない飛び入りを毎年何人か受け入れていました。今はどうなっているかわかりませんが、希望者がいれば、浴衣や半天などの衣装をわたし参加してもらい、楽しんでもらっていました。


 初代隊長として最初期から20年以上やってきたのですが、県庁退職ということで、次の者に隊長職をわたしました。後を頼んだ2代目隊長の澤谷長寿氏も引退となり、現在(インタビューのおこなわれた2004年時点)は若手にバトンタッチされています。よって県庁ネブタ囃子方の隊長は、現在は3代目ということになります。


 (つづく)
 
(790)県庁ねぶた囃子方初代隊長語る その7 2009年 9月27日(日)
 【囃子方の隊長とは】


 囃子方の隊長の仕事についてお話ししますと、これは囃子という音楽部門に限定したものではなく、祭りの前後で発生するいろいろな人間関係の問題処理、また、練習などの段取り作り、また、祭り当日も安全に運行しているか全体に目配りするなど、本当に大変なものなのです。その割には「縁の下の力持ち」で目立つことなく、あまり報われるものでもありません。ネブタが本当に好きでないと務まらない仕事です。

 囃子方の隊長として忘れられない事件もあります。

 昔はハネトの数もそれほど多くなく、俗にいう「カラス」もいませんでした。わりと、みんなちゃんと衣装を着ていました。
 最近そのカラスが増えて問題になっていますが、いつだったか、カラスハネトが、県庁ネブタ内に乱入しようとしてきたことがありました。囃子方のところから入ってこようとしたらしいんですが、それを、うちの囃子方の一人が阻止しようとしたんです。
 しかし、その人がカラスの集団に殴られ意識をなくしてしまい、県病にかつぎこまれて、二ヶ月ぐらい入院したということがありました。
 あの人込みの中ですからね。いつのまに、カラスが入ってきたのか全然気がつきませんでした。私が気がついたときには、すでにやられて道路に転んでしまっていて、意識のない重態でした。カラスハネトの集団の中に引っぱられ、やられてしまったんです。一人に何人もかかって若いものが暴行したらしいんです。これじゃあ、たまったものではありませんよ。
 幸いにして、その方は元気になっておられますが、そのときは、いやいや、どうなることかと本当に心配しました。カラスについては、現在でも警察官でも暴行を受け、怪我をするくらいですからね。我々が何人でガードしても難しいでしょうね。

 囃子方の隊長というものは、囃子だけではなく、こういった不測の事態が起こらないように気を配っていなければならないんです。祭りは、予期せぬことがいろいろはじまりますから。

 囃子方の隊長は、このように、全体の管理人のような役割も受け持っています。音楽だけじゃないんですよ。

 こうして祭りの期間中は全部参加します。ですから、ねぶた期間中は、まったく家にいなかったものです。女房からは、いつもネブタの亡者といわれていましたよ。


 (つづく)


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