ターハイ(=大海)

 職場の廊下から見える一本の桜の枝木がみえる。
 冬枯れした辺りの風景と同化して、寒々として枝が肘を曲げるような角度をもって無骨な枝振りをみせている。
 隣に立つ元木から株わけして植えられたものなのだろう。元木は幾十にも枝が重なり、為すがままに枝を生わしてそそり立っている。
 無論冬ざれに春を待てねば可憐な花など咲かす筈もない。
 株分けした枝木の折れ曲がった枝振りを、只ぼーっと眺めている瞬間の仕事の合間の空白を噛みしめていた。

NIGHT SOUNDS/TONI SOLA & IGNASI TERRAZA

TONI SOLA-ts
IGNASI TERRAZA-p
ORIOL BORDAS-ds
MANUEL ALVAREZ-b
2000.
SWINGFONIC

1.END OF A LOVE AFFAIR 2.YOU'VE CAHNGES 3.JUST IN TIME 4.QUINTESSENCE 5.BEAUTIFUL LOVE 6.MY ROMANCE 7.AFTERNOON IN PARIS 8.CIA0,CIAO 9.DO NOTHING TILL YOU HEAR FROM ME 10.WHEN SUNNY GETS BLUE 11.NIGHT SOUNDS BLUES

 

TONI SOLA / NATURAL SOUNDS
IGNASI TERRAZA/IT'S COMING

 記念樹として植えられた木々に付着した月日の記憶が、これまで辿ってきたこの職場での趨勢を思いやられ、後幾度この枝木を眺めることがあろうかと残り1年を思う。

 5月の中旬に漸く盛りとなる花の時期が来るのだが、春とはいえまだ雪が降ることもある。
 車のタイヤをいつ替えようか迷う時期でもある。霧も多く出る季節で、濃くなると2m先も見えないこともある。
 
 そんな時期、釧路湿原の展望台にある木道を夜明け前に歩いたことがあった。湿った木道は霜で氷り滑り足を取られる。登り下りのあるその木道の先に湿原が眼下に広がる場所まで来ると、谷地坊主やタモの木々が霧靄に下半分埋まって見える幻夢的情景に、暫し呆然と眺めた。
 カメラも持たずに来たから、自分の脳裏に焼き付けようとしている内に、朝日が射して靄が晴れ、景色が一変して水墨画のようだった湿原は橙色に染まってまた美しく映えた。

 7月の半ば過ぎから短い夏が来る。汗ばむことなどない程々の陽気と爽やかな南風を受けると、近辺の川に遊びに行って涼やかな流れの音を聞きなfがら、乾いた河原の石を川面に投げ入れたりしながら過ごす。
 子供たちが幼かった頃、よくこうして河原にやってきて石投げをしたり、川に膝まで浸かって遊んでいるのを眺めていたものだったが、今は我が家の犬がその代役となって遊ぶようになった。

 9月頃から既に秋の気配がして、紅葉も間近。エメラルド色の湖でカヌーの漕ぎ納めをし、陸に上がって道東厚岸の牡蠣を炭で焼いて食べたりする。
 牡蠣の殻に残った汁を啜る。エキスが口から注がれ体内を廻る。川風に晒されパドルを漕ぎ続けた名残を留めた体には、殊更美味い。

 林道に分け入った先に、どこの川とも繋がっていないシュンクシタカラ湖というアイヌ語の名を持つ秘湖がある。
 ひっそりと人知れず佇む湖面にオシドリ等の水鳥がおり、湖の底から湖面を抜けて立ち上がっている木々の枝にとまったりするのを双眼鏡で眺めたりする。水鳥が木にとまるなど初めて見た驚き。
 カヌーで対岸まで漕ぎ着いて一休みする湖面の下に這う大樹の根の怖い程の生命力に身震いさえ起きる。
 何万年という自然の営みのひと瞬きに過ぎない瞬間に僕の命があるのを感じた後のほとぼりを宿しながら、曲がりくねった林道を下る車の直ぐ傍を鹿の群れやキタキツネが道を横切っていく。

 路面が朝方や夕暮れに凍り付き車のタイヤがスリップする魔の11月。20有余年の間に、この月に何度事故を起こしたやら。特に十勝の峠の事故で車体の半分を損壊して尚、運良く命拾いしたこともあった。

 そうして雪少ないこの道東も年末を迎える。外は寒々しさばかりが募るが、薪のはぜる音を聞きながら、背あぶりするペチカの煉瓦から伝わる安堵感と共に一年の終わりという思いがひたひたとわいてくる。

 そんな道東の一年も今年で最後だ。
 

 ターハイ=「大海」と呼ばれた大樹が登場する宮本輝の小説『森の中の海』上下を読み終えたのは年末のことだったろうか。
 
 阪神淡路の震災から10年というタイミングで読み、震災に揺れた人々の心の傷が、更には数奇な運命を辿った一組の男女から生まれた謎多い人物の来し方の全てを包んで動じない存在として描かれていた。

 あの震災が思いの外、人の運命を狂わせ、何時までも癒えない後遺症を負わせている事が物語というかたちで書かれていたが、その後震災から10年を振り返るテレビ番組を何度か見る機会があり、まさにあの物語のことが本当であったのだという実感を得たのだが、それはともかく、ターハイと呼ばれた大樹のイメージが折に触れ何かの瞬間に現れる。
 一本の木でなく、幾種類かの木々が絡み合いあるものは呑み込まれて大きな瘤を造りつつ共生してしまったターハイ。
 樹木の枝分かれのパターンや根の分岐パターンには、自然現象に起きる「道」のネットワーク・パターンの原理が働いている。それは、効率的に「最短」の道筋を求めて放散するのだ・・・と、松岡正剛の著書『花鳥風月の科学』の「道」という章に書かれている。
 「道」とは彼に言わせれば、「情報の行き来するところ」なのだ。

 ある種異形と思える木々の絡み合いや呑み込みは、自然のそうした原理に基づき何かしらの「情報」を行き交わせているなんて・・・。
 当然自然の一部であるヒトも、ヒトの創り出した文化も、そうなのだろう。
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 さて、トニ・ソライグナシ・テレーザとはそれぞれのリーダーアルバムで聴いて注目していた二人である。
 トニ・ソラのテナーは、C.ホーキンスやB.ウエブスター等の再来かと思わせ今時希有な「テナーの王道」を歩む存在だと感じていた。
 その彼と盲目のピアニスト,イグナシ・テレーサが組んで創ったアルバムがあった。
 聴けば何ら飛び抜けたことをしているわけではない。先回のジミー・コブ、マッシモ・ファラオ同様、「純正」なジャズの趣を湛えているばかりである。

 彼らこそ「ターハイ」そのものだ。ジャズという音楽が歩んだ来し方、絡み合い、捻れ、折れ曲がり、それら全てを呑み込み、そして何もなかったかのように、端然と奏でる。
 そういうタイプのものを、僕は「ターハイ」だと感じる。
 
 

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