プーシキン「スペードの女王」の反語法 (2015.4.19)


本稿は、私がその一員である私的なサークル「C***会」の先月の例会で行ったプレゼンテーションの記録です。会報に掲載されたテキストに、画像や注を加えて、転載します(ただしプライバシーに関わる固有名詞は伏せています)。タイトルからお分かりのように、内容はバイクとは関係ありませんが、このエッセーコーナーではメディア論もたびたびテーマにしていますので、メディアとしての文学に関心を持たれる方のご参考になれば幸いです。



まえおき

私たちの「C***会」をご存じない方(がほとんどのはずですので)のために会についてひと言ご説明いたします。会の趣旨はかんたんで、「古典をそのテキストにもとづいて読み直し、かつ議論しあう」というものです。輪読、講読とは違います。まず次回の発表者が取り上げる古典あるいは古典的作品を指定します。文庫版で入手できるものに限っています。長編もの、分冊になっているものは避けるか、または一部の章だけに限定します。会員は例会までに読んでおきます。その際、条件があります。それは、必ずテキスト(本文)をまず読むこと、本の巻末などにある「解説」は読まないでもいいが、読むなら本文を読み終わってからにすること、ネット上の情報やウィキペディアなどの記事も同様です。外国の文学なら、翻訳を使いますが、その外国語の知識のある発表者は原著もあわせて参照することが期待されます。例会では、まず発表者が作品についてプレゼンを行います。これは、いわば問題提起です。どなたも経験がおありと思いますが、内容を知ったつもりになっているよく知られた古典をいざ実際に読んでみると、内容が思っていたものとは別物であったり、さまざまな疑問点や不明点が出てきたりします。それを、作者、著者は何を考えたのだろうか、とその書かれた状況に自分を置いたつもりで、疑問点を掘り下げて、発表します。プレゼンの後、自由討論となります。ここで詳しく説明するよりも、以下の私のプレゼンから、その実際の様子をご想像ください。ただし、「スペードの女王」を先にお読みになってから。




プーシキン「スペードの女王」の反語法

В повести Пушкина "Пиковая дама" скрыта другая неподвижная идея.

How the readers of Pushkin's "The Queen of the Spades" are led to accept the one fixed idea, not the other.



第***回例会
2015年3月29日
H.O.(会員No.***)



ご覧いただいているのは[注:プロジェクターで投影している]プーシキンの時代のものというスペードのクイーンです。きっとゲルマンが手にしたカードもこんなものだったのでしょう。

ただ、このクイーンは真横を向いているので、目くばせを送るには無理な姿勢ですね。きっと前を向いたスペードのクイーンもあったのでしょう。すぐに気づかれたかと思いますが、Qの文字は入っていません。トランプのカードに文字や数字が入るようになるのはもう少し後の時代のことですが、それでもQは使いません。当たり前ですよね。Qは英語のQueenの頭文字ですし、そもそもロシア語のアルファベットにはラテン文字Qに該当する文字がありませんから。

では文字が入るとどうなるかというと、こんなぐあい。 初めてこの文字を目にする方もいらっしゃるでしょうか? これはロシア文字[注:正確にはキリル文字といいます]の「Д(デー)」です。デーケイ、ぢゃない、台形のかたち[注:苦しいダジャレでした]をしていますが、ギリシャ文字のΔ(デルタ)から来ています。同じくΔから変形したローマ字のDよりも原型をとどめていますので、数学や物理などでギリシャ文字に親しんでいるわたしたちには、むしろ馴染みやすいとも言えますね。

ではなぜデーの文字なのかというと、ロシア語でスペードのクイーンは Пиковая дама(ピーカヴァヤ・ダーマ)なので、ダーマの頭文字デーを使います。ピーカヴァヤ・ダーマはフランス語の La Dame de pique(ラ・ダーム・ドゥ・ピク)から来ています。もともと、現在のトランプカードの原型が整ったのはフランスで、現在日本で一般的なイギリスタイプは、フランスのカードがイギリスに伝わってローカライズされたものです。フランスのスペードのクイーンにはやはりDの文字が見えます。

さて、ではダーマ(дама)はクイーン、女王の意味でしょうか? それが、そうではありません。ダーマは貴婦人、上流階級の女性というのが原義なんです。チェーホフの短編に「小犬を連れた奥さん」または「小犬を連れた貴婦人」という、これもよく知られた作品がありますが、あの貴婦人がやはりダーマです。英語のDameと語源が一緒なんでしょう。女王はロシア語で Королева(カラリェーヴァ)といいます。先ごろ日本でもヒットしたディズニーアニメの雪の女王もカラリェーヴァです。そうなんです、ロシア語の「スペードのクイーン」は直訳すると「スペードの貴婦人」ということになります。じつはこの名前そのものが、今回取り上げたプーシキンの短編「ピーカヴァヤ・ダーマ」の中である意味を持つのですが、これについては、のちほど立ち帰ります。

ということで、まずプーシキンの「スペードの女王」という作品の、タイトルそのものに内在する問題から切り出しました。日本では長いことスペードの「女王」というタイトル名で知られていたものですが、折も折、ついこの2月に「スペードのクイーン」という、もっともなタイトルで新訳が出ました。皆さんに推薦したのもこの光文社の文庫本[注:『スペードのクイーン/ベールキン物語』望月哲男訳 光文社文庫 2015年2月]です。皆さん今日お持ちいただいていますね。これはとても丁寧な翻訳で、訳注も親切です。はい、K***さん?

K***: 私も「スペードのクイーン」がいいと思いますが、この文庫の「訳者あとがき」でも触れていたけど、やっぱりチャイコフスキーのオペラで「スペードの女王」が定着しているから、プーシキンの原作は「クイーン」と現代風に訳されても、オペラはオペラで「女王」の座は揺るがないような気がしますね。
たぶんそうでしょうね。「後宮からの誘拐」なんていう翻訳例もありますしね。ところで、皆さんの中でオペラの「スペードの女王」を見たことのある人は? だれもいらっしゃらない? それはかえって好都合。じつは私も見たことないのですが、あらすじを読むと、あれはプーシキンの原作とはずいぶんかけ離れたものですね。だから、オペラを先に見てしまうと、その印象がじゃまして、あとで原作を読んでみたらがっかり、ということもありえますね。もちろんその逆もですが。

次に、本論に入る前にもうひとつ、こんどは映画の一場面をご覧いただきます。そのシーンというのは、作品中にファラオンという名前で出て来るカードゲームの実際の様子です。最終章(第6章)のクライマックスの場面ですが、皆さんの中にはこのゲームがどんなふうに行われるのか、ピンと来なかった方もいらっしゃるのではないかと、、、ああ、クビを縦に振っている方も何人か。[注:ゲルマンが「3」を張る最初の夜のシーンから動画を再生する]

まず挑戦者たる子のゲルマンが、張るカードを裏返しにテーブルに置き、その鼻先に賭ける金額をチョークで大書きします(または、現金、銀行券を置く)。テーブルは長いですし、両者が離れていると、ゲルマンの書いた数字は、前のプレーヤーが書いては消したチョークの残るテーブルにさらに上書きしていたせいもあり、チェカリンスキーにはよく見えない。そこで「おいくら?」と聞かれてゲルマンが「47000ルーブル」と答えます。これが日本円にしてどのくらいのものか、分かりませんが、それに続くやりとりで、金額が法外なものだということは想像できます。

そうして、親はよくシャッフルしたカードを自分の右、左と置いていきます。子の張ったカードと同じ数字が右に出れば親の勝ち、左なら子の勝ち。ここで左に「3」が出て、ゲルマンはそのカードをチェカリンスキーに見えるように示します。テキストではカードを「開く」とあり、これはロシア語の原文でもそうなんですが、私はてっきりテーブルの上で表を返す動作を想像していました。この映画の演出は心憎いですね。チェカリンスキーとゲルマンは距離をおいて対峙しているので、テーブルの上でひっくり返してもカードはよく見えないからでしょうか、勝ち誇るように相手に見せているんですね。このとき、ゲルマンはカードの表を見ていないことにご注意ください。

こうして、最初賭けたのが、たとえば2千万円だとすると、第一夜でそれが4千万になり、第2夜でもまた勝ちますから8千万。そうして第3夜も勝てば、1億6千万になるところでした。ところが3夜目では、エースを張ったつもりが、スペードのクイーンだった。このシーンはちょっと暗くてはっきりとは見えませんが、冒頭言ったように、正面のほうを向いているスペードのクイーンみたいですね。こんな細部にも気を配っているこの映画は、ほんと実にすばらしいと思います。

Y***:いやあ、よく分かりました。じつはね、私も読んでいて、このゲームのシーンがいまひとつピンと来ないところがあった。これ、一目瞭然、まさに百聞は一見にしかず、だなあ。こんな映画があったんですか。いつのものです?
これは1982年、ソビエト時代のものです。じつはこれ、劇場用映画ではなくて、テレビ用映画なんですよ。ですので、ソビエト以外では公開されなかったはずです。たぶん、これが日本での初公開(笑)。ファラオンのゲームが私もピンと来なかったので、インターネットで映画を検索したら、たまたまヒットしました。

さて、これで準備が整いました。まずは、この「スペードの女王」、いや「スペードのクイーン」をお読みになって、皆さん、どういうお話だと思ったでしょうか? たぶん、みなさん、あらすじををこう理解されていると思います。

将校仲間から3枚の必勝カードの話を聞かされたゲルマンが、一攫千金を夢見て、その秘密を知る老伯爵夫人から必勝カードを聞き出すべく、夫人の養女リザヴェータを利用し、寝室に侵入する。ところが、老婦人が口を割らないので脅すとショック死してしまう。失敗を嘆くゲルマンの元に、死んだ老婦人の亡霊が現れ、3枚の勝ち札を伝授する。1日目、2日目と当然のごとく勝ったゲルマンだが、3日目に負けて全財産を失う;張ったはずの勝ち札のエースが、スペードのクイーンになっていたからだ。そのスペードのクイーンが老婦人の生き写しに見えたゲルマンは発狂する。

今日の私の問題提起は、じつは、これとは違うあらすじが存在する、という話です。

このあらすじだけを見ると、ミステリアスというか、怪奇小説とも言えそうな作品です。実を言うと、私は40年ほど前の若い頃、いちど日本語訳で読んだことがあります。なにぶん無知な学生のこと、プーシキンって、馴染みのない作家[注:詩人というべきでした]でしたが、ロシア国民文学の父とかいう触れ込みだったので、それなら読んでおかなくちゃ、と手にしたものです。でもタイトルの女王って、てっきり人の女王のことと勘違いして、あだ名がスペードという女王さんのお話かと(笑)思って読み出しました。今からおもえば、ほんとに笑い話です。読むには読んだものの、翻訳の日本語が読みにくかった。怪奇的なストーリーだし、女王さんがなかなか出て来ないし、そもそも肝心のファラオンがどんなゲームなのか、分からない。なんど読み返しても、さっぱり分からん。それで思いました; プーシキンって、文章がへただな(笑)。さきほど映画のファラオンのシーンをご覧いただいたのは、そういう理由からです。

まあそんなことがあったので、以来プーシキンを読む気は起りませんでした。それが、ひょんなことからロシア語をやるようになって、つい2ヶ月ほど前ですが、ちょっと調べものをしていて、たまたま「スペードのクイーン」を読みかけたら、あれれ、なんと簡潔なロシア語でしょう。なーんだ、プーシキンって、結構文章うまいじゃん!(笑)さらに先ほど見ていただいた映画を見つけると、この作品がぐっと身近に迫ってきました。そこで、この短編をロシア語の勉強も兼ねて、それこそ一言一句、意味を確かめながら読み進めておりました。

ところが、私なんかまだまだ初学者ですからね、すらすらと読める上級者なら読み過ごしてしまうような細部にいちいちひっかかって、ああでもない、こうでもない、と考え込むことがしばしばです。そのうちのたいていは文法的に、でなくても文脈から、解決を見るのですが、この隙というものが見られないプーシキンの作品の中で、唯一、どうしても意味が繋がらなくて、悩みあぐねた箇所がありました。それがここ、最終章の冒頭です。[注:スクリーンに投影するテキストの日本語訳は上記光文社文庫のものを使っています]

Две неподвижные идеи не могут вместе существовать в нравственной природе, так же, как два тела не могут в физическом мире занимать одно и то же место. Тройка, семерка, туз ― скоро заслонили в воображении Германна образ мертвой старухи.
物質世界において二つの物体が同一の空間を占めることが不可能であるのと同じく、精神世界においても二つの固定観念が共存するのは不可能である。例の「3、7、エース」は、やがてゲルマンの脳裏にあった死せる老婆のイメージを覆い隠してしまった。(63ページ)

いくら読み返しても、この二つのセンテンスの繋がりがおかしい。ほかは完璧なのに、ここだけ文脈が崩れている。あれれ、やっぱりプーシキンは文章がへただったのか、と一瞬思ったものでした。そもそも、最初の哲学的命題めいたセンテンスはとくになくてはならないものではありません。プーシキンはわざわざ必要でもないセンテンスを挿入したんだろうか? 皆さん、ここに違和感を覚えませんでした? 

Y***:私はとくに変に思わなかった。そう言われて、今読み直しても、これは「一方が他方を排除する」ということだろう、くらいにしか読めないですね。だから、「3、7、エース」が「婆さんのイメージ」を排除したものと理解しますね、、、ただ、最初の文がちょっと大げさな哲学的表現のようにも見えるのは同感です。
はい、ありがとうございます。他の方も、同じような読み方をされたでしょうか? はい、まさしくほとんどの読者はそう読んでいると思います。でもちょっと考えてみてください。3つの必勝カードを教えてくれたのがそもそも伯爵夫人の亡霊なんですから、老婆のイメージが薄れていったというけど、それはけっして共存不可能だったからではありえませんね。むしろ共存するのが自然ではありませんか?

最初の哲学命題のようなセンテンスで気になったのが、「二つの」物体そして「二つの」固定観念という表現です。「二つの物体」は分かります、ある場所に一つが存在すると、そこにもう一つは存在できない、ということですね。同様に「二つの固定観念」についても、一方が頭に居座ると、他方は存在できない、となります。ところが、ですよ、その逆もありですね。「他方」のほうが居座ると、「一方」は消えてしまう、ということ。つまり、「3、7、エース」が「婆さんのイメージ」を排除するならば、逆に「婆さんのイメージ」が「3、7、エース」を排除することもありうる。そういうことです。もっと分かりやすく言い直すと、第二のセンテンスはこう言い換えられるのです。

「3、7、エース」がほんとの必勝カードだという固定観念に捕われると、「老婆の実像(それはすなわち、彼女が常人であるということ)」を認める固定観念は隠れてしまう。その逆もしかり。
まさしく読者は、ゲルマン同様、前者の固定観念に縛られているために、後者の固定観念は見えないし、思いも依らない。ちょうど、一つのコインの表と裏を同時に見ることができないように、この二つの固定観念は心の中で共存できない。よく考えてみると、そもそも「3、7、エース」がほんとに必勝カードだとは、語り手自身はどこにも言っていないんです。それはゲルマンが、そして読者が、かってに思い込んでいることなんですね、そう、勝手にです。

どうして、この「排除された固定観念」の存在に気づいたかというと、それはここ、ゲルマンと老婆のやりとり。

― Это была шутка, ― сказала она наконец, ― клянусь вам! это была шутка!
「あれは冗談だったのよ」夫人はついにそう言った。「本当よ! 冗談だったのよ」 (45ページ)
もしここで夫人がほんとのことを言っているのだとしたら、もしも必勝カードなんていうものはなくて、ただの冗談だったとしたら、ふたつの「固定観念」がくるりと入れ替わってしまうではありませんか。
Y***:あ、すいません、いいですか? そこの45ページですけど、これは婆さんのたんなる言い逃れじゃないの? だってその後ゲルマンがすぐにチャプリツキーの名前を持ち出したら、観念して黙り込んでしまったし、、、
はい、たしかに黙り込んだことを、言い逃れできないと観念したものと、私も最初読み取りました。ところが、必勝カードの話が本当に冗談だったとしたら、これはこれで全てつじつまが合うんです。それでは、あれが事実夫人の作り話だったという仮定に立つとどうなるのか、物語全体を再生してみましょう。

ゲルマンがチャプリツキーの名を出すと、たしかに夫人は黙り込みました。それは、チャプリツキーって、いったいなんのことなのか、夫人には分からなかったから。この男、いったい何を言っているんだろう、って。で、ゲルマンを狂人と思い、黙り込んでしまった。何を言っても無駄ですから。そもそもチャプリツキーの一件はトムスキーの作り話だったので、夫人は知る由もありません。物語の冒頭、トムスキーの語る3枚のカードの話は、祖母から何度も繰り返して聞かされた冗談話を、祖母に似てお調子者のトムスキーがさらに尾びれを付け加えて語ったものでした。それを聞いた遊び仲間たちの反応を思い出してみましょう。

― Случай! ― сказал один из гостей.
― Сказка! ― заметил Германн.
― Может статься, порошковые карты? ― подхватил третий.

「偶然だよ!」客のひとりが言った。
「作り話さ!」ゲルマンが口をはさむ。
「あり得るさ、いかさまカードだろう?」別の一人が突っ込みをいれた。(16ページ)
ここでプーシキンは、読者が当然考えつくであろう疑問を、客に代弁させています。その際、周到にも、3人のうちゲルマンだけ名指しにして、「作り話だ」と言わせています。疑った当のゲルマンが結局は作り話を信じてしまうので、読者はゲルマンに同調する用意ができていきます。そして、祖母にそんな能力があるなら、なんでお前がそれを伝授されていないんだ、とトムスキーの性格を知るナルーモフに急所を突かれて、苦し紛れにチャプリツキーの話をでっち上げた。そうして、いつまでも続けるとボロがでるので、夜が白んできたのを見計らって、自分からお開きにした。これが第1章。Y***さん、目つきが変わってきました(笑)。

では、なぜプーシキンは作品の冒頭、登場人物の口を借りて、他の登場人物にまつわる物語を語らせる、という手法をとったのでしょう?

これは以前S***先生が発表されたときにも話されたことなので、みなさん覚えている方もいらっしゃると思いますが、「小説の語り手」の問題ですね。小説の書き方は大きくふたつあって、ひとつは、「全知者」の立場で書くやり方。作者が全知全能の神になったつもりで語る、まあこれがもっとも一般的なものですね。もうひとつは、作者がある人物に成り変わって一人称で語るやり方。漱石の「坊っちゃん」などがいい例ですね。

実際はこのふたつがミックスされて複雑な構成になったりします。このスペードのクイーンは、ストーリー全体としては「全知者」のナレーションがベースになっていますが、第1章では、トムスキーが祖母の伯爵夫人から聞いた話を長々と語る。つまり、「全知者」のナレーションのなかに、「一人称」の語りを取り込んでいます。一人称の語りほうが、リアリティを醸し出すんですね。40年前のパリで、モスクワのビーナスがどうやって必勝カードで勝ったのか、それを全知者が事実として語るわけにはいかないわけですよ。だって、そんな事実はそもそもないのですから。

ですので、一人称の語りが入るときは、その語る人物のキャラクターとか性格、なんかを考慮しないとなりません。第2章では、トムスキーの性格がいささか「軽薄」(注:30ページに見える形容)ではないか、と思わせるやりとりがあります。とくに、必勝カードの秘術を知る祖母は、さぞ謎めいた美女か貴婦人かと思いきや、なんのことはない、わがままで移り気、昔の話を繰り返すおしゃべり好きの、どこにもいそうな婆さんです。しかも、孫のトムスキーとは仲がいい。相性が合うみたいです。トムスキーがこんな「おばあちゃんっ子」だったら、なんで必勝カードの秘密を直接祖母に聞いていないのか、おかしい、でしょ? だから、ナルーモフの究極の突っ込みに直接答えず、かわりに叔父から聞いた話として、チャプリツキーの話をでっち上げて、煙に巻いた。

ですので、この第2章で読者は早々と、トムスキーのホラ話に気づいていても良かった。エレツカヤという若い女性をトムスキーが美人だと誉め讃えたときに、伯爵夫人がすかさず「なに、美人なもんですか、あの子のおばあさん並じゃない」とけなして見せたましたが、これは、「孫はみんなお婆さん似」なんだと、トムスキーのことも暗示していたかも知れない。

さて、もういちど、小説の技法に戻って、もう一つの語り方について触れておきます。それは、やはり全知者のナレーションでありながら、登場人物の見たもの、感じたことなどを述べる、というものです。この第2章ではゲルマンとリザヴェータが初めて目を合わせるシーンが語られます。それが、面白いことに、ゲルマン、リザヴェータ両方の視点から描写されているんです。目と目が合った、というのはひとつの事実なのですが、それがふたりにどう映ったのか、全く違う。事実はひとつでも、それをどう見たかを登場人物が感じたこととして語ると、全く違うストーリーが成立することになります。

これがもっとも効果的に使われるのが、第5章と最終章の第6章です。夫人の葬儀に参列したゲルマンが、死んでいるはずの夫人にウインクされ、おどろいて転倒するシーン。そこのテキストがどうなっているかというと。

В эту минуту показалось ему, что мертвая насмешливо взглянула на него, прищуривая одним глазом.
その瞬間、死せる老女があざ笑うように自分を見上げ、ウインクしてみせたような気がした
あくまで、「気がした」であって、決して「ウインクした」とは書かれていませんね。

そして、亡霊が登場するシーンでも、

Но белая женщина, скользнув, очутилась вдруг перед ним, ― и Германн узнал графиню!
だが白装束の女性はするするとすべるように進み、ふと気づくとゲルマンの目の前に立っている。見るとそれは伯爵夫人だった! (61ページ)
ゲルマンは伯爵夫人を「見た」、のであって、ゲルマンの前に伯爵夫人が「現れた」のではありません。周到にことばが選ばれています。はい、Y***さん。
Y***: ちょ、ちょっといいですか? すいません。そこの場面ですが、たしかに私なんかも、亡霊など信じないですよ。でもこの小説の中では事実として書いていませんか? このシーンの前に、「何者かが通りから彼の部屋の窓を覗き込んだかと思うと、すぐに立ち去った」ってありますよね。これ、「全知者」が事実として書いていませんか? 亡霊が窓から覗いたように思いますけど。
はい、ありがとうございます。ちょうどよかった、今そのことをお話しようとしたところでした。いまY***さんが読み上げてくださった部分は、こうなっています。
В это время кто-то с улицы взглянул к нему в окошко, ― и тотчас отошел. Германн не обратил на то никакого внимания.
とそのとき、何者かが通りから彼の部屋の窓を覗き込んだかと思うと、すぐに立ち去った。ゲルマンはこのことを気にも留めなかった。(60ページ)
ここはおっしゃるとおり、全知者が事実として語っています。でも覗いたのは亡霊ではなくて、ゲルマンの従卒でした(あっ、という声)。酔っぱらってふらふらの体で帰宅した従卒は、やっとたどり着いたとばかりに、窓から部屋を一瞥するような所作をした。だから、覗き魔みたいに部屋の中を眺めているのではなくて、一瞬顔が部屋に向いただけのこと。だからゲルマンを見ようとして「見た」のではなくて、「彼のほうを一瞥した」だけなんです。ただ、「気にも留めなかった」と続いているのは、次になにか起りそうな不気味な予感を含んでいますね。

そうして、玄関部屋の扉を開ける鍵の音がする。そりゃそうですね。その従卒が帰宅したんだから。自分の部屋に入るとその床に倒れる。でも、酔っぱらいでも、ばたーんとは倒れない。崩れるように床に横になる。すると、体をよじったり、足をもがいたりして、床を擦る音がする。それをゲルマンはスリッパを引きずる音として聴いてしまう。

つまりは、ゲルマンはすでに気がふれていたんです。葬式のときからすでに錯乱が始まっていたんですね。だから、亡霊は彼の狂気が作り出した幻影です。彼の妄想が、窓の人影、床を引きずる音がきっかけとなって、幻影を生み出した。彼を狂気に導いたのは、彼の性格もあるけれど、直接のきっかけは夫人を死なせたこと。そしてその祟りに怯えているんです。彼の潜在意識の中には、カードの秘密が失われたという後悔と、殺人という罪の意識がある。亡霊は自分が呼び出したものだから、自分の潜在意識に合わせて語ってくれる。まず、3つのカードの秘密を伝授してくれた。さらに自分を殺したことも許してくれた。リザヴェータと結婚することが条件ですけど。

でも、考えると変ですね。カードの秘密を教えることは、そう命じられたからという理由付けがありました。けれど、夫人がリザヴェータとの結婚を持ち出すことはありえない。だって、第2章で見たように、夫人にはリザヴェータの幸せを願うような思いやりは皆無のはず。これも、夫人が亡霊となって現れたのではなくて、ゲルマンの生み出した幻影だからですね。

で、そのあと、まただれかが窓から覗くシーンへと、、、あ、すでにY***さんがテキストでチェックされているでしょうか(笑)、はい、そこのくだりです。

С этим словом она тихо повернулась, пошла к дверям и скрылась, шаркая туфлями. Германн слышал, как хлопнула дверь в сенях, и увидел, что кто-то опять поглядел к нему в окошко.
そう言うと夫人はくるりと振り返ってドアに向かって歩き出し、スリッパをひきずりながら姿を消した。ゲルマンは玄関部屋のドアが閉まる音を聞き取り、それから何者かがまた彼の部屋の窓を覗き込むのを見た。(61ページ)
もうお分かりと思いますが、玄関部屋のドアが閉まる音は、実際に発生したわけではなくて、ゲルマンに「聞こえた」だけ、そして窓を覗き込む人影は、こんどは「見た」のであって、あくまでゲルマンが感じたということを、全知者が事実として述べているんですね。私も最初、なんで窓の人影を2度も登場させるのかなあと、くどい印象をもったのですが、ちゃんと計算がされていたんですね。

そうしていよいよ、チェカリンスキーとのファラオンの勝負。

Направо легла дама, налево туз.
― Туз выиграл! ― сказал Германн и открыл свою карту.
Дама ваша убита, ― сказал ласково Чекалинский.
Германн вздрогнул: в самом деле, вместо туза у него стояла пиковая дама.

右にクイーンが、左にエースが出た。
「エース(トゥース)の勝ちだ!」ゲルマンがそう言って自分の賭け札を開く。
あなたのクイーン(ダーマ)は殺されましたよ」チェカリンスキーがいたわるように言った。
ゲルマンはぎくりとした。見ると本当に、自分の賭け札がエースではなく、スペードのクイーンになっている。(70ページ)
プレゼンの冒頭でお話しましたが、ダーマは貴婦人の意味もあるので、ゲルマンにはそれが「お前は夫人殺しだ」と響いた。それで一瞬ギクリとするわけです。なお、ゲルマンが「勝った」(выиграл ヴィーイグラル)と言ったのですから、普通だったらチェカリンスキーは、クイーンが「負けた」(проигралаプライグラーラ)と返すところを、「殺された」(убита ウビータ)と言っています。意味は同じことですが、ここはウビータでないとならなかったわけです。

そうしてこの後、スペードのクイーンがにやりとほくそ笑んだような「気がした」ことについては、もう説明は無用ですね。

それでは、最初の夜、二日目の夜は勝っていることの説明はどうしましょ? それはなんでもないですね。このファラオンは、映画からもお分かりのとおり、単純に確率だけの勝負です。べつに3、7、1、である必要はありません。運良く最初の夜は勝利。二日目もツキに恵まれただけのことでした。最初に勝つ確率は50%。連チャンで勝つ確率は25%、運がよければ、あり得ないことではない。でも三日目でツキから見放された。3連チャンで勝つ確率は12.5%。これはきびしい。負けて当然とも言えます。

でも、エースを張ったつもりがスペードのクイーンに変わっていたのは、不思議ですね。狂気のために「巨大なクモ」にも見えたエースのカードだから、クイーンと見間違った、ということもないではない。それでも、よりによって右にクイーンが出たときに、左にエースが出る偶然は、確率から考えて、ちょっと信じ難い。

じゃあ、どんな説明が考えられるでしょう? ここが最大の難関。だってタイトルとしての「スペードのクイーン」にも関わりますからね。私が思うに、満足な答えはそもそも無い。はい、そうなんです。プーシキンにとって、このカードの取り違えは説明する必要のないものでした。作者にとって重要なのは、こんなありそうもないことでも、読者がほんとにあったように錯覚して、驚き、楽しんでくれること、でした。出版後すぐに好評を以て迎えられ、そのことはプーシキンも自慢気だったようですが、それは彼の密かな試みが大成功だった、ということでしょう。

彼の工夫というのは、なにも語り方の手法のことだけではありません。そもそも、どうしてタイトルが「スペードのクイーン」なのかも、考えると疑問なのです。スペードのクイーンは最後にやっと出て来るだけで、しかも、このことば自身、この最後のシーンで2回しか使われていません。ようするに、全体のストーリーの中心的な役割をはたしていないのです。

もしも、ですよ、みなさん、この小説のタイトルを知らずに読んだとします。そのとき、みなさんだったら、どんなタイトルをつけただろうとお考えですか? ストーリーを暗示するためなら、たとえば、「3枚のカード」とか「老婆殺しの代償」とか、あっ、これじゃドストエフスキーか(笑)。それとも、ちょうどチャイコフスキーがオペラで描いたように、これをリザヴェータの悲恋の物語と考えるなら、「ゲルマンとリザヴェータ」「愛と金を見つめて」(笑)なんてのもありですかね。たぶんだれも「スペードのクイーン」にはしないと思いますよ。

それを、あえてタイトルにして、さらにそのタイトルに、暗示的な引用を添えています。この文庫では、タイトルページの裏に引用文を置く組版がされていますが、ロシア語版ではタイトルのすぐ下に置かれます。


ПИКОВАЯ ДАМА
  Пиковая дама означает тайную
недоброжелательность.
     Новейшая гадательная книга.


スペードのクイーン
スペードのクイーンは密かな悪意を意味する。
         「最新版カード占い」

さきほど、スペードのクイーンということばは2回しか使われていない、と言いましたが、これを含めても計3回です。みなさん、この謎めいた引用を最初どう読まれたでしょう? え? とくに気にも留めなかった? そうですよね。まだタイトルを見たばかりなのに、こんな文を読ませられても、なんのこっちゃ、ってなりますよね。しかも、小説の最後でやっと登場するスペードのクイーン。

これって、みなさん、亡霊が現れる真夜中に、窓を覗き込んだ人影のシーンを思い出しませんか。あのとき、ゲルマンはその人影を見たけど、「気にも留めなかった」。でも、潜在意識に残った。皆さんも、そして私もですが、小説の冒頭の引用に、なにかいわくありげな含みを感じつつも、とくに気にも留めずに読み始めるんですね。でも、潜在意識に残っているから、最後、エースがスペードのクイーンに変わったとき、おおっ、と反応するのは、まちがいなくこの潜在意識が驚愕を増幅させているんです。ああ、スペードのクイーンの「密かな悪意」とは、このことだったのか、と気づいて、満足感さえ覚える。読者は、なぜスペードのクイーンに変わったのか、不思議に思うことはあっても、不自然には感じない。

では、スペードのクイーンが出たことが亡霊のせいでもなんでもないことだったら、どうなるか? するとまたもや、おおっ、と驚嘆します。そのときこの引用文の「スペードのクイーン」は、トランプカードの「スペードのクイーン」を指していたのではなくて、その上のタイトル「スペードのクイーン」を意味していたことになります。つまり、この小説自体に悪意がありますよ、という断り書きだった。悪意というとニュアンスが悪いので、たぶん「たくらみ」とか「悪だくみ」「しかけ」くらいだと両義を兼ねそうです。あ、そうそう、これ、引用の体裁をとっていますが、たぶんプーシキンの自作でしょうね。なにやら不気味な響きのあった引用文は、ひっくり返すとプーシキン流のユーモアでした。

ついでに、章から外れた「結び」について。

ゲルマンが精神病院に収監されたことは、第6章の最後に持って来て、これで完結させることも可能でした。そこへリザヴェータとトムスキーの後日談が入ると、どうなるか? リザヴェータは貴族社会に残ることを嫌い、民間に勤める男と結婚する。自分に似た境遇の娘が、貴族の養女として同じ目に会わないよう、貧しい娘を引き取る。ともあれ、読者が心配していたように、夫人の死の一因を担った責任を感じて自殺する、なんてことはなく、ほっとする。 お調子者のトムスキーは、作り話の話術が功を奏して順当に昇進、お目当ての令嬢まで口説き落とした。 こうして、ゲルマンという人間が、ある日突然カード賭博に走り、破産して発狂するという、端から見ると不可解な事件があったが、それもすぐに忘れられ、いつもの平凡な生活が続く。あたかもゲルマンという人間が存在しなかったかのように。

最後です。

冒頭でこの短編の要約をご覧いただきました。あれは、片方の固定観念で読んだ場合の要約でした。もう片方の固定観念からみると、こんなストーリーになってしまいました。

将校仲間が語った3枚の必勝カードの冗談話を真に受けたゲルマンが、一攫千金を夢見て、その秘密を知るという老伯爵夫人から必勝カードを聞き出すべく、夫人の養女リザヴェータを利用し、寝室に侵入する。ところが、秘術など知るはずも無い老婦人が黙ったままなので、恫喝したらショック死してしまう。自分が殺したも同然の夫人の祟りを恐れるゲルマンは精神に異常をきたし、錯乱の中で、意味の無い3つの数字を夫人の亡霊が教えた必勝カードと思い込む。1日目、2日目と運良く勝ったものの、3日目に負けて全財産を失い、ついに精神病院に収監される。

私のプレゼンは以上です。討論会ではいろいろ質問も出るでしょうが、どうしても今聞いておきたいことがある、という、、、 はい、Y***さん。

Y***: いやあ、面白かったし、びっくりもして、、、まだ半信半疑のところもあるんで、もういちど読み直して、O***さんの指摘を検証してみようという気になっているんですが、今これだけはお聞きしたいと思うのは、きょうのこのO***さんの指摘、というか読み方ですが、だれかがすでにどこかで、ですね、発表しているとか、書いているとかは、ないんですかね? 
たぶんそんな話題も討論会で出てくるだろうとは思ったんですけど、この新しい文庫の解説にもないということは、研究者や学者の間では話題になっていない、ということじゃないですかね。私、学者世界のことは全く知りません。いちおう、ネットで検索してみたんですよ。もし、そんな記事があるなら、「スペードのクイーン、ふたつの固定観念」というキーワードでヒットするはずだ、と思って。ロシア語でも、英語でも。でも、見つかりませんでした。

ただ、私のような読み方をした人がいなかった、とは思えません。いたはずだ、って思っています。とくにプーシキンが発表して評判になった頃はね。ただ、そういう人は、おそらくそれをわざわざ書いて発表はしなかった。というのも、気づいた人というのは、ほとんどが作家だったのではないか、って思っています。こっそり、自分の創作のヒントにした、とか。たとえば身近な例で、芥川龍之介の「魔術」はあきらかにこのプーシキンのスペードのクイーンを意識した作品ですが、あれを読むと、彼もこのことに気づいていた気配を感じます。

外国の作家については、S***先生なんかは英米文学にお詳しいから、小説の技法についてはきっとご意見が、、、 あ、笑って頷いていらっしゃるのは、出番待ちでうずうずしている、ということですね(笑)。

ただ、一言付け加えますが、私が気づいたのは、この作品が日本でそんなに親しまれていないせいでもあると思います。たまたま私はロシア語のテキストとして、先入観もなく[注:ただし上記の映画は見ています]、重箱の隅をつつきながら読んでいて、とても面白かった。神は細部に宿る、って言いますが、まさに天才は細部に潜む、って実感します。

これが本場ロシアだと、むしろ気の毒なくらいですよ。子供向けに挿絵入りの本はあるわ、オペラはあるわ、先入観も固定観念もしっかりと準備されているんです。その挿絵を、、、ちょっとお待ちください、、、。あった、たとえば、これ。どうです、こんなおどろおどろしい挿絵を、テキストを読む前に見せつけられているんですよ。もう読む前から亡霊の登場を期待しちゃいますよね。

いずれにしろ、このプレゼンは文字起こしして会報に載せたあと、私のサイトに掲載するつもりでいますので、そしたら確実に「スペードのクイーン、ふたつの固定観念」で検索できるようになるでしょう。

ただそのとき、この話題をなにか「ネタバレ」みたいに早とちりする読者も出るでしょうね。小説の世界と現実の世界を区別することに慣れていない人はとくにですけど。日本では小説の位置が微妙です。純文学なんてことばが横行するし。テレビドラマや歴史小説などは、そこに人生訓を求めようとする人も多い。小説を説教壇や講壇の代わりに使う[注:「小説を説教壇や講壇の代わりに使う」というフレーズは、S.モームの表現。私のオリジナルではありません]作家も多いですからね。

それでは、10分ほど休憩をとった後、討論会に移ります。せっかくプロジェクターを用意してもらいましたので、休憩の間、お見せした映画の冒頭の部分を流しておきます。ロケはサンクトペテルブルクのモーイカ川周辺でおこなっています。最初のシーンで背景にアーチ型の橋のようなものが見えますが、これはエルミタージュ美術館とエルミタージュ劇場を繋ぐ通路で、左が美術館です。えっ? いいえ、行ったことないですよ。これ、ストリートビューで捜し当てました。


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あとがき

討論会は白熱して、予定の時間を大幅にオーバーしてしまいました。例会はこの討論会のほうがメインイベントなのですが、これは文字起こしはしておりません(したとしても、このように公開はしませんが)。ただ、議論の中で、W***さんが興味ある指摘をされていましたので、それだけご紹介します。

W***さんによると、はじめの将校たちのカードパーティの日から、リザヴェータがゲルマンから手紙をそっと手渡される日までの、日数の計算が合わない、と言います。これは私も気が付きませんでした。日本語訳では数字を使っていますが、ロシア語原文では文字で綴られています。つまり、「2日」と書かないで「ふつか」と綴るようなものです。ですので、原稿の数字の誤植というものではないはずです。興味のある方は検証してみてください。




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