コーヒーブレーク「それはクリックでつまづいた」(02.08.11)


マウスなしには使えなくなった現在のパソコンを、新しく始める人はまず、クリック、ダブルクリック、そしてドラッグという用語を覚えることになる。

Clickとは、単なる擬音語で、たとえばスイッチをひねるときの「カチ」という音が英語を母国語とする人にはクリックと聞こえる、というだけのことだ。犬のワンワンを、バウワウと言われても、日本語圏の私たちにはピンと来ない。ニワトリのコケッコッコーもしかり。

1988年はまだ、QuarkXPressとIllustrator の日本語版が無かったので、仕事で導入した初めてのカラーマック、Macintosh II のOSは英語版のままでアプリも英語版を使っていた。マッキントッシュは初めてだったが、すでにアニメーション動画を使ったチュートリアルまで付属していて、基本操作はこれで簡単に、しかも楽しく学ぶことができた。80年代は、コンピューターのマニュアルは、とくにマッキントッシュのそれは、一流のライターが執筆しており、よくできたものだった。私も付属マニュアルの「System 6」を、表紙が破れてしまうまでむさぼり読んだものだ。当時はオフィスでパソコンそのものを使うことがまだまだ稀な時代で、もちろんマウスなど知る人もいない。

さて、その「System 6」でコンピューターの一般知識も勉強したものだが、私はそれよりも新しいインターフェースの、その名付け方に興味をもった。

「Clickとは、マウスのボタンを一度押し下げて、すぐにその指を離す操作」とかいう説明だった。ふんふん、正確だが面倒くさい定義のしかたをするなあ、要するに日本語の「カチン」そのものじゃないか。「Double click とは、マウスを動かすことなく、click を2回続けて行うこと。」 英語は不便だね、これなんか、「カチカチ」じゃん。

だが、Drag で困ってしまった。「引きずる」という意味だが、「ボタンを押さえたままで這わせる」という意味を一言で表現するピッタリの日本語が思い浮かばない。書道で、筆を紙の上で走らせることを言い表すうまい表現があったら、それを使えたかも知れない。

マッキントッシュの革新的な設計からしても、だれかがうまい用語を考えついてくれるだろう、と期待していたが、カタカナ語の、クリック、ダブルクリック、ドラッグのまま、定着してしまった感がある。

マウスが市民権を得たあとでパソコンを使い始めた人たちは、きっと、マウスの操作で苦労した経験はないだろう。こんな便利なものなのだから、発表されるとすぐに広まったはずだと、誰もが今では誤解している。だが、マックの誕生とその軌跡を描いた『Insanely Great』(邦訳「マッキントッシュ物語」1994年 翔泳社)によると、初代マックが1984年に出たとき、まず遭遇したのがIBM-PC、つまりDOSユーザーによるマウス拒否反応だったという。今から考えると意外な歴史的事実だが、優れたもの、便利なものが、そのまま受け入れられるわけではないことの、ひとつの例だ。

そして今でも、とくに年配者がはじめてパソコンを使おうとしたら、まず立ちはだかるのがマウスの操作とカタカナ用語の氾濫だ。英語を知らない世代には、DragとDrugは同じドラッグだ。マウスを初めて考えついた創造的な人たちは、説明なしでも理解できる用語を当てようとした。その精神が残念ながら「翻訳」されずに英語のまま取り込まれたのは、日本に限らない。マウスというカタカナ語にしてそうだ。発明者がどうしてネズミと名付けたのか、考えるゆとりもなく、パソコン業界は突っ走ってきた。

マウス以外にもまだまだある。アイコンと呼ばれるicon だが、すでに日本語の語彙にイコンがあったのに、重複して日本語に組み入れられた。もっとも、イコンは主に西洋の宗教画の用語だったからともいえる。

ところで、マッキントッシュが初めてパソコンの世界にもたらしたユーザーインターフェースは、マウスやアイコン、そしてデスクトップなどのグラフィカルな要素に目が奪われるが、私はもっと重要なものはモニター上部に現れるメニューバーだと思っている。どうして、左に「File」「Edit」を並べたのか、その名付け方とともに関心の対象だった。「File」からは、まず、作業を始めるための「New」「Open」があり、 作業を終えたあとの「Save」「Save as」と続く。さらに、書類として印刷するために「Print」メニューが続き、最下部は必ず 「Quit」だ。これに逆らう設計のアプリは、そっぽを向かれるだろう。

今やお仕着せのボタンだらけのウインドー画面が全盛だが、インターフェースはどうあるべきか、再考すべき時に来ているように思う。少なくとも、これからインターネットを使おうという年配者、高齢者には若い人向けのパソコン教程は全く意味がない。しかも、セキュリティの問題そっちのけに、ただ売らんかなのハードメーカーとソフトメーカー主導のこのパソコン業界は、すでに破綻しかけていると見るのは、私だけではないだろう。マックが登場したとき、ファンが受け入れたのは、「コンピューターのやり方に人間が従うのではなくて、人間がしたいようにコンピューターが合わせるべきだ」という、コペルニクス的転回だった。そこには、コンピューターがほんとにパーソナルなものとして、生活を快適にしてくれて、知的作業を手伝ってくれる、そんな豊かな未来がかいま見れていた。



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