『見えざる支配者』は2001年にケイオシアムから発売されたクトゥルー神話TRPG(以下CoCと略称)のキャンペーンであり、『エンサイクロペディア・クトゥルフ』の著者として知られるダニエル=ハームズが「そのすばらしさは筆舌に尽くしがたい」と絶賛するなど評価が高い(1)。作者のブルース=バロンは心理学者を本業としているが、CoCの制作に協力することもあり、とりわけ「正気度」に関する規則は彼の寄与が大きい。
本稿では『見えざる支配者』の第3章を中心として、その概要を解説する。なお『見えざる支配者』の原題はUnseen Masters であり、頭文字をとってUMと略称されることがある。本稿でもそれに倣うものとする。
第1章「ワイルドハント」はティンダロスの猟犬を扱ったシナリオである。ハルピン=チャマーズがティンダロスの猟犬によって惨殺されたとき、猟犬がチャマーズの死体に残していった青い漿液を分析したのはジェイムズ=モートン博士だった。「ティンダロスの猟犬」に端役として登場した彼が「ワイルドハント」では強大な敵として暴れ回る(2)。
謎の青い漿液が生体物質であることを突き止めたモートン博士は、それを体内に取り入れることによって人間は不老不死になれるのではないかという仮説を立てた。若さを熱望するモートン博士は自分自身を実験台として青い漿液の注射を行い、ティンダロスの猟犬と人間のハイブリッドと化してしまった。数十年の昏睡を経て現代に目覚めたモートン博士はティンダロスとの交信が可能になり、猟犬の大王ムイスラを地球上に招喚しようと企てるようになった。探索者たちはモートン博士を斃して彼の企てを阻止し、人類を破滅から救わなければならない。
ティンダロスの猟犬はノス=イディクを父とし、クトゥンを母とするらしい(3)。ティンダロスの猟犬に対抗する方法はいくつか存在するが、そのひとつはアインシュタインの方程式を用いるものである。アインシュタインの方程式を魔術の儀式と組み合わせて使用することにより、ヨグ=ソトースの招喚が可能になるのである。ハルピン=チャマーズが猟犬に殺される直前にアインシュタインの方程式を唱えようとしていたのも、そのためだろう。ヨグ=ソトースが降臨すると猟犬は完全に無力化されるが、顕現したヨグ=ソトースが猟犬以上の大災厄をもたらす可能性もある。
第2章「真実が汝を解き放つ」はダオロスを扱ったシナリオである。探索者の一人が『裸の真実』を読み、ダオロスに関する禁断の知識を学んでしまうところから物語は始まる。ダオロスが見せる真実の忌まわしさに耐えきれない彼または彼女の精神は妄想を作り上げる。その探索者が自らの妄想に導かれるままに暴走し、図らずもダオロスを地球上に呼び寄せてしまうのを他の探索者たちは阻止しなければならない。
『裸の真実』を読んでダオロスのことを知った探索者は「苦悩者」と呼ばれる。苦悩者は真実から眼をそらして自分の精神を守るために妄想の世界を作り上げ、そこに逃げ込む。そのとき苦悩者の前に出現するのは「神秘の友」である。神秘の友の年齢や性別はまちまちだが、決まって魅惑的な存在であり、彼または彼女が自分の本当の味方であることを苦悩者は確信する。
差し迫る脅威に対抗する術を神秘の友は苦悩者に教えてくれる。たとえば煮沸した雨水を飲み、雑草を食して心眼を養うことや、侵略者である大魔王の手先にどの人間が憑依されているかといったことである。もちろん神秘の友は苦悩者の妄想の産物であるが、それゆえ神秘の友に対する苦悩者の信頼が揺らぐことはない。もし仮に苦悩者が神秘の友を信じず、彼または彼女を殺害するようなことがあっても、神秘の友は再び姿を現して苦悩者に語りかけ続ける。
探索者の妄想の中では、「第六次元の大君主」ラグニルによる侵略の危機に人類はさらされている。「崩壊の住民」と呼ばれる悪しき生命体を臣下として従えるラグニルは自分の部下や自分自身を人間に憑依させることによって地球に乗り込み、すでに活動を開始している。
実はラグニルは古いアメリカンコミックの悪役である。そのコミックを書いたのは、かのリチャード=アプトン=ピックマンの姪孫に当たるラルフ=ピックマンという画家である。ラルフ=ピックマンに会えば、ラグニルの話は完全な絵空事でしかないと彼自身が証言するのを聞けるだろう。苦悩者が妄想の虜になっていることに他の探索者たちは気づき、彼の暴走を食い止めなければならない。さもなければ苦悩者は己の妄想に突き動かされるままダオロスを地上に招喚してしまうかもしれないのである。また物語が幻夢境に舞台を移す可能性もある。そのとき苦悩者は自らの思念によって幻夢境にラグニルを出現させる。かくして妄想は現実のものとなり、ラグニルとその配下は幻夢境から現世への侵略を開始することだろう。このシナリオにおいて真実と幻影の境界は非常に曖昧なものとなってしまっており、探索者たちが真実を最後まで学ばないことこそが最善の結末なのだとバロン博士は述べている。
第3章「時代の到来」では、ナイアーラトテップの化身である「闇の跳梁者」が登場する。闇の跳梁者に憑依された少年デイヴィッドが成長して闇のメシアになるのを探索者は阻止しなければならない(4)。
「時代の到来」で敵として探索者の前に立ちはだかるのはニトクリス(5)である。「食屍鬼の女王」の異名を持つニトクリスは第6王朝末期のエジプトを支配していたが、這い寄る混沌ナイアーラトテップの忠実な下僕として現代に甦った。彼女は比類なき美貌と恐るべき魔力の持主であり、旧神に関連するもの以外CoCの呪文をすべて知っている。また心理学に精通しており、単なる会話によって相手の精神に打撃を与えることができる。彼女にはシラークという執事が仕えているが、その正体はミイラ男である。
エドワード=チャンドラーの死によって崩壊した多国籍企業NWI(New World Incorporated)の最高経営者となったニトクリスはその再建に成功し、世界でもっとも裕福な女性の一人として知られるに至った。彼女は現在タラッサ=チャンドラーと名乗り、エドワードの曾孫として新生NWI(New World Industries)を率いている。またオマー=シャクティ(6)が離脱したブラックファラオ団の支配権を掌握すると、野獣の結社をブラックファラオ団に吸収させて新組織「黒の同胞団」を作り上げ、シェフィラ=ロアシュという名でその総帥を務めている。
ニトクリスの協力者として、「銀の黄昏錬金術協会」の指導者だったアン=シャトレーヌがいる。ルルイエを浮上させようという「銀の黄昏」の企てが失敗に終わったとき多くの大幹部が命を落としたが、シャトレーヌは辛くも逃げ延びて故国フランス(7)に戻り、パリでニトクリスと出会った。ニトクリスはシャトレーヌに力を貸し、シャトレーヌ=エンタープライゼスというファッションメーカーを彼女が創立して年商数十億ドルの有名ブランドへと成長させるのを手伝った。現在アン=シャトレーヌはデジレ=シャトレーヌと名乗り、アン=シャトレーヌの姪孫としてシャトレーヌ=エンタープライゼスを率いている。シャトレーヌ=エンタープライゼスの研究所(8)では毒物や麻薬の開発を秘密裏に行っており、それらの研究成果はニトクリスに提供されている。その見返りとしてシャトレーヌは黒の同胞団の禁断の知識を受け取り、クトゥルーの復活という自分自身の目標を今なお達成しようとしている。
「闇の跳梁者」で語られている事件によってロバート=ブレイクが怪死した後、輝くトラペゾヘドロンはアンブローズ=デクスター博士の手でナラガンセット湾に投じられたが、その時デクスター博士は闇の跳梁者に憑依されてしまった。デクスター博士はマンハッタン計画に参加し、米国が核兵器を完成させる上で重要な役割を果たしたという。
自分の正体を突き止めたエドマンド=フィスクを亡き者にした後、デクスター博士はソビエト連邦に渡り、以後はソ連邦の核開発計画を指導した。1973年、デクスター博士は南太平洋に赴き、ルルイエを浮上させるために儀式を執り行おうとしたが、英国の諜報部員ジョン=ブレイクによって洋上で葬り去られた(9)。
海底に沈んだトラペゾヘドロンを黒の同胞団は回収しようとした。また、輝くトラペゾヘドロンを手に入れれば勢力拡大に役立つと考えたダゴン秘密教団も捜索に乗り出した。しかし、輝くトラペゾヘドロンがナラガンセット湾の底にあることはわかっていたにもかかわらず、それを発見することは誰にもできなかった。実は善の女神イシスが黒の同胞団やダゴン秘密教団の企てを妨げていたのである。ニトクリスは人間の部下だけでなくシュゴランの落とし子を派遣したが、彼らもまたイシスの魔法に幻惑され、トラペゾヘドロンがあるはずの場所を虚しく泳ぎ回るばかりだった。ニトクリスは歯がみしながら、誰か軽率なものが図らずもトラペゾヘドロンを拾い上げて地上に運び上げるのを待った。そして、とうとう彼女の思惑通りに事が運ぶときが来た……。
デイヴィッドは12歳の少年であり、探索者の一人の被保護者である。息子または甥という設定にするのが妥当だろう。毎年デイヴィッドは親友2人と一緒にナラガンセット湾沿岸のキャンプ地へ行き、そこで6週間を過ごすことにしていた。
その年の夏もデイヴィッドは親友のサムやチェスターと連れ立ってキャンプに出かけ、ビリー=マーシュという少年と知り合った。マーシュ一族の子であるビリーは深きものどもの血を引いており、水中に長時間滞在することができた。ナラガンセット湾を気ままに泳ぎ回っているうちに偶然トラペゾヘドロンを発見したビリーはそれを友達に見せびらかすことにし、いいものを見せてやるとデイヴィッドら3人を誘った。輝くトラペゾヘドロンを収めた箱を夜中の岸辺でビリーはデイヴィッドたちに見せたが、箱の蓋が開かれたとき闇の跳梁者が降臨し、少年たちは恐怖に駆られて逃げ去った。ビリーはトラペゾヘドロンを抱えて水中に飛びこみ、デイヴィッドたちはキャンプ地に逃げ帰ったが、闇の跳梁者が彼らをキャンプ地まで追ってきた。突発的な暴風雨によって大勢の犠牲者が出る中、闇の跳梁者はまずチェスターに憑依しようとしたが、その試みは失敗に終わってチェスターは感電死体と化した。次に闇の跳梁者はデイヴィッドを狙い、今度は成功した。
闇の跳梁者が地上に解き放たれたことを察知したニトクリスは黒の同胞団に情報を収集させ、デイヴィッドとサムが収容されている病院に急行した。そして精神科医に化け、パーセフォン=クリスティーノ博士と名乗ってデイヴィッドとサムの主治医になることに成功した。一方、ニトクリスの命を受けたシュゴランの落とし子はビリーを追跡し、ビリーが隠れている海中の洞窟を見つけ出して彼からトラペゾヘドロンを奪おうとする。なお、闇の跳梁者が憑依する対象は生粋の人間に限られているため、深きものどもと人間の混血であるビリーが憑依されることはない。
何日かしてデイヴィッドは退院し、家に戻ってくるだろう。怖ろしい出来事があったにもかかわらず彼はすっかり元気になったように見えるが、すでに本当の彼ではなくなっている。闇の跳梁者に憑依されたデイヴィッドは本来のかわいらしさに加えて妖しい魅力が備わり、獣が彼に付き従うようになる。デイヴィッドの肌は浅黒く変色し、そのことを隠すために彼は頻繁に日光浴をするようになる。また学校では隠微な方法で混乱を作り出し、人々を錯乱に追いやっては楽しみようになる。そのようにして彼は時節を窺い続け、時間が経つにつれて強大になっていく。
デイヴィッドの目的は輝くトラペゾヘドロンを手に入れることである。逆に探索者たちはデイヴィッドや黒の同胞団の機先を制し、ビリーを発見してトラペゾヘドロンを確保しなければならない。もしもトラペゾヘドロンがニトクリスかデイヴィッドの手に渡ることがあれば二人は合流し、NWIの専用機に乗ってエジプトに飛ぶだろう。そしてトラペゾヘドロンはキシュの迷宮に安置される。それから数年後、デイヴィッドはナイ神父と名乗ってサンフランシスコに現れ、星の知恵派の新しい教会を設立する。かくして怪異なる永劫が到来するのである。
探索者たちはニトクリスの野望を阻まなければならないが、そのためにデイヴィッドを殺害すれば心に傷を負う。とりわけデイヴィッドの保護者である探索者は大きな痛手を被るだろう。輝くトラペゾヘドロンを使えば闇の跳梁者をデイヴィッドの体から追い出せるとエンドア夫人(次項参照)が教えてくれることだろうが、いったん闇の跳梁者に憑依されたデイヴィッドは二度と正気に戻れない。彼は決して回復せず、異様で予言的な絵を壁や寝台の敷布や紙に絶えず描き続けるようになる。そこから新たな冒険が始まることもあるだろう。
闇の跳梁者は決して滅びず、デイヴィッドに憑依できなくなっても次の宿主を探し求める。差し当たって彼が狙うのは、デイヴィッドと一緒にトラペゾヘドロンを見つめたサムだろう。しかしながら、トラペゾヘドロンを見つめたものと闇の跳梁者との霊的な結びつきは「セケルの光」によって断ち切ることができる。この呪文はエンドア夫人に教えてもらえるはずである。首尾よくトラペゾヘドロンを手に入れたら、二度と闇の跳梁者が現れないような措置をとらなければならない。火山の噴火口にトラペゾヘドロンを投げ込んでしまうという方法もあるだろうし、再びナラガンセット湾にトラペゾヘドロンを沈めれば、当面はイシスの魔法が再び闇の勢力からトラペゾヘドロンを隠してくれるだろう。理想的なのはトラペゾヘドロンをイシスに引き渡すことである。
途方もなく強大な敵に立ち向かわなければならない探索者たちに味方してくれるのが、女神イシスの化身たるエンドア夫人である。イシスは人類を守護する善の神だが、旧神とは明らかに異なる存在であり、そのパワーソースは「人類の祈り」であるらしい。一説によると、古代エジプトにおいて暗黒のファラオ・ネフレン=カの暴政に終止符が打たれたのもイシスの力によるものだったという。
探索者たちが途方に暮れているとき、闇に射す一条の光芒のようにエンドア夫人が現れる。行き詰まり、窮地に立たされた探索者たちは夜の街角で占いの店を見かけことだろう。その店に入ると、神々しいまでに美しい女性が探索者たちを出迎える。その女性こそがエンドア夫人である。彼女の言葉はたいそう謎めいているが、辛抱強く耳を傾けて意味を掴めば、彼女は探索者たちに知恵と力を授けてくれる。癒しの魔法を得意とする彼女は、ひどく傷ついている探索者を回復させてくれるかもしれない。
探索者たちに伝えるべきことを語り終わるとエンドア夫人は微笑し、彼女の体から発せられる柔らかな光輝で店内が満たされる。エンドア夫人と名乗る女性が頭に冠を戴き、背中に翼を備えていることに探索者たちは気づく。眩い光が店内に溢れかえった次の瞬間、探索者たちは再び夜の街角に立っている。不思議な店はもはや存在せず、その店の両脇に建っていたはずの2軒が今では隣り合っていることだろう(10)。
UMの作者であるバロン博士はDGML(Delta Green Mailing List)の会員でもあり、UMをDGに導入するための方法をいくつか提案している。探索者をデルタグリーンの工作員もしくは協力者とするならば、ニトクリスとデイヴィッドが専用機に乗り込もうとするのを阻止しようとするデルタグリーンの猛者たちと黒の同胞団の戦闘員が血みどろの銃撃戦を空港で繰り広げるという壮絶なクライマックスを容易に実現させることが可能だろう。
また「最凶の傭兵」ガルト准将をニトクリスの協力者として登場させることもできるが、何よりも興味深いのはCoC最強の組織といわれるフェイトの動向である。スティーヴン=アルジスはニトクリスとデイヴィッドに力を貸すのか、それとも彼らに敵対するのか? 仮に敵対するのであれば、自分たちの総帥と闇の跳梁者の激突に直面したフェイトの大幹部たちはどのように振舞うのか? その決定は各自の自由に任されている。
UMはCoCと『終末の時』の橋渡しをするものであり、DGにきわめて近い。UMの敵はきわめて強大であり、探索者たちの闘いに終わりはない。結局のところ人類は敗れ去るしかないのかもしれないという不吉な予感が物語には常に付きまとっている。だが、イシスが探索者たちに語った言葉を引用して本稿を終えることにしよう。
永遠の闇といえども、ただ一本の蝋燭の灯りで崩れるのです……。