(809)青森市にまつわる歌のエピソード その14 |
2010年 2月 7日(日) |
(40) 造道町民歌
作詩 福山正晴
作曲 佐藤勝男
作詩の福山正晴は、かつての社会党の市会議員。造道町会の50周年を祝してつくった作品のようだ。
青森市役所の棟方清隆さんから資料をいただいた。
(41) 弾部隊湖南小唄
作詩 重広三馬
作曲 勘太郎月夜唄の替え唄
「弾部隊戦記」の中で紹介している。重広三馬は弾部隊の大佐、支部長である。作詩をするのが得意のようで戦地でことあるごとに作詩をし、歌を作っていたようだ。
当時内地でヒットしていた「勘太郎月夜唄」のメロディーにのせた替え歌である。
中国大陸奥地の山間をたどった戦旅を体験した兵士たちだけの感傷が漂うと添えてある。
(42) 油川音頭
作詩 不明
作曲 不明
「昭和10年の油川町現勢一斑」にのっていたという歌である。
歌詞の中に「あれ飛行機が油川へとやってくる」とあるので戦前の歌であろう。民間に芽生えた歌ではなく、官制の歌かもしれないので、一般にはあまり歌われなかったのでは、という識者の声もある。ちなみに油川飛行場は昭和7年11月に起工している。
(つづく)
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(810)青森市にまつわる歌のエピソード その15 |
2010年 2月13日(土) |
(43) 八甲春風
作詩 露野請治(佐々木義満)
作曲 不明
昭和7年の東奥年鑑に掲載されている歌だが、曲づけされたのかどうか不明である。
その年鑑によると「東奥日報社が青森県代表民謡を募集し昭和7年3月末をもって締め切ったが、応募数実に650余点、厳選に厳選を繰り返し、左記一篇が一等に当選した。ビクターレコードに吹き込まれ発売されることになっている」とある。
東奥日報社に問い合わせたが不明の返事だった。佐々木さんは青森芸協生みの親である。
(44) 消防のうた
作詩 北敏郎・林柾次郎
作曲 不明
昭和7年の東奥年鑑によると「県消防課では、消防思想普及のため昭和6年5月、消防の歌を募集した。民謡には当選はなく、『消防の歌』左記二篇を当選作と定め、12月22日発行の消防義会報に発表した」とある。
北さんはペンネームと思われるが、林柾次郎さんは「おおシーハイル」の作詩家であり、東奥日報社の記者でもある。故人となられているので、ご子息に曲の所在を照会したが不明。
(つづく)
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(811)青森市にまつわる歌のエピソード その16 |
2010年 2月21日(日) |
(45) 油川町制施行祝歌
作詩 土門八郎
作曲 不明
青森市油川は、かつては油川村だったが、大正8年4月1日に油川町となった。その時の祝歌で、作詩の土門八郎は当時の助役であった。信望の厚い方だったといわれている。また、当時の村長は西田八郎。この資料は青森市上野の棟方清隆さんが提供してくれた。しかし、曲は見つからない。
(46) 重広連隊の歌
作詩 重広三馬
作曲 不明
当時、八戸の鮫国民学校の講堂内の一室に重広大佐の連隊長室があった。重広大佐は部下の副官や将校もあきれかえるほど、連隊の精強化に没頭したといわれており、毎日、深夜まで灯が消えることはなかったそうだ。
みずからの連隊の歌詞を作り、「作曲の心得のあるものは、将校下士官兵を問わず申し出よ」と通達してできた曲である。「弾部隊戦記」より。
(47) 第八師団熱河河北作戦の歌
作詩 不明
作曲 不明
郷土部隊第八師団の奮戦歌である。
戦いも勝ち戦であれば、自然に歌もできるのかもしれない。同時に「勝って兜の緒をしめよ」よろしく、勝っておごることなくと士気に配慮した歌かもしれない。「ああ栄光の八師団」より。
(つづく)
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(812)青森市にまつわる歌のエピソード その17 |
2010年 2月28日(日) |
(48) 鉄道唱歌(奥州線)
作詩 大和田建樹
作曲 多梅稚・田村虎蔵
「汽笛一声 新橋を・・・」の鉄道唱歌は東海道線だけだと思っていたが、東北線も、日本全国の幹線のほとんどがあることがわかった。歌は明治33年10月に作られたが、当時、上野〜青森間は奥州線と言われていた。
歌詞は大和田建樹。曲は多梅稚と田村虎蔵が別々に作曲したが、多梅稚の曲の方が一般的に知られている。
東北線の開通は明治24年9月である。
(49) 鉄道唱歌(東北線、奥羽線)
作詩 小川保・大内兆
作曲 美和充
昭和3年、鉄道省は、明治の鉄道唱歌に匹敵する「新鉄道唱歌」の作成を企画。東京日日新聞、大阪毎日新聞と提携し、歌詞と作曲を公募。
その結果、作詩では東北線は鉄道省の小川保、奥羽線では東京府の大内兆が入選。作曲は静岡県の美和充が入選した。
奥羽線(福島〜青森間)の開通は明治38年10月である。
(つづく)
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