W、すべては住民無視で

1、着艦訓練 特に激しかった1998年1月の訓練
 
米軍機の離発着、飛行訓練、エンジンテストなどによる騒音は、かねてから市民の日常生活に大きな被害を及ぼしていますが、なかでも1998年1月の空母艦載機の着艦訓練は激しいものでした。
 9日から13日までの五日間、米軍ジェット機が35時間17分着艦訓練を行いました。一日平均7時間、訓練を終わったのは真夜中の23時59分、二日目は22時51分まで四日目は一日10時間にわたって行い終わったのは21時57分でした。
 「幼い子どもがひきつけを起こした」「泣き続けて何回ももどした」「受験勉強ができない」「寝られない」「にわとりの生む卵が十分の一になった」などの苦情があいつぎました。
 岩国市や由宇町、県や防衛施設事務所や直接米軍基地に対する苦情の電話は938件で、1993年から1997年までの5年間の合計が、633件であったことにくらべても、いかに苦情件数が多かったかをあらわしています。ちなみに938件は7年分の苦情件数になります。
 1987年に、19日間で518回という抗議電話記録もありますが、今回はその7倍近いものでした。着艦訓練を行う場合は、一週間前までに日本側に連絡することになっているのに、今回はいきなり訓練をはじめ、通告は訓練をはじめて後からの連絡でした。 そしてまた、同時に訓練を行うのは3機以内と取り決められているのに、今回は6機も7機も同時に訓練を行い、それだけ爆音に絶え間がなくなりました。制限時間は夜の九時市街地や工場の上空を飛ばないという約束も無視されました。「我慢は限界、「安保条約があるからといって勝手なことをするな」苦情は抗議となって広がっていきました。
 今回の着艦訓練は空母インディペンデンスの艦載機で、イラク攻撃に出動するために特別に急がれたもので、空母は23日、横須賀を出向しペルシャ湾で配置につきましたが、その軍事攻撃では、「場合によっては核爆弾も使う」と明言しており、まったく無謀なものでした。
騒音測定の結果と苦情件数・着艦訓練の状況へのリンク
2、墜落事故ほぼ一年に一回
 


岩国基地と同基地に関連する米軍機の墜落事故は、戦後1999年1月までに45件に上っています。1975年以降のものが二十数件で、ほぼ一年に一回の割合で墜落事故を起こしています。

 基地があるのは岩国市の中心部で、滑走路の延長線上にある科学工場地帯には爆発性有毒物質が貯蔵されており、石油コンビナートのタンクも並んでおり、ここに航空機が墜落したり物を落としたりしようものなら、それこそ大惨事になると危惧されています。1998年6月25日、愛媛県伊方原発のすぐ近く2キロメートルの山中に、米軍の大型ヘリコプターCH53型が墜落し、乗員7人が死亡しました。このCH53は普天間基地所属のもので、岩国基地から帰る途中でしたが、三年前にも同じように岩国基地からの帰途、種子島南西40キロメートルの東シナ海に墜落しています。愛媛県では、1989年6月12日にも東宇和郡野村町の山中にFA18ホーネットが墜落して炎上しています。FA18ホーネットは1992年6月にも1993年12月にも墜落事故を繰り返しています。

 1997年10月24日の墜落事故は身の毛のよだつようなものでした。基地沖で始まった「沖合移設工事」の海域に遊漁船が入らないように監視するため、岩国の漁協は当番で監視の小船を出していましたが、その2、2トンの小船のすぐ近くに、バリバリという大きな音をたてて垂直離発着機AV8Bハリアー攻撃機が墜落しました。50メートルか60メートルかしか離れていない所に、大きな水柱が上がり監視の小船に乗っていた浜中敏信さんは生きた心地がしなかったといいますが、それでもパイロットを救助しました。墜落したハリアーは、米海兵隊だい12飛行中隊所属で離着陸訓練(タッチアンドゴー)の最中でした。
 岩国基地所属の米軍機が空から物を落とす事故も相次いでいます。
1997年7月、FA18Cホーネットが訓練中に「チャフバケツ」を落としましたが、この同型機は翌年一月にも同様に部品を落としており、八ヶ月間に部品落下事故が四回にのぼりました。「チャフバケツ」とは、レーダー撹乱用のアルミニュウム反射機を入れたプラスチック製の容器です。
 

3 基地被害の解消を口実に基地を拡大

 市民が米軍機の騒音になやまされ、つねに墜落の危険にさらされているとき、1968年6月、九州大学にF4Cファントムが墜落しました。
 この事故をきっかけにして、「米軍基地の滑走格を沖合に移設させよう」という「運動」がはじまりました。        それは、「日本を守るために米軍基地は必要であり、土地を提供しているのだから住民の要望もある程度きいてほしい」と主張して、日米安保条約の長期堅持の立場から「騒音被害の軽減、墜落事故被害の解消」の看板をかかげて、基地徹去を要求する運動に対抗し、それをおさえるのが目的でした。
 「滑走路の沖合移設」という主張は、滑走路を沖合に移しただけ土地が返還され
米空母艦載機による夜間着艦訓練の中止を求める決議
 
 岩国基地における米空母艦載機による夜間着艦訓練は、本市および
周辺住民に対し耐えがたい騒音被害を与えており、本年もすでに二度の通告に基づく艦載機の着艦訓練が行われ、市民からも多くの苦情が寄せられている。
 夜間着艦訓練は、児童・生徒の勉学への影響はもちろんのこと、病床に伏している者等、乳幼児から老人に至るまで、市民の生活に様々な障害を与え、その苦悩は受任の限度を超えているものといわざるを得ない。
 よって、政府におかれては、今後、岩国基地内で米空母艦載機による夜間着艦訓練を実施しないよう米軍当局に申し入れるなど、特段の配慮をしていただくよう強く要望する。
 以上決議する 
       平成3年9月27日         岩国市議会
るかのように思わせるものでしたが、もともと返還をもとめる計画はなく、跡地が
返還されるどころか、基地は大規模に拡大され、新たに滑走蹄が増設されて、一段と強化される
ことになりました。
 岩国市民の願いは、基地のない平和なまちづ
くりであり、当面の「騒音の被害と墜落事故の危険」を解消することでした。
 そして、一方の「沖合移設の運動」は、その市民の切実な願いを実現するかのようによそおいながら、実際には、市民の願いにたいする重大な裏切りでした。

4 低空飛行訓練も岩国基地から
 
烏根県の匹見町、高知県の本山町、奈良県の十津川付、広島県の北部などでは、米軍機の低空飛行訓練によって、人々はその轟音の恐怖におののき、不安をつのらせ、危険にさらされています。
 その米軍機が飛び立っているのが岩国基地であり、レーダー網をくぐって他国に侵略の殴り込み」をかけるために山肌をなめるように飛び、谷合いに急降下する訓練をくりかえしています。
1994年10月1日には、空母のイントルーダーが高知県の嶺北地方で訓練中、早明捕ダムに墜落しましたが、その原因は、高度120メートルを時速800キロで飛び、90度以上の急旋回をしてパイロットが失神したためでした。
 「訓練は米本国でやれ」という要求にたいして、「米本国では、野性動物保護のためにできない」という回答があり、日本政府は「日米安保条約の目的達成のため、パイロットの技能維持は重要」だとこたえており、「日本国民は野生動物以下か」という怒りの声があがっています。
 広島県北部では、パイロットの顔が見えそうなまでに急降下し、レーダー網をかいくぐるようにして、水力発電所を目標にしたと思われる低空飛行がおこなわれています。

「耳のとおい人もびっくりした」「寝た子がなきだし、牛があばれ乳の出がおちる」などの実態がつたえられ、米軍の低空飛行をやめさせるために、党派をこえた運動がひろがっています。
 ここにも、住民を騒音や墜落の危険にさらし、他国にたいして干渉と介入、侵略をくりかえすアメリカの本質があらわれています。
  
空の暴走族
日本共産党衆院議員中林よし子のホームページへリンク

2つの訓練空域〔エリア567〕〔ブラウンルート〕
岩国基地所属機は、すぐ近くに訓練空域を設定して訓練しています。
 日本国民の頭上で、勝手に低空飛行、対地攻撃、ドッグファイトという空中戦
訓練など、危険な訓練をおこなっています。
 その一つは、広島県千代田町から中国自動車道に沿って兵庫県北部までつづく
ブラウンルートです。
 もう一つは、広島・島根・山口・三県にまたがる「エリア567とよばれる空域です。













5、つねに住民の意思をふみにじる

米軍岩国基地は、日本海軍航空隊の飛行場を、米海兵隊が戦後ただちに占領し、その後あらたに土地を接収して拡大したものです。
 日本海軍が飛行場にするため土地を取り上げたのが1938年でした。日本海軍は「国家の非常時にさいし、天皇陛下がこれまでお前たちに預けておかれた土地をお返し申し上げろ」と称して、耕地約1,217.700平方メートルと、宅地約13,200平方メートルを1坪35残で買収しました。
1948年から49年にかけて、それまで東西にむいていた滑走路が、現在のように南北に改修されましたが、そのさい錦帯橋付近の河原の砂利を大量に接取して滑走路 の建設にあてたため、それが1950年のキジア台風で錦帯橋が流失する原因になった といわれています。                 
 1951年から1957年にかけて、第一工区と第二工区、二回土地接収がおこなわれ、鉄道引込線と地下弾薬庫が建設されました。第一工区は33町歩、関係農家230戸で、 住民の反対をおしきって土地の接収が強行されました。
 戦前、戦後をとわず、基地の建設はつねに住民の意思をふみにじり、環境を破壊してすすめられました。

6 いままた新たな環境破壊が
  いま「基地の沖合移設」と称して、基地の沖合に新たに滑走路を作る基地の拡大・強化の工事がすすめられていますが、この工事にあたっても自然環境の大規模な破壊がおこなわれています。              
 埋立てによって、魚介類の産卵生育の場となっている藻場42ヘクタールと、魚介類や鳥類の生態系を維持するうえで、重要な役割をはたしている干潟41ヘクタール がつぶされます。
 ここに土砂をはこぶベルトコンペアーのために、はす田もつぶされ、土砂の採取によって愛宕山が約105・7ヘクタール開発され、2,200立方メートルの土砂が搬出されて姿を消します。
  広大な森がなくなり、造成される予定の住宅地の排水対策にも大きな不備があり、住民の間に心配と反対の声がひろがっているのに「住民の意思」は無視されています。
 基地とその拡大・強化の過程では、つねに自然環境と民主主義がふみにじられてきました。


7 犯罪が数多く発生

  他国の主権を侵害し、内政に干渉、介入し侵略する軍隊は、その国の人々を虫けら同然にあつかう本質をもっており、それが数多くの犯罪にあらわれています。
  岩国市発行の「基地と岩国」によれば、1972年から1993年までの間に、殺人、強姦などの凶悪犯が42件.暴行、盗犯、詐欺、わいせつ、住居侵入などをくわえると664件にのぼっています。
  終戦間もない頃と、岩国から米軍がベトナムに出撃した頃には、特に狂暴な犯罪が目立ちました。           1954年9月8日。富田正一さん(当時41才)は、カモと間違えられて猟銃でうたれ、腰に貫通銃創を受けました。加害者の米軍伍長はそのまま帰国しています。
1955年7月19日夜、中村喜三郎さん(当時71才)が寿橋の上から川の中に投げこまれて即死。容擬者は基地内で取り調べられ、最高検察庁検事総長の指示で不起訴。
 このような投げこみ事件が、それまでに3回おこっています。
 1963年11月日本人女性が首をテレビのコードでしめられ、左胸に果物ナイフ、下腹部にドライバーとハンマーを刺されて殺されていました。一カ月後、米軍は犯人の米陸軍軍曹は南ベトナムで死んでいると発表しました。
 1964年8月16日、松本正男さん(当時47才)は基地内の自転車置場で、後から米兵に鋭利な刃物で突さ刺されて即死しました。この刺殺事件に抗議してデモ行進がおこなわれました。
 1998年8月1日夜11時すざ。女子高校生が花火大会から家に帰る途中、南岩国駅の近くで米兵らしい大きな男におそわれました。馬乗りになって押えつけられましたが、近所の人がかけつけて高校生はあぶないところで助けられました。男は自転車で走り去っています。
 この日には、女子中学生が白人に家まで追いかけられるという出来事もあり、場所もすぐ近くでした。