コーヒーブレーク「世界史の中の聖書」 (06.6.11)


高校時代、英語の教師が「英語を学ぶためには、聖書は読んでおきなさい」とよく忠告してくれたものです。さらに、世界史の授業でも「ヨーロッパ文明を理解するためには聖書を知らないといけない」と諭されました。聖書を読めとは、つまりはキリスト教についての知識は必須だ、という意味でした。ヨーロッパ文明を支えたもの、それがキリスト教精神とギリシャ精神だからです。

しかし、高校時代に私は結局聖書を読むことはありませんでした。なぜか? 

単純な話で、図書館にあった聖書、つまり聖書協会の聖書でホテルによく置いてあるもの(最近はどうかな)は、読むに堪えなかったからです。読んでも、まず日本語訳のはずなのに意味が通じない。分かるときでも、ところどころに荒唐無稽のことが書いてある。これは、キリスト教の信者になろうというつもりでもないかぎり、我慢して読めるものじゃない。

結局私が聖書、正確には新約聖書の『福音書』、を読むことができたのは、それから10年も後のことでした。それは、岩波文庫の『福音書』(塚本虎二訳)を手にしたからでした。この訳には丁寧な解説とあとがきがあり、そこに、聖書とは何か、さらに当時としては革新的とも言える、読んでそのまま分かるべく口語訳にしようとした経緯が書かれていました。その訳者の誠意と意気に押されたせいもあるでしょうか、はじめて文学としての新約聖書を読むことができました。

現代の高校生、大学生は、はたしてキリスト教にどのように向かい合っているものでしょうか?

私が高校生のときに愛読した世界史の参考書は『日本国民の世界史』(上原専禄編 岩波書店 1960年初版)でした。これは1958年、文部省の教科書検定に不合格となった高校世界史の教科書原稿をもとにしたものです。私の高校時代は60年代後半。家永三郎による日本史教科書訴訟を知るにつけ、大事な青春時代に、検閲された学校教科書なんかで偏見を押し付けられてたまるか。そんな反骨精神も手伝って「不合格」教科書を敢えて個人「採用」しておりました。国家から「不合格」扱いされたとは、キリスト教的に言うと「異端」とされたことになるものか。

この『日本国民の世界史』では、西洋文明の特質を以下のように要約していました。

ギリシャ精神にひそむ合理主義と個性主義、およびキリスト教精神の中にある、神の前における人間の平等や敬虔・正義の観念は、形式化した文化や政治的圧制に対する抵抗の精神ともなった。西洋文明の近代化が、まず古典文化の復興と宗教の改革として進められたことも、以上のような事情から理解されるであろう。(212ページ)
5月20日に世界で一斉公開された映画『ダ・ビンチ・コード』は、その原作とともにまだまだ話題が尽きません。ダ・ビンチの絵をある意味カムフラージュに使い、キリスト教会、正確にはローマカトリック教会のタブーに踏み込むことになったことが、これほどの社会現象化していることが、はしなくも、これまで非キリスト教圏なのでぴんと来なかった事実、ヨーロッパ文明がいかにキリスト教を軸にしていたかを、再認識した感があります。

小説と映画は、キリストの子孫を巡るなぞ解きがそのストーリーなのですが、カトリック教会が反発するのは、キリストが子を設けたという設定についてです。日本人である我々にはなんでもないことですが、これがカトリックの教義に反することになります。その教義とは、イエスが人間であってはならない「三位一体説」。イエス・キリストとは何者であるか、という「初期キリスト教」各派の論争にたいして、「父なる神、神の子キリスト、聖霊はひとつ」とするアタナシウス派が正統とされ、国家宗教となる一方、それに反対する他の派は「異端」とされます。現在伝わる「福音書」は、それまでに多数存在した各種福音書を選別、国家宗教用に「検閲」された教典として編纂されたものです。そして「異端者」にたいして、ガリレオ裁判のような異端裁判、また「魔女狩り」という教会の名による殺戮が行われてきたことは周知です。

それでは、なぜ小説はレオナルド・ダ・ビンチを登場させたのか。レオナルドが生きたルネサンスは、それまでのキリスト教会の権威に捕らわれずに、自由の精神で真理を追求しようとした時代。レオナルドが描く「最後の晩餐」にしろ「岩窟の聖母」にしろ、キリストを人間として描いていることが分かります。ニュートンにしてもそうですが、彼らは「三位一体説」など信じていなかった。それとも、そんなばかげた考えを信じているフリをしている教会にたいして、本能的に反発したものかも知れません。

印刷物やテレビでよく知っていたはずのレオナルドの絵画も、こうした観点からみると500年の時の隔たりを越えて、新たな現実味が漂います。つまりは、知っていたはずの絵とは違う絵がそこにあります。そしてそれはあまり読まれることのないイエスの言行録としての「福音書」も同じ。『ダ・ビンチ・コード』ではじめて新約聖書を読む人は、実際に読んでみると、想像していたものとずいぶん違うことを発見することでしょう。なお、聖書とキリスト教の成立については『聖書時代史 新約篇』(佐藤研 岩波現代文庫 2003年)があります。

2000年前にまでさかのぼって「歴史」を見直そうという用意のあるヨーロッパ文明。それは、一度書かれたらそのまま固定する、不自由な伝統が支配的な東洋の「歴史」ともっとも違うところでしょう。それはキリスト教そのものが内包していた自由の精神ではなかったか。

前述の『日本国民の世界史』は、東アジアの島国日本から世界史を再構築しようとした試み。その著者の1人、吉田悟郎さんは50年後のいまでもその世界史像構築の探求とともに、現代の諸問題を考察しています。結局、「宗教」であれ「世界史」であれ、過去ではなく今この世界で起っている問題にたいして、どう考えるべきか、どう生きるべきかが、その出発点として共通しています。



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