(969) エンブリと田植踊りとの間 (4) |
2014年 6月 8日(日) |
3 米の価値観
菊地氏が、「田稗」の栽培方法を事細かに記述していると紹介している「軽邑耕作鈔」を著した九戸郡軽米村の豪農兼実業家・淵澤圓右衛門は、「遺言」の中で凶作に対する心得として、「我等しき(注・賎しき者)の貯ふべきハ稗也」と、冷害常襲地帯の者は稗をいのちの糧にしていくのだと述べる一方、自身は水田五町歩余を有している。
「行余力の有る時ハ新田開発の場所を見立て、類を殖すべき事を念ふべし」と新田開発も推奨している。夏にしばしば北東からの冷たいヤマセ(山背風)が吹きつける山間の、稲作には全く条件の悪い地でなぜそれほど水稲栽培にこだわるのか。
『日本農業全書第二巻』(農山漁村文化協会刊)の古沢典夫氏の「解題」によると、圓右衛門は水田の自作はなく、すべてを小作に出していた。「刈分小作では水田が有利であり、開田に伴う免租優遇措置(三年)も見逃せない。また、収納した米は酒造原料に回され、元屋(引用者注・淵澤家の屋号。人を使い、酒造業も営んでいた)の発展に大きく貢献したことはいうまでもない。米は統制品であり武士の俸禄でもあったから、その大量入手はとくに畑作地帯では容易でなく、したがって水田では畑よりも小作地として有利な比率が生じたのである。」
つまり、米は容易には穫れない地域だからこそより貴重な物となり、現実的な思考で経営をしていた淵澤圓右衛門は、リスクをおかしてでも水稲栽培を組み入れていたのである。
米が穫れなければ穫れないほど、米への憧れは増し、稲の稔りへの願望は切実なものとなる。八戸地方の人々にとって、「米は単に食糧というだけでなく、人の生命力を支える根源だとまで信じられている。瀕死の病人の枕元で、竹筒に入れた米をふってその音を聞かせ、回復を祈るとか、産婦に生米をかませて力をつけようとすることは、実際に行なわれてきた」という(2)。
米は、呪力を持った「聖なる穀物」であると認識せられていた。八戸地方の山伏神楽で、米は「お散米」として「権現舞」「山の神舞」「鳥舞」等、随所に播かれる(3)。「権現舞」では別当が盆に盛った米を獅子頭に播くと頭を振りつつ米を噛む。その時の歌は、
○おう御砂子世にや千代守る世になればや
尚まく御砂子は祝い留まる祝い留まるヨーホー
○おう初春はや七五三の神に現れでや
悪魔を外に福は入ります福は入りますヨーホー
であり、世をことほぐもの、悪魔をはらい福をもたらす力をもったものとして歌い込まれている。
こうした土壌の上で、小正月に踊られてきたのがエンブリである。
(つづく)
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(970) エンブリと田植踊りとの間 (5) |
2014年 6月25日(水) |
【2 エンブリの詞章】
「エンブリは稲作芸能ではない。稗や雑穀の豊作を切実に祈る芸能である」と菊地氏は言うのだが、ではエンブリという芸能の中にそれらは具体的にどのように表われているのだろうか。
エンブリの詞章を見ていきたい。
現存する中で最も古い詞章と目されるのは、菅江真澄が文化年間に編んだ「ひなの一ふし」中の「おなし国風俗八戸田植踊」である。「ゑんぶりずりの藤九郎か参た」で始まる「ヤン重郎」の口上の後、唄が記されている(4)。
○鎌倉のヲナン、御所の庭でよねを搗く、女の数は三十三人、杵の数は三十三本、よねをつくやアエ、前田千刈、つぼ穂でそろた、七穂て八升、八穂で九升取る。(以下略)
米の豊穣を歌い上げた、祝儀性の強い歌である。
では、現在、八戸で演じられているエンブリの詞章では、どのような構成で何がうたわれているのか。詞は組によって若干差異があるが、いずれもさほど大きな違いではない。『えんぶり詞集』の冒頭にある「横町えんぶり」の詞で見ていくこととする。(横町えんぶりは「どうさいえんぶり」より古形を保つ「ながえんぶり」である)
まず、「前摺(初手唄)」として
○正月の祝に松の葉をば手に持ちて 祝てかざるものかな
○今日は日も良い種おろし 何石おろして千石種おろし 千石千俵に腰かけて 黄金の楊枝をくわえて 川越は繁昌する 千石千斗と吹き合せ
○代を掻くには白の馬 婿にさいせん取らせて 花のこわきは馬を呼ぶ 花の婿に取らせた
の三首があり、「種おろし」と「代かき」の作業が、めでたい言葉を連ねて歌われている。
この後、囃子舞である「松の舞」や「えんこえんこ」等をはさみ、「中摺」が行なわれる。通常は一度だが横町の場合、前半と後半の二度にわたって「中摺」がある。
前半のものは、
○苗取り川の中の瀬を 露をばふみおろし なよにそれを取らない 袖は濡れるし取らない かえどりあげてとらないか
○鎌倉の早乙女 五月召したる帷子 上と下は蓬菖蒲 中はうづら卯の花 卯の花は咲き乱れ 今は御所の盛りだ
と、「苗取り」と「早乙女」「五月」、つまり「田植え」が歌われる。
続いて「田の神の昼休み」「恵比須舞」等があり、「中摺」の後半となる。
○一本植えれば千本となる これこそ早生の種かな ようふくでもあれかせ 波の穂でもあれかせ 七穂八升八穂九升
○千刈田の水口に 咲いたる花は何の花か 銭花か金花か これこそ長者のなり花か
○前田の稲は刈頃だ 鎌を打て鍛冶殿やい 何の刃形に打てとやい 三日月刃形に打て鍛冶殿やい
○渡り田の稲をば 嫁に三把かつがせた かつぐにもかついだ 三束三把かついだ 其の稲の石高は 三石三斗三升三合
と、「稲刈り」「稲運び」を歌う。
最後は、「後摺(摺おさめ)」である。
○これの旦那様は今栄える 四方の隅に倉を立て ちょうの口を揃えて こんてつてつと積み納め
○鎌倉の小下りに 黄金の倉九つ 蔵主は四十四頃と見えまする
○これの旦那様の中の間 小金花は三つ蕾 其の花の開いた時 呼ぶも呼ばれたし 金持長者と呼んでいる(以下略)
こうして、「前摺」「中摺」「後摺」で、種おろしから収穫後までの稲作過程を一連のものとして歌いこんでいること、かつ全編祝儀性に満ちていることが特徴といえる。
これらから稗や粟等の豊穣祈願の表現を見出すことはできない。また、菊地氏は「エンブリは稲作芸能ではない。ただし、現在ではエンブリはすぐれて稲作芸能の役割をはたしていることは確かである」とも述べているのだが、これらの詞章の古風さ―「鎌倉繁栄の記憶がまだ人々の頭から去らなかった頃のものがその元歌ではなかったかと思われる」鎌倉歌などを見ても、「稲作芸能の役割」が古来からのものであることをうかがわせる。
(つづく)
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(971) エンブリと田植踊りとの間 (6) |
2014年 6月28日(土) |
【3 田植踊りとの関連】
寒河江での大会では、これまで各県毎に異なった基準で研究されてきた田植踊りを東北全体の視野で見ていく必要が提起され、大きな示唆を得た。エンブリを論ずる際にもこうした視点が不可欠であり、そのことで八戸周辺のエンブリの本質がよりくっきり見えてくるのではないかと思う。
勿論、「田植踊りと同種の芸能に春田打ちやエンブリなどもあるが、春田打ちは田打ちを、エンブリはエブリスリを芸能の中心にしているため、田植の場を中心にしている田植踊とは異なる」と見るむきもある。そのことの当否も含めて考えていきたい。
(1)詞章の共通性
エンブリでうたわれている詞章は、東北各地の田植踊りの中に似たようなものがいくつも見受けられる。
たとえば、前掲の「前摺」の冒頭の
○正月の祝に松の葉をば手に持ちて 祝うてかざるものかな
と類似の歌が、岩手県北上市和賀町「煤孫田植踊り」の「初田植」にある。
*ソーレナヤーウエ お年男の祝とて 松の葉をば手にもちて
ソーレナヤーウエ 松の葉をば手に持ちて 祝なるものかな
「中摺」の中の歌では
○千刈田の水口に 咲いたる花は何の花か 銭花か金花か これこそ長者のなり花か
の類歌が、紫波郡紫波町「山屋田植踊り」の「仲踊り」にある。
*ソレナヤーハエ 朝やおりに 水や口に咲いたる花は何の花
ソレナヤーハエ 黄金花か米花か 咲いて長者となる花
同じく「中摺」の
○鎌倉の早乙女 五月召したる帷子 上と下は蓬菖蒲 中はうづら卯の花 卯の花は咲き乱れ 今は御所の盛りだ
は、盛岡市都南「見前田植踊り」の「田植歌補遺」(明治四年の手控)に
*是ハユオイ 鎌倉のナ ごをごろ姫は 五月めせしのかたびら
是ハユオイ 肩と裾は蓬菖蒲に 中は空木卯の花
が見出される。さらに、山形県東村山郡中山町の「達磨寺田植踊り」では「綾(田植の表現)」の場面で
*アソーレワヤー、鎌倉の御所のな、ごんご(奥方)はな、五月染めたるな、かたびら
アソーレワヤー、肩や裾は蓬やな、しもは菖蒲でな、前は皐月でな、卯の花
とうたわれている。
それだけではない。菅江真澄が「ひなの一ふし」で記していた
○鎌倉のヲナン 御所のニワでよねを搗く、女の数は三十三人、杵の数は三十三本
と同様の歌が、岩手県雫石町「葛根田田植踊り」では「田植え唄」として現在もうたわれている。
*それなやはえ 鎌倉のや 御所の庭に臼を立てて米つく
それなやはえ 臼は八から きぎ(杵)は十六 女の数は三十三人
さらに細かく拾っていけば、この事例は増していくに違いない。
このように、エンブリの詞章は他の田植踊りと類似のものが幾つもあることが確認できる。
しかも、田植踊りは通例稲作のいくつかの作業を表現しているが、同類の歌はいずれも「田植え」の場のものばかりである。
詞で見る限り、エンブリは田植踊りといってよいのではないか。
だが、より興味深いのは、東北各地の田植踊りの中の「えんぶり」の要素である。
(つづく)
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