青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2014年9月>

(974) エンブリと田植踊りとの間 (9)
(975) エンブリと田植踊りとの間 (10)
(976) エンブリと田植踊りとの間 (11・終)
 
(974) エンブリと田植踊りとの間 (9) 2014年 9月 8日(月)
 (その3 田植踊りの目的)


 田植踊りは東北にのみ伝承されている芸能である。
 その数は、「福島県 140、宮城県 26、岩手県 97、山形県 44」と非常に多く、廃絶したものを含めるとその伝承地は何倍にも達しよう。

 それらは、何のために踊られてきたのか。

 いうまでもなく、その主目的は稲作豊穣・五穀豊穣である。

 岩手県大船渡市の「菅生田植踊り」には、「田植踊りを踊れば豊作が来る」という言い伝えがあった。紫波郡紫波町の「山屋田植踊り」では上演に先立ち、一行は田の神の石碑に参り、お囃子を奏す。田植踊りには豊作をもたらす力があると信じられ、そのため稲作に格別の困難があった東北で広く踊られてきたのは間違いないだろう。だが、田植踊りは純粋にそのことだけのために踊られてきたのではない。

 福島県大沼郡昭和町の「両原の早乙女踊」は、「さいの神の代わりに豊作祈願と火難厄除として行うようになった」といい、同県南会津郡伊南村の「小塩の早乙女踊」は、「伊南川が度々氾濫したため、江戸時代末には水害除けと五穀の豊穣を祈って行われていた」。同郡只見町の「小林の早乙女踊」は現在、「厄年や新築・結婚などで依頼のあった家を巡る」。

 山形県東村山郡中山町の「小塩御福田田植踊」は、「五穀豊穣と無病息災を祈祷」。寒河江市の「谷沢田植踊」は、「延享年間、ため池を築く地固めにこの田植踊を始めたと伝えられる」。東根市の「小田島田植踊」は小正月、「五穀豊穣、家内安全、商売繁昌等を祈って各戸の庭先で踊」っていた。


 田植踊りは稲作豊穣を基本としながらも、各地でその地の人々の切なる願いや関心事をも目的とし、踊られてきた。田植踊りのこうした幅広い対応力は、そのまま八戸周辺のエンブリにも通底するといえよう。


 しかし、この芸能をこれら何かの祈願のためだけととらえることも実態から外れよう。これは農民たちにとって数少ない貴重な楽しみであり(それも実に身近な題材の)、演ずるほうも見るほうも心待ちにしていた。

 遠野市の「暮坪田植踊り」は15〜6年に1回しか踊られない慣わしになっていて、「一生に2回踊れるのは幸運なほう。若人達は何とかして早く踊りたいもんだと気をもんだ」という。

 岩手郡岩手町の「黒内田植踊り」は舞台正面の幕の左端に「岩手町黒内 娯楽倶楽部」の文字を染め抜き、これが豊年祈願を大義とした娯楽であったことを示している。


 田植踊りの基本形は訪問先の家々で作の予祝をする門付けであり、時には演じ手たちにとって各家から得るご祝儀が大きな目的だった場合もあろう。

 さらに、岩手県北上市和賀町の田植踊りは「幼児から年寄りまで参加しなければ成り立たない芸能」であり、村づくりの文化として取り組まれてきた。これらの要素も八戸エンブリにそのまま通じるものと思われる。


(つづく)
 
(975) エンブリと田植踊りとの間 (10) 2014年 9月23日(火)
 【4 八戸エンブリの成立】


 八戸周辺のエンブリは田植踊りの一つであったと言ったが、しかしその芸態等が、他の田植踊りと大きく異なるものであることも事実である。それらはどのようにして生じたのだろうか。


 特徴の一つ目。
 エンブリの最も大きな特徴とされる「大きな烏帽子」と「三人の太夫」は、威厳ある「エブリスリ」が特徴の仙台の「奴田植」「役人田植」、岩手の「胆沢型」と祖を同じくする同系であり、踊りの構成や採りものの形状などからして、仙台や岩手のほうが芸態をより大きく変化させたのではないかと思われる。


 特徴の二つ目。
 エンブリが、田植踊りに特有の早乙女踊り(あるいはそれに代わる鞨鼓の踊り等)を欠落させていることである。が、実はかつて早乙女踊りがあったのではないかと推測される。
「八戸藩勘定所日記」の文化二(1805)年正月12日の文中に、「来ル十五日田植罷上候ニ付例年右人数(注・前段に「三拾五人」とあり)羽織並女衣裳ニ而地織糸入帯着用仕来候」という記述が出てくる。この「女衣裳」は、早乙女踊りの衣裳だった可能性がある。

 エンブリの最後、「畔止め」でも、
○今日の早乙女は誰誰参って候、鶴子に亀子に千才子小万才子やい(横町えんぶり)
○今日の早乙女子は誰誰参って候、文福茶釜にちゃみ雑魚、鶴子に亀子に、そざいこざいこまざーこぁどぁやい(中町えんぶり)
○アー 良く植えて申したりやい、愛らし娘はメラシコに、鶴子に亀子と仙台まつ子どぁやい、チャッチャリタマコのチャッチャ子どぁやい(尻内えんぶり)
等々、いずれの組も早乙女たちの名を紹介し、しかもその名が異なっている。それはかつてエンブリに早乙女たちが存在し、その踊りがあったことの痕跡ではないかと思われる。


 特徴の三番目。
 エンブリは田植えの部分が短時間で集中的に表現され、他の田植踊りでは余興として付随的に行なわれているにすぎない祝福芸の囃子舞ならびに茶番狂言等が前面に出ていることである。
 その選択は、八戸の冬の厳しい寒気と風雪のもと、人々の感覚・嗜好がそうさせたのだろうとしか言いようがない。囃子の勢いある調子に見られるよう、港町・漁師町ならではの気風・気質も大きかったに違いない。


 特徴の四番目。エンブリは切実な稲作豊穣祈願の芸能であるという基本を保ちながら、しかし、畑地・雑穀生産が多い風土の反映がされている。
 三戸郡南郷村(現八戸市南郷区)の「荒谷えんぶり」は、田畑の守護神である「農神様を崇拝するために始めた」という伝承を有し、上北郡下田町(現おいらせ町)では、「アワボを12もならべて下げた下をくぐって、エンブリを摺ったもの」と、小正月の畑作豊穣祈願でエンブリが踊られていたという老婆たちの証言がある。烏帽子を馬の頭に見立てて表現してきた馬産地ならではの意識も当然その一つといえる。



(つづく)
 
(976) エンブリと田植踊りとの間 (11・終) 2014年 9月30日(火)
【終わりに】

 「エンブリは稲作芸能ではなく、稗の豊穣を祈願する芸能として生まれたものだ」という説を、八戸の風土、新田開発の歴史、エンブリの詞章、東北に分布する諸々の田植踊りとの関連で考察してきたが、エンブリと田植踊りの間に明確な境界線を見出すことはできなかった。


 結論は、「稲作豊穣祈願の田植踊りの中の個性的な一つが、八戸という稲作限界地に定着し、その風土の中で育まれていくうちに本質は変えず芸態として独特のものになったのがエンブリだと思われる」。


 冒頭でも触れたが、菊地氏の「稗や雑穀栽培の視座からの芸能のとらえ直し」は非常に貴重な提言と思える。氏の大胆な提起がなければ、今回この課題に取り組もうとは思わなかった。謝意を表して筆を擱く。




 注
(1)三浦忠司「八戸藩における新田開発」(『地方史研究185号』所収 1983年)
(2)『聞き書 青森の食事』(農山漁村文化協会 1986年)
(3)阿部達『八戸の民俗芸能』(八戸市発行 2001年)
(4)『菅江真澄全集第九巻』(未来社 1973年)
(5)『えんぶり詞集』(八戸えんぶり保存連合会発行 1973年)
(6)本田安次『日本古謡集』(未来社 1962年)
(7)長野隆之「田植踊歌考」(『日本歌謡研究第37号』所収 1997年)
(8)森口多里『岩手県民俗芸能誌』(錦正社 1971年)
(9)中村政太郎『山屋田植踊り』(著者発行 1975年)
(10) 本田安次『田楽・風流一』(木耳社 1967年)
(11)『中山町史 中巻』(2003年)
(12) 雫石町教育委員会編『雫石の郷土芸能』(1980年)
(13) 福島県教育委員会『福島県の民俗芸能 −福島県民俗芸能緊急調査報告書』(1991年)
(14) 『寒河江市史 中巻』(1999年)
(15)『千葉富三編遠野郷暮坪田植踊り』(暮坪田植踊保存会 1972年)
(16) 前掲『えんぶり詞集』の「中居林えんぶり」の「田植万歳」の「三八」の語りの中に、「えんぶりと申しますれや、一と摺りすれゃ福のえんぶり、ふた摺りすれゃ悪魔払いのえんぶり、三摺りすれば金のえんぶり、黄金の水はぶんぶんとはねる如くのえんぶりで御座ります」のくだりがある。
(17) 『岩手県史 第11巻 民俗篇』(1965年)。また、広島県山県郡千代田町壬生でもえぶりは、「元来、田植のはじめにあたって一切の忌みや穢れを泥中に押し込む意味があって、昔は田主か、田主の長男がこの仕事を受け持った」とされる(真下三郎『広島県の囃し田』渓水社 1991年)。
(18) 高橋勉『和賀岩崎宿の田植踊り』(著者発行 1987年)
(19) 高知県宿毛市山奈町山田でも「エブリ突き」は「タギョウジ」と呼ばれる田植えの総指揮者であるという(文化庁文化財保護部編『田植の習俗5』平凡社 1970年)。エブリとその作業者の尊重はわが国古来のものであったことが推測される。
(20)千葉雄市「宮城県の民俗芸能2」(『東北歴史博物館研究紀要2』収録 2001年)。青森県のエンブリは正統的な田植踊とは異なるとして除かれている。
(21)『菅生田植踊−中興50周年記念誌』(1986年)
(22)前掲『福島県の民俗芸能』
(23)山形県教育委員会『山形県の民俗芸能総覧』(1985年)
(24)前掲『遠野郷暮坪田植踊り』
(25)『八戸市博物館研究紀要第17号』(2002年)
(26)前掲『えんぶり詞集』
(27)  前掲『えんぶり詞集』。なお、農神は中国地方では田の神であるが、この地方では畑を含む農作物の神であり、岩手県でも農神信仰は、水田の少ない県北地域に密度濃く分布している(田中喜多美「農神信仰」、『岩手史学研究第二七号』1958年)。
(28)『下田町誌』(1979年)


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