(800)青森市にまつわる歌のエピソード その5 |
2009年12月 6日(日) |
(13) 観光青森の唄
作詩 相馬末吉
作曲 陸奥明
こぬまかんし・いしだただし著の「気ままな一日旅行」によると、戦前の歌として紹介されている。
青森県における三大都市を取り上げ、弘前では弘前公園と桜、八戸では種差海岸と蕪島、青森では浅虫をテーマにしている。
パーマネントが歌詞を飾るあたり、時代を感じさせるが、演歌調の曲である。
(14) 青森みなと音頭
作詩 青草社同人
作曲 上原げんと
青森市古川の杉浦ユキエさん口ずさみと創芸企画の石田正さんの資料にもとずいて採譜。戦後青森では「港まつり」というイベントがあったので、その頃の歌と思っていたが、のちに浦町の工藤浩さんがレコードを所有しているという情報をくれた。それによると歌は、キングレコードの樋口静雄、三門順子ということがわかった。
樋口、三門は、いずれも戦前に活躍した歌手である。わりと歌われた歌のようで、聞き覚えのあるという人は多い。
(15) 構え節
作詩 不明
作曲 不明
明治の中頃、浅虫に発祥した歌と言われている。
その頃、浅虫在住の文化人たちは、ちょくちょく集まっては句会などを開いていたらしい。そのときに、誰とはなしに歌いはじめたものだそうである。
歌の中に「進上」という歌詞が出てくるが「慎重」という歌詞づけをしているものもある。詩の内容からして「進上」でも「信条」でも「心情」でも「身上」でも合う気がする。文人たちの楽天性を歌ったものである。
私(藤川ツトム)の記憶しているもの、石田正さんの資料、ミカドの天風の資料と微妙に違うが、永い年月で節も微妙に変化するもの。
(つづく)
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(801)青森市にまつわる歌のエピソード その6 |
2009年12月13日(日) |
(16) 陸奥の吹雪
作詩 落合直文
作曲 好楽居士
明治35年1月、青森歩兵第5連隊210名が八甲田山で雪中演習行軍を行ったが猛吹雪のために遭難する。その模様を克明にうたった歌である。
悲壮な出来事だが、歌自体に悲壮感はない。全国的にうたわれた歌でもある。
(17) 西師団戦功の歌
作詩 本多徳治 西塚哲郎 福田四郎
作曲 佐藤長助
第8師団は明治29年9月18日に弘前に司令部が設置され、青森・秋田・山形・岩手の4県と宮城県の栗原・登米・本吉の3郡を師団の管轄とした。日本陸軍最強師団と称されたが、第8師団傘下の西師団の満州事変(昭和6年)での戦功を讃えた歌。
青森市中央の伊藤喜蔵さんの口ずさみと、のちに勝田の柏原博さん、浦町の工藤浩さんから情報をいただいた。
(18) 第八師団凱旋の歌
作詩 赤平武雄
作曲 陸軍戸山学校
第8師団が凱旋したときの歌である。満州事変が歌われている。
青森市中央の伊藤喜蔵さんの口ずさみに、勝田の柏原博さん、浦町の工藤浩さんからの情報をもとにした。
(つづく)
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(802)青森市にまつわる歌のエピソード その7 |
2009年12月20日(日) |
(19) 歩兵第五聯隊歌
作詩 不明
作曲 不明
歩兵第五聯隊が青森に置かれたのは、明治11年5月1日。その隊歌である。
史上最強部隊として勇名をはせたが、昭和20年にアメリカ軍の猛攻にあい、フィリピンのレイテ島で玉砕した。アメリカの日本への反撃はここから烈しさを増した。「青森市の歴史」に掲載の楽譜による。
(20) 歩兵第五聯隊歌「山海関激戦の歌」
作詩 不明
作曲 不明
山海関の戦いは、満州事変から尾を引いているもので、昭和8年1月1日、中国軍と日本軍の衝突からはじまり、次第にエスカレートし、5ヵ月間戦争が続いた。歌詞にあるとおり、第五聯隊には、昭和8年1月3日に出動命令がおりた。
青森市造道の三浦竹七さんの口ずさみから採譜。歌詞はところどころ忘れている。三浦さんは、三浦甘精堂の親戚筋にあたり、かつてはバリトン歌手として青森市内で活躍した方だそうである。
(21) 桜川音頭
作詩 渡辺惣助
作曲 小山内糺
青森市桜川町会ソングである。
作詩の渡辺惣助は東奥日報社に勤務した人で、小山内糺は小学校校長先生を定年退職。在任中、青森少年合唱団の育成に尽力された方である。
ご両人とも、桜川町会の住人である。桜川町会の資料より。
(つづく)
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(803)青森市にまつわる歌のエピソード その8 |
2009年12月27日(日) |
(22) 幸畑音頭
作詩 宮本勝二
作曲 上原隆治
青森市幸畑町会ソングである。
桜川町会とともに、新興住宅団地。それだけに、隣近所の付き合いも新鮮であり、そこから自然に町会の輪を作ろうという気運が生まれるのかもしれない。旧町会ではあまり歌がなく、町会ソングは新興住宅団地に多い。
作曲の上原隆治は上原げんとの末弟であるが、平成8年5月頃に訃報が報じられた。音楽教師であった。石田正さんの資料より。
(23) 八重田盆踊り
作詩 不明
作曲 不明
「うたのほんコ」小沼幹止著より引用。民謡の発祥する条件の少なかった青森市のなかで、唯一の盆踊りである。盆踊りは村ごとに特有のものがあったが、この盆踊りは踊り子のいでたちが豪華であった。五色の御幣を花笠に長紐を結び、だらりと下げていたという。踊りの輪はどこでも同じだが、声自慢が中央で音頭をとり歌いだすと、それを輪の連中が受け、くりかえして歌う。酒盛り歌としても歌われたそうだが、今は消滅状態である。
(24) 浅虫音頭
作詩 不明
作曲 不明
昭和初期頃の歌のようである。大鰐音頭は空前のヒットとなり、大いに町の活性化につながった。そこで県内各地でも競って音頭や小唄を作った時代。これもそのひとつである。
青森市浦町奥野の鹿内文子さんの口ずさみから採譜。鹿内さんは幼少の頃、浅虫温泉に住んでいたが、小学校に入る前から芸者と一緒に踊りを習っていたそうで、「浅虫音頭」と「浅虫四季小唄」も、その頃習い覚えたもの。当時の踊りのお師匠さんは、元青森県知事竹内俊吉さんの奥さんのお母さんだったそうです。ちなみに「浅虫四季小唄」の作曲者は竹内知事の親戚筋にあたる竹内省一、のちの歌手新田八郎である。
(つづく)
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