(966) エンブリと田植踊りとの間 (1) |
2014年 5月20日(火) |
秋田県のたざわこ芸術村の「民族芸術研究所」は伝統芸能の研究では日本屈指です。
当協会の設立当初(平成15年)から、この民族芸術研究所と情報交換をしておりますが、民族芸術研究所の所長の小田島清朗氏が、青森県の芸能である「エンブリ」について、たいへん素晴らしい論文を書かれ、それをいただきました。転載の許可を得ましたので、ここに、全文を掲載いたします。
ここまで緻密に記された「エンブリ」についての文書は、それほど多くはありません。どうぞご覧下さい。
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エンブリと田植踊りとの間
小田島清朗(民族芸術研究所所長)
【はじめに】
山形県寒河江市で開かれた平成18年度日本歌謡学会春季大会のシンポジウム「東北の田植踊歌―風流からの歌謡史」で、研究発表者の一人・菊地和博氏は「東北地方の歴史風土と田植踊りの本質」と題する発表の中で、「青森県八戸市周辺に伝わるエンブリは、同じ豊作祈願の芸能ではあるが、田植踊りと同じ系統とは言いがたい」という発言をされた。これは後に論文として『日本歌謡研究 第46号』に掲載されている。
氏の論は、「江戸期の東北地方は冷害型の飢饉が特徴的で、稲が壊滅的である場合でも、稗というものが人々を飢饉から救った。特に盛岡藩北部、北上山地、八戸藩では、水田に稗を栽培することはめずらしくなく、八戸では昭和30年代までは稗が主食であったという伝聞も、それほど実態からかけ離れたものでない」。
「田に植える稗は、苗代や田植女による田植えを行うなど稲作とかなり類似する方法で栽培されていた。このことは民俗文化をただちに水田稲作に結びつけて考えてしまう傾向に反省をせまるものである」。「エンブリは同じ稲作上の田植踊りの芸能として扱われる場合がしばしば見受けられる。しかし、八戸周辺のエンブリと田植踊りは芸態上も異なるし発生史的に同一視してはならない。エンブリは稗や雑穀の豊作を切実に祈る北国の農民の心を表現する芸能ではあるが、八戸周辺の稲作の発展史をふまえた厳密な意味において、エンブリは稲作芸能ではない」というものである。
稗や雑穀の豊穣祈願という角度で北東北の民俗芸能をとらえ直そうとしたことは貴重な試みと思うが、八戸周辺は米より稗の収量がはるかに多く、しかも田稗の栽培は外見上、水田稲作と見分けがつかないことを論拠に、「八戸周辺で行なわれるエンブリの内実は、稗の豊穣祈願であった」と結論づけることは、いささか強引に過ぎはしないか。
「まとめ」の中で、氏は「民俗芸能は風土や社会経済的要因を下敷きにして、その地域的実態に即して分析・把握されなければならない」と主張しており、そのことに異論はないのだが、果たしてこの説は「地域的実態に即して分析・把握」されているのだろうか。
この説はどれだけ妥当なものなのか。以下、いくつかの面からエンブリの成立とその性格について考察していきたい。
(なお、八戸では「えんぶり」とひらがなで表記されているが、ここでは菊地氏にそろえカタカナで表記していくこととする)
(つづく)
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(967) エンブリと田植踊りとの間 (2) |
2014年 5月21日(水) |
【北東北の風土 気候・耕作と信仰等】
1 畑作の民俗
岩手県北から八戸周辺にかけては、北東北の中でも冷涼な気候で、かつ山野・畑が多く、水稲栽培には不向きな地域であったことは、氏の指摘する通りである。まず畑作において、小正月どのような豊穣祈願の行事と芸能があったのかを見ていきたい。
八戸周辺のものではないが、岩手県域に格好の資料があった。昭和59年岩手県教育委員会発行の『岩手の小正月行事調査報告書』。これによると、「岩手の小正月行事には、畑作に関する行事が極めて多いことに着目される」。
予祝行事として、小正月の庭田植には同時に畑作物を植立てることが一般であるし、1月14日から15日にかけて家ごとに行われるモノツクリには、ミズキの枝に団子や餅をつけて飾る他、アワボやヒエボを神棚の注連縄やミズキの枝にかけて垂れ下げる例も多いとしている。
芸能が関わる点で注目されるのは、畑作の訪問行事であるアラクマキで、「稲作を全く行うことのなかった山間地ではアラクマキが小正月の中心儀礼であった。釜石市山谷では、15日夕刻に女達4、5人が寄り鍬、竹籠を持ち近親の家を訪れ、「アラクマキに来やした」というと、その家では招じ入れ、女達は畠を掘ったり種をまくものまねをする。作業が終わると祝い唄や豊年唄を歌って踊る」。
畑の多い岩手では比較的近年までこうした習俗が残っていたが、八戸藩域にもかつては同様な文化が広がっていたのは間違いないので、これが発展していけば、菊地氏の説のようにエンブリという芸能になった可能性はあったのではないかと思われる。(但し、稗も豊穣祈願の対象であったがそれ以上に粟が重視されていたこと、稗の豊穣を単独に願う芸能は見当たらないことに留意しておきたい)
(つづく)
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(968) エンブリと田植踊りとの間 (3) |
2014年 5月25日(日) |
2 八戸藩の新田開発
しかし、八戸藩は稲作が不適だからといって、稗や粟の栽培を重視していたわけではない。八戸の地域史研究家・三浦忠司氏によると、「水稲経営が困難なこの地域にも、藩創設以来新田開発の営為は脈々として続けられており、その開発の隆盛期もほぼ全国の動向と対応するものであった」という(1)。
すなわち、「いうまでもなく幕藩体制の基礎構造をなすものは、封建的土地所有形態である石高制であり、石高制そのものは農民からの年貢米収取に規定されたから、米穀の生産増加は常に強制されざるをえなかった。
従って、「奥羽僻遠」の地たる八戸藩においても、石高制に基づく封建体制に依拠する限りこの要請は無視されえないものであった」。
八戸藩の生産規模は、正保4(1647)年の「南部領高郷村帳」によると総石高1万7343石余。それが元禄10(1697)年の「郷村御内所高帳」では総石高四万二五九九石余と、50年で3倍近くなる。
このうち各郡の水田高の比率は、三戸郡56%、九戸郡41%、志和郡91%で、全領では57%となっている(注・志和郡は盛岡南方に位置する飛び地で北上川沿岸の穀倉地帯)。「総じて八戸藩は二万石の小藩としては水田化率は低」いものだった。が、エンブリの中心地たる三戸郡で50%以上の水田化がなされていたことに留意されたい。勿論、その中の幾ばくかには稗が栽培されていた可能性はある。
八戸藩ではその後新田開発はしばらく停滞するが、藩財政再建のため、文政2(1819)年から藩権力が直接新田開発事業に乗り出し、積極的な策を展開した。
開発の対象地となったのは馬淵川最下流部の長苗代地方で、水田化率はすでに80%を超える水田生産に基盤を置いた村落だった(これは、藩の総力をあげたにもかかわらず、開田に伴う稲作の栽培が凶作を誘引し、天保3年からの大冷害続発で失敗に終わるのだが)。
こうした米重視の体制が人々の意識にどのような影響を与えていたかが問題だと思われる。
(つづく)
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