(2)「まちづくり」と「情報化」   
前項の趣旨から「まちづくり」を定義する必要があります。定義することによって引き継いで行くべき事柄が明確になり、創造が始まるのです。市民主体のまちづくりが「まちづくり」と考えるわけです。また「つくる」というからには主体的な動きが伴う。

 生きる権利、生ける人間としての生命活動を伝え続けること。生命の鼓動が聞こえる、生ける生命と生命の語らいが行われる、そのような「場づくり」が「まちづくり」。「まちづくり」とはそのようなものである。このように定義したいと思います。

 「地域コミ ュニケーション」とも言われますが、以下を明確にしておきたいと思います。地域同士のコミ ュニケーションの前に人間同士のコミュニケーション、1人と1人のコミュニケーションの輪の拡大の過程そのものが「まちづくり」になっていくのだと考えるわけです。一滴のしずく、小さな分水嶺が大河の流れになっていくようなもの、そのように思うわけです。
あくまでも人が原単位であり、心臓の鼓動のある人が主体です。鼓動を広く伝え続けること、それが「まちづくり」です。生命活動そのものです。
 「町」にも「街」に も「都市」にもなくてはならないものではありますが、「町」「街」「都市」から人の鼓動はイメージされない。これらは単なる器としての響きしかもたないわけです。したがって市民としてつくるべきは、ひらがなの「まち」なのであり、定義に基づいて「まちづくり」を進めることが重要と考えるわけです。

次に、人々は「生きるため」に情報をお互いにやりとりするわけですが、このことに関して単純に考えてみたい。一昔前はそれが井戸端会議であった。なぜ井戸端だったか。井戸は生活するために最も重要な水を人に供給するからです。水がなければ人は生きてはいけない。生きていけないから生きるために水のある井戸端に人は集まってくるわけです。

現代に置き換えれば「情報端」です。「情報」なくして人は都市生活を送れない。だから人は「情報化」に否応なく、あるいは積極的に対応して行かなくてはならない。自給自足を送る人には「情報化」は無縁である。したがって「まちづくり」と「情報化」は表裏一体なのです

 「情報」と「情報化」は違う。「情報」とは「水」そのものであるが、「情報化」とは「水」を汲み上げる手段である井戸端の整備であり、そこに集まる人々とのネットワークである。あるいはそのような態様を言います(集まらなくて済むようにしようとする仕組み構築を「ネットワーク化」といったりしている)。しかし「水」が「飲める水」なのか、はたまた「飲めない水」なのかはよくよく監視し安全を相互に確認し合わなければ判断が付かないのと同様に、「情報」もその善し悪しが簡単に判断が付くものではありません。

 自給自足者は「情報」そのものを自分なりに監視、管理し自分なりに消費の対象にすれば事足りるが、都市生活者はそうは行きません。
 
 自然から離れて形成された「都市の水」は無条件に飲めるモノではない。したがって「情報化」に対応し、ネットワークを通じて提供される「情報の確かさ」を高めていく必要があるわけです。
 
 「情報化」の本質は実はここにあると考えます。「情報そのものの確かさ」をいかに高めるかである。確かさとは「安全かどうか」「使えるかどうか」「本当かどうか」・・・目的によって言い方は違ってきますが、「確かさ」である。そのための手段としての情報化対応、ネットワーク化である。つまり、生き るために人は「まちづくり」をとおして情報化、ネットワーク化に対応する必要があります。 情報端に参加していかなくては生きてはいけない。「確かな情報」を得るために。

【サイト管理人Yusanコメント】
 人は自己なりの価値観に基づき、個々人の生きがいを求めつづけています。皆。それは「確かな情報」を求め続ける旅とさえ言い得ると思います。

 「まちづくり」の本質も実はここにあると思います。人は「ひとりでは生きていけない」という原点に立ち戻ることが必要と思います。したがって市民参加の本質もここにあります。
  水は無尽蔵 ではないことが解ってきたし、地球そのものが無限ではないことも解ってきた。また「自然が醸し出す水」ではなく「人が管理する都市の水」は澱みよごれ、飲めないものが多くある ことも解ってきた。情報もキチット「本当かどうか」確かめ、確かめしていかないと使えないことが解ってきました。また有害ですらあることが解ってきました。

 水が無尽蔵ではないのと同様に、有用な情報(使える情報)も限られていること、また財源も無尽蔵ではないことも解ってきた。結局の ところ何もかもが有限であり、限られたなかでの循環であることも解ってきた。 したがって無駄に使ってはならないのに、使い方について監視し、管理しなければ無駄に使われたり、ほっておくとよどみが生じ汚濁し結局は廃棄しなければならなかったり、また人は特権を利用し流用したり、乱用したりする存在実態であることも解ってきた。
 (皮肉なことに、これらは「情報化」によって解ってきたのです。
  これは、人間の性ではないかと思うのです。)

 だから情報公開でありIRであり、市民参加であり、透明性であり、情報化なのです。「まちづくり」と「情報化」とはこのような文脈の中で理解される。

また「人はパンのみにて生きるにあらず」−−「まちづくり」と「情報化」は理念としても押 さえておく必要があります。 21世紀には上に述べたように、有限資源であるパンの管理を民主主義を根付かせることによって行っていくと同時に、高い文化性の発揚により人類を英知あるものに仕立て上げて行くことが必要と考えるのです。
 
 つまり行政も企業も個人も、市民すなわち「生命者としての市民」、「生活者としての市民」、そして「知性ある市民」の見えざる手(文化や文明の担い手としての市民)を意識し、育み、大きな流れにしていく必要があります。
  「まちづくり」と「情報化」は上記のように表裏一体であり、そのあり方について行政も企業も個人も、再検討と再検証をおこなう必要があります。そのことによってのみ、存立意義を認知され、市民と共に永遠の共同体になり得るものと思われます。形ある資源は有限でも文化や文明は無限の発展可能性を秘めているのではないでしょうか。
  このような議論をあらゆる「井戸端」で深めていく必要を感じています。当「情報端会議室」での活発な議論も期待するものです。



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