青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2012年7月(2)>

(889)小倉尚継 論述集 その60
(890)小倉尚継 論述集 その61
(891)小倉尚継 論述集 その62
(892)小倉尚継 論述集 その63
(893)小倉尚継 論述集 その64
 
(889)小倉尚継 論述集 その60 2012年 7月13日(金)
【九州竹田市旅日記 その4】
     〜童謡作曲最優秀賞受賞のため (青高「無限」平成4年11月13日、46号掲載)


 13時15分、表彰式開始。実行委員長さんや市長さんのご挨拶のあと、入選者発表があり表彰された。

 賞状文面「賞状、最優秀賞、小倉尚継殿。佐藤義美賞第1回竹田童謡祭作曲コンクールに出品されたあなたの作品は・・・・」。ちなみに曲名は「大きな原っぱ」です。

 大きなトロフィーと楯、主催者と新聞社からの2枚の賞状、30万円の賞金をいただいた。続いて真理ヨシ子さんによる入選曲の披露が行われた。真理さんは一生懸命声を張って歌って下さり好感・感激・幸福感。

 夜の懇親会は審査員・中田喜直先生ほか50人くらいの地元の人たちにより行われたが、乾杯の音頭は青森の私が指名され大慌て。

 最後の歌は、まず小倉のリードで「荒城の月」、幼稚園の先生リードで「犬のおまわりさん」、中田喜直先生リードで「メダカの学校」を歌い、おひらきとなった。

(つづく)
 
(890)小倉尚継 論述集 その61 2012年 7月14日(土)
【九州竹田市旅日記 その5】
     〜童謡作曲最優秀賞受賞のため (青高「無限」平成4年11月13日、46号掲載)


4月30日、9時29分竹田駅発の列車で熊本駅へ。一人で熊本城を見学し、その壮大さにびっくり。

14時30分熊本駅発の列車で阿蘇駅へ。タクシーで旅館へ。

夜7時、渡辺先生と音楽仲間が迎えに来て下さり、“蘇銀”という店へ連れていってもらった。そこでもう一人の女先生の合流、4人で音楽を語りながら食事をした。かなり気を使ったと見えて、熊本の方言は聞くことが出来なかった。貴重な時間を割いて下さった先生方に多謝。10時就寝。


 5月1日、9時、渡辺先生が年次休暇をとり、車で私を迎えに来て下さり、阿蘇の山々を案内して下さった。阿蘇山はやはり大きく、噴火のあとが広い範囲で生々しい。

コンクリートの避難ドームが数多く設置され、足下が今にも爆発しそうでスリルがある。駐車場が完備され、観光客も多く、いかにも火の国熊本に来ているなということが実感された。


 13時10分、熊本空港に送ってもらい、さよならをした。

 渡辺先生とは「あいや節」を通じて知り合ったというだけなのに、長い間つきあっていただいて、先生どうもありがとう。

 14時10分熊本空港発、東京へ。快晴の瀬戸内海上空から、地図とそっくりな日本の地形を見下ろし、その美しさと予想外な広さに感心しながら、九州竹田市の旅を閉じることとなった。


(つづく)
 
(891)小倉尚継 論述集 その62 2012年 7月17日(火)
【合唱のいのち求めて その1】
 岩手県高教研講演要旨(昭和60年頃)


1 初めに

 ただ今ご紹介いただきました青森県の小倉尚継です。

 岩手県の先生方の前で合唱のお話をするためには、私は余りにも経験が浅く、実績も薄いことは重々承知いたしております。しかし、先生方にお会いできるということは、大きな魅力でございましたので、あえて恥を忍んでお引き受けいたしたという次第でございます。どうかしばらくの間、お耳をお貸し下さいますようお願いいたします。

 さて、“合唱のいのち求めて”というテーマを出させてもらいましたが、このことは合唱を手がけておられる方ならば、どなたでもお考えになることでしょう。

 人間が作ったものを人間が歌う訳ですから、人間の心を揺り動かす何物かがあるはずです。もしも何もなく、聴く人に無駄な五分間を過ごさせたとするならば、演奏者はひとつの音楽的罪を犯した事になる。

 その演奏は、いわば、命のない合唱ということになるのではないでしょうか。

 合唱の演奏の中に生き生きと躍動する命を探し求めることは、これまで誰しもやってきたことであり、これからも永遠に続くことでありましょう。


(つづく)
 
(892)小倉尚継 論述集 その63 2012年 7月21日(土)
【合唱のいのち求めて その2】
 岩手県高教研講演要旨(昭和60年頃)


2 板柳小学校教師時代・青森オペラ研究会会員時代

 ここで、私の合唱に関わる過去をふりかえってみたいと思います。

 弘前大学教育学部小学科卒業であるため新卒当初は青森県北津軽郡板柳小学校で3年間勤務、その間、NHK合唱コンクール県大会3位が最高、私は伴奏者でした。

 同じ頃、青森市の青森オペラ研究会に通い、オペラ出演と合唱指揮をしました。このわずかな合唱経験を持って新設の女子高・青森西高校へ赴任、本格的な合唱との取り組みが始まります。



3 青森県立青森西高等学校教員時代(昭和38年4月~58年3月)

 青森西高校に赴任してから、すぐ合唱部を結成、指導者となる。生徒達は実に声が良く、優秀な人材が揃っていた。

 しかし、良い合唱とは何か、どんな合唱を作り上げたいのか、指導者としての自分にはそれがはっきり掴めていなかった。

 したがって音楽の作り方が雑で、隙間だらけで、思いやりが無く、当然の事ながら成果は上がらず、せいぜいNHK東北3位が関の山だった。

 その初期の頃、並行して男声四重唱団ブルービーバーズを昭和39年に結成、女声合唱と男声合唱の作曲を始めることになる。この創作活動が、合唱のいのちを探し求めるためには、かなり大きな力となったと思われるので、しばらくこのことについてお話ししたい。


 a    青森西高校合唱部のための女声合唱曲作曲

 津軽には豊富な民謡素材が残っている。

 そんな身近な音楽素材を歌うことは、やがて世界の音楽を理解することにつながる。何とかして若い彼女らのエネルギッシュな声で、北国の抒情と野性味を表現したいものである。ここから民謡的な歌の編作曲が始まった。


  作品例(鑑賞) @じょんから節(昭和39)  Aあいや節(昭和47)
          B地蔵祭り(昭和48)    Cお山参詣(昭和49)



  ♪ 福島西女子高校・五十嵐庸夫先生との出会い


 東北合唱コンで青森西高校の「あいや節」を聴かれた五十嵐先生が、自校の合唱部定演で演奏したいのでと、楽譜を所望された。その定演には私も招かれ、更に無伴奏合唱曲の美しい表現法を目の当たりに見ることが出来た。

 このことはわたしにとって衝撃的といえるほど大きな収穫であった。それは第一声で曲全部が解ってしまうような魅力的な声であり、隅々まで丁寧な歌い方であり、美しさを求めて揺れ動く、いかにも歌らしい音楽の姿であった。

 私はそれ以来、五十嵐先生のファンとなり、同時に先生が愛するア・カペラ合唱の虜になってしまった。先生からコダーイの合唱曲集を頂いたのもその頃でした。それから青森西高校の無伴奏合唱曲の演奏が始まった。




 b     男声四重唱団ブルービーバーズのための男声合唱曲作曲


 結成の目的は自己の歌唱能力の向上と教職の現場に清新な風を持ち込もうとするものだった。

 ダークダックスなどの持ち歌を歌っていたが、すぐ、独自のレパートリーの必要性を感じ、津軽に材を求めた創作をする。活動は昭和40年から60年頃まで。

   作品例 @津軽の糸  A今昔青森十六景  B志功ひとすじ道
       C津軽沖縄千里を越えて  D弘前城物語  Eりんご物語
       F砂子瀬風土記  G津軽昔こファンタジア


  ブルービーバーズは昭和51年2月、青森県芸術文化奨励賞受賞


(つづく)
 
(893)小倉尚継 論述集 その64 2012年 7月22日(日)
【合唱のいのち求めて その3】
 岩手県高教研講演要旨(昭和60年頃)


4 コンクールは悲喜こもごも(一部重複)

 @ 昭和47年「あいや節」を歌って東北銀賞の時は非常に残念な思いをした。この年だけは課題曲に自信があったのに。「見よ開きそめしバラを」という課題曲で、「ばらの命は短い、あんなに美しく咲いていても、もうしぼんでいる。さ、あなたも青春を楽しみなさい」という意味のフランス語の曲だった。

 フランス語は解らないので、青森明の星短大のエステル・バリ先生のご指導を受けた。すると、発音はともかくとして、そのフレーズの作り方に感動してしまった。

 曲の内容にふさわしく、感情の発露と言わんばかりの大胆な表現をなさった。ある時は体当たり的に、ある時は乙女のように。必然的な盛り上がりと自然な引き、波が寄せては返すという、そんな歌い方なのだ。非常に快いのである。

 恐らく先生の基本はグレゴリオ聖歌でしょう。素晴らしい音楽を持って居られる先生でした。なお、AN女声合唱団は同じ課題曲、同じ指揮者、自由曲が高田三郎作曲「雪の日に」で、一般の部金賞だった。


 A 昭和55年、コダーイの「聖霊降臨の村祭り」を歌って東北銀。マジャール語の発音が良くないと書かれたので、翌56年、札幌市で行われた国際コダーイシンポジウム合唱祭のコンクールに参加した。このコンクールはハンガリーの審査員が審査なさる。

 「もぐらの結婚式」「レンジェルラッスロー」「天使と羊飼い」の3曲を歌った。
結果は最優秀賞だった。通訳を通しての批評は次の通り。

 「動物や虫たちが賑やかに結婚式を祝ってる様子が見えるようでとても楽しい」
 「ハンガリー人がドイツ人にいじめられた頃が思い出され涙が出てしまった」
 「歌っているすべての乙女達が天使そのものに見えました」

 発音については正しいともそうでないとも全然触れず、私も聞きただすことはしなかった。この年の東北大会は金トップ、全国は銅止まり。


 B 昭和57年、ただ一度の全国金の年。執念深くも、もう一度「聖霊降臨の村祭り」を歌ったが県大会銀、辛うじて東北大会出場権獲得という不出来な年だった。ブルービーバーズリサイタルはこの年から無しなのだが、釣り船を買って乗り回していたので、その分手を抜いたことになったかな?と反省。生徒達にもどこか油断があったかも知れない。声が散漫で、どうしても声の輪郭が見えてこないままの県大会だったのだ。

 そこで東北大会に向けて本当に本気で取りかかることになった。

 声は心を表す。声は健康のバロメーターである。

 心身共に健康で、しっかり目標を持ったときの進歩の速さはもの凄い。小編成のアンサンブル方式を取り入れた練習は効果を上げ、声も見違えるように芯が出来てきた。


 そして東北大会は金賞、3度目の全国大会へ。

  この一年半くらい前から浜田徳昭先生の指揮法講座を受講していた。先生曰く
 「コンクールは毎年あるが、常に充実したものが出来るとは限らない。幸いにして代表に選ばれたら、チャンスは今しかないと考え、最善を尽くすべきである」

 西高校は20周年にあたるし、来年度は転勤するかも知れない。船遊びに夢中だとも見られたくないので「チャンスは今年」と思って取り組もう。

 全国大会までの一ヶ月。理想を高く掲げ直すこと。

 レコードの真似でなく、他団体の真似でもなく、この76名の生徒達と自分とでなければ出来ない個性的な合唱を作り上げていこう。

 課題曲はプーランクの「アヴェ ヴェルム コルプス」。おだやかでPの美しさが求められる。ブレスはねばっこく継ぎ足さねばならない。

 自由曲「聖霊降臨の村祭り」は2度目の演奏だが、緩急・強弱・音色等の変化を多彩に表現しよう。

 曲の内容は題の通り、宗教的な祭りと、それを祝い賑やかにはしゃぎまわる村人の様子を歌ったもので、宗教・世俗混合の曲である。

 これは自分が以前に作曲した「地蔵祭り」「お山参詣」と全く同じ路線である。いうなれば最も得意とする分野のものではないか、と、自分に自信を持たせる。

 主眼とすることは

  ・声に輝きをもたせること
  ・ピッチを安定させること
  ・切れ味鋭いこと
  ・恋人の囁きのように甘く、しかし、しっかりした進行感を
  ・やろうとすることは徹底すること
  ・陰と陽を明確に


 全国大会・広島での演奏

  前日、市の公民館にて・・・すばらしい演奏、これまで聴いたことのない演奏
               背中に鳥肌が立つような演奏

  当日、朝、NHKスタジオにて・・・全然駄目

  当日、直前練習・・・・順調。前順番の鹿児島女子高のリハ聞こえたが、同じ課題曲
             で苦戦している模様。

  当日、本番・・・最高、体育館ながら残響が聞こえ心地よかった。全力を出して全く
          悔い無し。初の全国金賞、胴上げされた。



5 学んだこと


 1 合唱団員に意欲を持たせ、目標をはっきりかかげること
 2 陽と陰の表現を徹底し、丁寧であること
 3 美しさの強調をして、強く訴えかけること
 4 声が美しく生き生きしていること
 5 曲にいのちを吹き込むこと



(つづく)


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