(885)小倉尚継 論述集 その56 |
2012年 7月 3日(火) |
【美しい日本語の発声と発音 その6】
(音楽の友社・教育音楽中高版原稿、昭和62年4月号)
2、指導の実際
ロ、歌い方について
歌は小さなドラマです。
指導者も合唱団員もドラマのあらすじを知っていなければいけません。
そして一番訴えたいことはどこなのかを見極めておくべきです。
そのことが分かればレガート唱、マルカート唱のどれを選ぶか決まってきます。
しかし、声はあくまでも透明に明るく温かい色でありたいものです。
声楽理論家フックス教授は「歌唱の技法」の中で、オペラ歌手に次の五つの資質を求めています。
@良い強い声と頑強な肉体
A音楽的能力
B知性・声・技術を磨く勉学的気質
C容貌など肉体的条件
D演技に対する才能
それに彼の進歩を見つめるよい教師。
合唱についてみますとC以外はすべてあてはまります。
更に教授は「君の声で音楽をつくれ」の項で次のように加えています。
「どなりまくっていい気になっている。彼らは1音符のことは考えるが、フレーズや曲全体のことは余り考えようとしない。歌手の真の仕事は、音符を音楽に変化させることであり、偉大な作家が普通の言葉を文学に変化させてしまうのと同じであらねばならない。どういうふうにやるかが問題である」
結局、指導者の立場にある私共教師の研磨を求めていると解釈する。
邦人作品にはかなり難解な詩が使われているものもあります。自分の能力不足を嘆いたり、芸術とはこんなものだと諦めたり、それでも尚、魅力のある作品に取り組むことになります。
日本語は時間が持ちにくいけれども、構音時間の工夫により美しく鮮明な言葉で合唱できます。まして自国語であればどこに力を入れ、どこを控えるかもよく分かります。
母音が重なったときは言い直すべきとか、フレーズの扱いはどうするとか、同じ言葉の繰り返しはどうするかとか、ドラマティックかリリカルかなど、いろいろ決断すべき事があります。これらはすべて指揮者と合唱団員の歌心・詩心・勤勉さが解決してくれるでしょう。
自分自身、まだ浅学のひとことにつきますが、本テーマについての考えをのべさせて頂きました。
(つづく)
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(886)小倉尚継 論述集 その57 |
2012年 7月 4日(水) |
【九州竹田市旅日記 その1】
〜童謡作曲最優秀賞受賞のため (青高「無限」平成4年11月13日、46号掲載)
平成4年4月28日 航空便 13時20分青森空港発 14時40分羽田空港着
15時15分羽田空港発 17時 5分熊本空港着
熊本空港では背の高いハンサムな男性の出迎えを受けた。「歓迎小倉尚継様」の字幕を掲げて迎えられたのは初めてで、何か恥ずかしく、くすぐったい。空港周辺は晴れて暖かく、緑が大変に濃い。大型ワゴン車に乗せてもらい、阿蘇の町と阿蘇の山裾をまわって大分県竹田市に向かった。
阿蘇町には私が作曲した「無伴奏・あいや節幻想曲」を歌って熊本県合唱コンで優勝した古城小学校があり、指揮者の渡辺光子先生が住んでおられる。そのせいか、初めて通る道なのにとても懐かしい気がする。
道ばたにはツツジの花が咲き乱れ、その花が青森よりも大きく美しい。山を登るにつれて緑がうすくなり、杉とひばの木が多くなってきた。山桜さえ残っていて、津軽野山の風景と似てきた。
阿蘇山はスケールが大きい。四方八方全部阿蘇という感じだ。晴れているのに噴煙見えず、今日の阿蘇山はおとなしい。
車中で阿蘇山の話をして、何気なく「あ、そう」とあいづちをうってしまい、失敗した。
(つづく)
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(887)小倉尚継 論述集 その58 |
2012年 7月 5日(木) |
【九州竹田市旅日記 その2】
〜童謡作曲最優秀賞受賞のため (青高「無限」平成4年11月13日、46号掲載)
18時30分竹田市着。すぐ夕食会に出ることになっており、その会場へ向かおうとしたとき、渡辺先生からお電話があり、3日目は阿蘇町の旅館をとって下さるとのこと。
夕食会は、東京からおいでになった歌手の真理ヨシ子さんと、伴奏の北野実さんと、地元の7人位で賑やかにやっていた。それに私も加わり、竹田名物・頭料理と地酒をごちそうになった。
頭料理とは初めて聞くけれども、何のことはない、内陸部なるが故に、大きい魚の頭を大切に丁寧に煮込んで食べるというもの。
魚の味はやはり青森が日本一だ。楽しい時間の中で音楽と人生、人物論に花を咲かせ、午後11時就寝。
(つづく)
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(888)小倉尚継 論述集 その59 |
2012年 7月 9日(月) |
【九州竹田市旅日記 その3】
〜童謡作曲最優秀賞受賞のため (青高「無限」平成4年11月13日、46号掲載)
4月29日9時、市教委学務課長さんと観光課の堀さんのお迎えがあり。案内されたところが「佐藤義美公園」であった。
静かな狭いところで、わき水が流れ、童謡作詞家・佐藤義美先生のブロンズの碑が建てられていた。眼鏡をかけ、ベレー帽をかぶり、いかにも文人という顔の隣に「月の中には菜の花がいっぱい」という、ご本人作の詩の一部が刻まれていた。この人が今作曲コンクールの立て役者で、佐藤義美賞童謡作曲コンクールが正式名称である。「犬のおまわりさん」の童謡は知っているが、この方の作詞とは知らなかったし、竹田市ご出身とは考えもしなかったのである。
さて、やがて司会者が立ち進み、これから佐藤義美顕彰式を行うことを告げた。役目を担当する若者達と、清掃を奉仕した老人クラブの方々が並び、静けさの中でそれが進められた。ラジカセからは大中恩作曲の「月の中」の混声合唱が流されていた。
この中にいる自分は、青森にいれば今頃は藤岡先生とカレイを釣っているのだろう。その自分が全く別人のように思えて、献花をしても礼をしても、誰か別人の行動のように思えて仕方なかった。
記念写真を撮り、堀さんの御案内で岡城址を見学に行くことになった。竹田市の全体が、中国の絵を思わせるような凹凸の多い地形だが、この城跡は尚一層それが激しい。しかし、それを巧みに使って、自然と人工の要塞とした先人の知恵と実行力には、驚くばかりである。弘前城が平面的であるのにくらべ、ここは徹底して立体的であり、城壁のあちこちが恐ろしいまでに険しく、絶対に敵に攻め込まれる心配はない。
12歳頃の滝廉太郎がここで遊んだというが、子供達が遊ぶにはあまりにも危険が多すぎる。それほど険しく、難攻不落の城だったという。前述したように、これもこの地の地質地形からくるもので、人口が2万人に減少しているのもこの地形によるものかも知れない。ちなみに青森市は浅虫から新城まで平坦で、人口は30万人である。
岡城址までのバイパスの側壁には「荒城の月」の楽譜が大きく彫り込まれていた。わずかな広場には、みかげ石で作られたピアノと実音の出るベンチが置かれていた。続いて滝廉太郎が2年4ヶ月間住んでいたという家を見学、廉太郎トンネルをくぐった。トンネル内ではセンサーが働いて「荒城の月」など3曲の旋律が演奏されることになっていた。
滝廉太郎の生涯は23年という短いものだったが、その中の2年と少し、この地に住んでいたという。見方によってはほんの些細なことを手がかりに、こんな事業を徹底して展開しているのである。いかにして旅人を誘い、町を活性化させるか、更には魅力ある町にして、この町の人々を留めておくかという、市当局の必死な姿を見たような気がした。
(つづく)
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