(795)県庁ねぶた囃子方初代隊長語る その12 |
2009年11月 1日(日) |
本日で、青森県庁ねぶたの初代囃子方隊長の小川栄吉氏のインタビュー記事を終わります。このインタビューのきっかけは、青森県庁のねぶた関連の資料が10年単位で破棄されていることを知ったからです。10年間は保存されているが、その保存期間を過ぎると、もろもろの情報が捨てられていくわけなのです。
これは、青森県庁にかぎらず、多くの伝統芸能に関連した団体がかかえる問題でもあるようです。資料は捨てられずに残されていても、その内容を詳細に知る人(古老・保存会会長など)が引継ぎ不十分のままお亡くなりになるケースも少なくなくありません。また、資料が古老の頭の中の記憶としてだけ存在している場合はもっと深刻です。その方がお亡くなりになったら、その時点で記録は失われてしまうからなのです。つまり、一定期間は保存されているが、その後は、資料が破棄されるという青森県庁と同じ状態に県内の多くの団体が置かれているというわけなのです。
青森県の様々な古くからの文化が消えかかっているといっても過言ではありません。
これではいけない、というわけで、当協会の設立趣旨にあるように、なんとか、こうした古い情報を、証言できる方がおられるうちに、「形」に残しておきたいという思いからインタビューがおこなわれました。このインタビューからまもなくして、小川氏はお亡くなりになりました。
以下は、その小川氏の最後の声です。
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【後進へのメッセージ】
こういった昔の話は、これまで特に文章に残したこともなかったので、覚えた人が退職していなくなってしまうと、忘れられ、わからなくなっていくものです。
初期の頃から、県庁ネブタに一緒にかかわってきた2代目囃子方隊長の澤谷長寿氏、さらに囃子方で苦労を共にしてきた山田芳光氏らも引退してしまいました。
こうして、話を聞いてくれ、後世に記録を残しておいてくれるということは、私だけではなく、当時かかわった他の仲間にとってもありがたいことです。
昔の苦労があって現在があるわけですから、今の囃子方の人たちにも、こういった昔の苦労話を知ってもらい、さらにこれから、囃子を盛り立てていってもらいたいと願っています。
私たちが、子どもたちのころから教えていた連中も、今や30代の中堅です。そういった人たちの手によって、県庁ネブタが、また次の世代に受け継がれ、私たちの蒔いた種が大きく育っていく・・・・。
そのことを大いに期待しています。
(終)
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(796)青森市にまつわる歌のエピソード その1 |
2009年11月 8日(日) |
青森県内の各市町村にまつわる歌があるはずですが、多くが埋もれてしまっています。そんな地域の歌を掘り起こそうと奮闘されておられるのが、藤川ツトムさんです。
藤川さんは青森市にまつわる歌を根気強く調べておられます。
その一覧は当協会ホームページの「資料倉庫」に「青森市にまつわる歌」として全リストを掲載しております。現時点で102曲。まだまだ増えそうです。
これら青森市にまつわる歌について、藤川ツトムさんが解説しておられます。これからシリーズでその楽曲解説をご紹介してまいります。
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(1)青森市民歌(戦前)
作詩 岩田芳麿
作曲 古関裕而
作詩、作曲とも中央で活躍している人たちの作である。
昭和9年コロムビアからレコードが出ている。歌は中野忠晴とコロムビア混声合唱団。当時の「青森市民読本」に掲載されており、しかも、本読本は尋常5年・6年は、毎週1時間、本読本を勉強するように義務が課せられていた。
「青森市の歴史」に掲載の楽譜と、義之栄光さん(元中学校教諭)より資料が寄せられた。大正生まれの人でこの歌を懐かしむ人が多い。
(2) 青森甚句
作詩 相馬重一
作曲 田村しげる
東奥音頭のB面として、ニットーレコードから流行民謡として発売された。歌手はマイ・フレンドという芸名だからちょっと分からない。
作詩の相馬重一は東奥日報の記者。
作曲の田村しげるは戦前戦後において活躍した作曲家で「白い花の咲くころ」「たそがれの夢」等、美しいメロディの歌が多い。
戦前の歌である。三浦竹七さん所蔵のレコードから採譜。
(3) 東奥音頭
作詩 小沼幹止
作曲 服部良一
昭和初期の歌と思われる。ニットーレコードから発売されている。
この歌は「青森甚句」とともに発売されたが、同レコードのA面。流行民謡というランクづけがされている。当時、うぐいす芸者として売れっ子の浅草美ち奴が歌っている。
レコードが見つかる前、青森市久須志の佐藤ユキエさんが口ずさんでくれたが、後に三浦竹七さん所蔵のレコードから採譜。
(つづく)
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(797)青森市にまつわる歌のエピソード その2 |
2009年11月15日(日) |
(4) 佞武多音頭
作詩 成田寛
作曲 上原げんと
戦後、青森市民の沈んだ心を癒すために、この歌は青森市が詩を一般募集し、当選詩に上原げんとが作曲したもの。
かつて国鉄に勤務し、アマチュアのテノール歌手として活躍した青森市花園町にお住まいの中掘貞勝さん所有の楽譜からとったもの。
昭和24年頃と楽譜には書いてある。さらに、中掘さんのコメントには、作詩・北野明(こぬまかんし)、作曲・桜田誠一、歌・佐々木新一の「ねぶた音頭」よりも、こちらの方が好きだと書いてあった。
(5) 青森娘
作詩 サトウ・ハチロー
作曲 上原げんと
たしか、神戸一郎がうたった歌として記憶している。県人コンビの作品。
上原げんとは、本名は上原治左衛門。上原弦人と名乗っていた時代もあった。「上海の花売娘」や「東京の花売娘」など花売娘シリーズが大ヒット。さらに、キングレコードで岡晴夫とコンビを組み、数々のヒット曲を出す。
上原家はこぞって音楽家のようで、上原賢六は、石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」「赤いハンカチ」「錆びたナイフ」で脚光を浴びた。
(6) 八甲田除雪隊の歌
作詩 竹内 博
作曲 鶴谷ミツ
昭和40年代の歌である。
作詩の竹内博は昭和41年に八甲田除雪隊の一員として活躍した人であり、自ら体験した喜び、苦しみを東奥日報紙上に発表したところ、反響著しく各地から作曲が寄せられた。その中から鶴谷ミツの曲が愛唱されている。
八甲田山に向かう途中、岩木山展望所があるが、そこに除雪に使ったブルドーザーと、この歌の句碑がある。ブルに仕掛けがあるらしく、人影に反応して歌い出す仕組みになっているようだ。「春季除雪概要」より。
(つづく)
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(798)青森市にまつわる歌のエピソード その3 |
2009年11月22日(日) |
(7) 合浦花見音頭
作詩 藤川ツトム
作曲 藤川ツトム
合浦公園は青森市の海浜公園である。
明治13年、津軽藩の庭園師だった水原衛作の手によって作られたが、時の県令の急死により、以後は私財を投じて造園に着手したが、志半ばにして過労にして倒れた。そこで弟の巳十郎がその志を引き継ぎ明治27年に、当時の青森町に園地を寄贈した。地元ゆかりの文人、賢人の句碑と、いまでは桜の名所として親しまれている。その花見風景をうたった歌である。平成7年の作品である。
(8) 外ヶ浜音頭
作詩 成田雲竹
作曲 成田雲竹
青森市油川をうたった歌である。
大浜港、蝦夷地の出入口、油川城主奥瀬善九郎、羽白等が歌いこまれている。5番目の歌詞に文治安方とあるが、戦後、初の民選知事、津島文治氏を歌ったとすれば戦後の歌ということになる。
油川地区の民謡愛好家の演奏テープから採譜。油川市民センターに勤務していた棟方清隆さんが見つけてくれた。
(9) 青森行進曲
作詩 相馬重一
作曲 貝塚正治郎
東奥日報社推薦曲である。青森小唄と同時に出た歌である。
作詩の相馬重一は東奥日報社の記者である。これに貝塚正治郎が作曲、コロムビアレコードの次田勝が歌っている。
次田勝は、昭和初期、コロムビアレコードで活躍した歌手で「野球ファン」という歌を出している。昭和の初期だから、野球の草創時代。
当時としては青森行進曲は、随分モダンな歌である。青森市が出版した「青森市の歴史」に歌詞だけを紹介している。
青森市にまつわる一連の歌さがしは、実はこの青森行進曲のメロディさがしが契機となった。油川市民センター勤務の渡辺慶隆さんから頂いたテープから採譜。
(つづく)
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(799)青森市にまつわる歌のエピソード その4 |
2009年11月29日(日) |
(10) 青森小唄
作詩 小倉三郎
作曲 奥山貞吉
この歌は、昭和初期、東奥日報社が一般から詩を募集したもので、青森市の小倉三郎が当選。これに東京の音楽家奥山貞吉が作曲し、淡谷のり子の歌で昭和7年5月10日コロムビアレコードから発売された。
作曲の奥山貞吉は大正元年「波多野バンド」に参加し、アメリカ渡航に乗り組み、アメリカの本場でジャズを学んだ。のちに横浜の花月園に進出。わが国初の常打ちダンスバンドで活躍。このメンバーの中には、後に作曲家として活躍する仁木多喜雄や服部良一もいた。
青森市造道の三浦武七さん所蔵のレコードから採譜。
(11) 青森港音頭
作詩 不明
作曲 不明
青函連絡船、妙見のさくら、合浦は夕涼み、大湊の軍港を浮城とし、淋代飛行場等を歌っているあたりからして戦前の歌であろう。
青森市中央の伊藤喜蔵さんの口ずさみから採譜。
(12) 八甲田音頭
作詩 米田一穂
作曲 陸奥明
八甲田を歌ったというよりは、酸ヶ湯温泉の方がテーマになっている。
この2人のコンビは「酸ヶ湯音頭」も作っている。戦前からあった歌のようである。
陸奥は、本名菅原陸奥人と言い、歌手菅原都々子の実父であり、三本木出身の作曲家。親子ともども古賀政男の薫陶を受け成長した。「月がとっても青いから」は親子でのヒット作。陸奥作曲の「雪の渡り鳥」は三波春夫が歌って大ヒットとなった。「気ままな一日旅行」より。
(つづく)
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