W、すべては住民無視で 1、着艦訓練 特に激しかった1998年1月の訓練 1997年10月24日の墜落事故は身の毛のよだつようなものでした。基地沖で始まった「沖合移設工事」の海域に遊漁船が入らないように監視するため、岩国の漁協は当番で監視の小船を出していましたが、その2、2トンの小船のすぐ近くに、バリバリという大きな音をたてて垂直離発着機AV8Bハリアー攻撃機が墜落しました。50メートルか60メートルかしか離れていない所に、大きな水柱が上がり監視の小船に乗っていた浜中敏信さんは生きた心地がしなかったといいますが、それでもパイロットを救助しました。墜落したハリアーは、米海兵隊だい12飛行中隊所属で離着陸訓練(タッチアンドゴー)の最中でした。 市民が米軍機の騒音になやまされ、つねに墜落の危険にさらされているとき、1968年6月、九州大学にF4Cファントムが墜落しました。 この事故をきっかけにして、「米軍基地の滑走格を沖合に移設させよう」という「運動」がはじまりました。 それは、「日本を守るために米軍基地は必要であり、土地を提供しているのだから住民の要望もある程度きいてほしい」と主張して、日米安保条約の長期堅持の立場から「騒音被害の軽減、墜落事故被害の解消」の看板をかかげて、基地徹去を要求する運動に対抗し、それをおさえるのが目的でした。 「滑走路の沖合移設」という主張は、滑走路を沖合に移しただけ土地が返還され
返還されるどころか、基地は大規模に拡大され、新たに滑走蹄が増設されて、一段と強化される ことになりました。 岩国市民の願いは、基地のない平和なまちづ くりであり、当面の「騒音の被害と墜落事故の危険」を解消することでした。 そして、一方の「沖合移設の運動」は、その市民の切実な願いを実現するかのようによそおいながら、実際には、市民の願いにたいする重大な裏切りでした。 4 低空飛行訓練も岩国基地から 烏根県の匹見町、高知県の本山町、奈良県の十津川付、広島県の北部などでは、米軍機の低空飛行訓練によって、人々はその轟音の恐怖におののき、不安をつのらせ、危険にさらされています。 その米軍機が飛び立っているのが岩国基地であり、レーダー網をくぐって他国に侵略の殴り込み」をかけるために山肌をなめるように飛び、谷合いに急降下する訓練をくりかえしています。 1994年10月1日には、空母のイントルーダーが高知県の嶺北地方で訓練中、早明捕ダムに墜落しましたが、その原因は、高度120メートルを時速800キロで飛び、90度以上の急旋回をしてパイロットが失神したためでした。 「訓練は米本国でやれ」という要求にたいして、「米本国では、野性動物保護のためにできない」という回答があり、日本政府は「日米安保条約の目的達成のため、パイロットの技能維持は重要」だとこたえており、「日本国民は野生動物以下か」という怒りの声があがっています。 広島県北部では、パイロットの顔が見えそうなまでに急降下し、レーダー網をかいくぐるようにして、水力発電所を目標にしたと思われる低空飛行がおこなわれています。 「耳のとおい人もびっくりした」「寝た子がなきだし、牛があばれ乳の出がおちる」などの実態がつたえられ、米軍の低空飛行をやめさせるために、党派をこえた運動がひろがっています。 ここにも、住民を騒音や墜落の危険にさらし、他国にたいして干渉と介入、侵略をくりかえすアメリカの本質があらわれています。 日本共産党衆院議員中林よし子のホームページへリンク
5、つねに住民の意思をふみにじる 米軍岩国基地は、日本海軍航空隊の飛行場を、米海兵隊が戦後ただちに占領し、その後あらたに土地を接収して拡大したものです。 日本海軍が飛行場にするため土地を取り上げたのが1938年でした。日本海軍は「国家の非常時にさいし、天皇陛下がこれまでお前たちに預けておかれた土地をお返し申し上げろ」と称して、耕地約1,217.700平方メートルと、宅地約13,200平方メートルを1坪35残で買収しました。 1948年から49年にかけて、それまで東西にむいていた滑走路が、現在のように南北に改修されましたが、そのさい錦帯橋付近の河原の砂利を大量に接取して滑走路 の建設にあてたため、それが1950年のキジア台風で錦帯橋が流失する原因になった といわれています。 1951年から1957年にかけて、第一工区と第二工区、二回土地接収がおこなわれ、鉄道引込線と地下弾薬庫が建設されました。第一工区は33町歩、関係農家230戸で、 住民の反対をおしきって土地の接収が強行されました。 戦前、戦後をとわず、基地の建設はつねに住民の意思をふみにじり、環境を破壊してすすめられました。 6 いままた新たな環境破壊が いま「基地の沖合移設」と称して、基地の沖合に新たに滑走路を作る基地の拡大・強化の工事がすすめられていますが、この工事にあたっても自然環境の大規模な破壊がおこなわれています。 埋立てによって、魚介類の産卵生育の場となっている藻場42ヘクタールと、魚介類や鳥類の生態系を維持するうえで、重要な役割をはたしている干潟41ヘクタール がつぶされます。 ここに土砂をはこぶベルトコンペアーのために、はす田もつぶされ、土砂の採取によって愛宕山が約105・7ヘクタール開発され、2,200立方メートルの土砂が搬出されて姿を消します。 広大な森がなくなり、造成される予定の住宅地の排水対策にも大きな不備があり、住民の間に心配と反対の声がひろがっているのに「住民の意思」は無視されています。 基地とその拡大・強化の過程では、つねに自然環境と民主主義がふみにじられてきました。 7 犯罪が数多く発生 他国の主権を侵害し、内政に干渉、介入し侵略する軍隊は、その国の人々を虫けら同然にあつかう本質をもっており、それが数多くの犯罪にあらわれています。 岩国市発行の「基地と岩国」によれば、1972年から1993年までの間に、殺人、強姦などの凶悪犯が42件.暴行、盗犯、詐欺、わいせつ、住居侵入などをくわえると664件にのぼっています。 終戦間もない頃と、岩国から米軍がベトナムに出撃した頃には、特に狂暴な犯罪が目立ちました。 1954年9月8日。富田正一さん(当時41才)は、カモと間違えられて猟銃でうたれ、腰に貫通銃創を受けました。加害者の米軍伍長はそのまま帰国しています。 1955年7月19日夜、中村喜三郎さん(当時71才)が寿橋の上から川の中に投げこまれて即死。容擬者は基地内で取り調べられ、最高検察庁検事総長の指示で不起訴。 このような投げこみ事件が、それまでに3回おこっています。 1963年11月日本人女性が首をテレビのコードでしめられ、左胸に果物ナイフ、下腹部にドライバーとハンマーを刺されて殺されていました。一カ月後、米軍は犯人の米陸軍軍曹は南ベトナムで死んでいると発表しました。 1964年8月16日、松本正男さん(当時47才)は基地内の自転車置場で、後から米兵に鋭利な刃物で突さ刺されて即死しました。この刺殺事件に抗議してデモ行進がおこなわれました。 1998年8月1日夜11時すざ。女子高校生が花火大会から家に帰る途中、南岩国駅の近くで米兵らしい大きな男におそわれました。馬乗りになって押えつけられましたが、近所の人がかけつけて高校生はあぶないところで助けられました。男は自転車で走り去っています。 この日には、女子中学生が白人に家まで追いかけられるという出来事もあり、場所もすぐ近くでした。 |