まどろみの向こう側IIA


 何も言わず、エマがそっと銀杏の木に近づいていく。

「あなた……」

「え?」

「『魔法使い』さんね?」

 無言を貫く自分の前で、エマが微笑む。

「『魔法使い』さん、そうでしょ?」

 驚愕は緩々とやってきた。

エマはその瞳に歓喜の表情を浮かべこちらを見つめていた。

「なぜ……」

 『ジョーイ』は小さく声を震わせる。

それは遠い昔に吐いた嘘。

あの子供と交わした偽りの約束。

それを知る者は、もういない。

いないはずだったのに……。

「だってこんなにちっちゃい女の子が

そんな難しい言葉使うはずないでしょ。

何より、あなたリボンを持ってるじゃない」

『ジョーイ』は激しく頭を振り否定の意を示したが、

エマが意に返した様子はなかった。

「感激だわ、本当にいるなんて。

なら彼の努力もちゃんと報われたってことなのね……」

 エマが両手を腕の前で組み、祈るように瞳を閉じる。

それから軽く息をつき、くるくると愛嬌のある瞳で見つめてきた。

「状況はよくわからないんだけど、でも、あなたは私たちの恩人よ。

それは永遠に動かしようのない事実だわ。そうじゃない?」

 大きな榛色の瞳をさらに見開き、エマが口元を綻ばせる。

「……ありがとう」

 『ジョーイ』は噛みしめるように告げおもむろに立ち上がった。

階段を降り、エマの元へいく。

それから改めて、持っていた赤いリボンを差しだした。

「これは、君が持っているべきものだと思う」

「なぜ?」

「俺がこの世に留まっていたのは

君に会ってこれを渡すためだったんだよ。たぶん」

「もらえないわ」

 エマが右手をこちらの目前に立て、きっぱりとした口調で答えてくる。

だが、『ジョーイ』はそれで引き下がるわけにはいかなかった。

「それは困る。そうでないと……」

 『ジョーイ』は必死だった。

すべてを終わらせるために、すべての人の幸福のために。

それが例えエゴであろうとも、自分にはそうする義務があった。

「そうでないと?」

「永遠に『アルマ』が眠ったままだ」

 エマがその一言に瞳を見開いた。

黙ってこちらの左手に握られた物を眺め、三度ゆっくりと首を左右に振る。

「やっぱり、受け取れないわ」

「なぜ?」

 懇願するように問うと、エマが目を細めた。

「訊くけど、それはあなたをこの世に蘇らせた神さまが、

あなたに直接そう言ったことなのかしら?」

「いや、そうじゃない」

 『ジョーイ』は頭を振った。

「でも、そうでなければ、

俺がなぜ今ここにいるのか説明がつかない」

 語尾を濁し頭を垂れる瞳に、エマが破顔するのが目に入る。

「……私ね、あなたより事実上はずっと年下だけれど、

生きてる年数から言えば私の方が何年か余計に生きてる分、

あなたに見えないものが、少しだけ見えていると思うの。

だから……」

 エマは少し言葉を切って、会話を続けた。

「わたしはそれを受け取れないわ。

だって、わたしよりずっと受け取るにふさわしい人が

もうすでにいるんだもの」

「どこに?」

「それはあなたが一番良く知っているんじゃないかしら」

 エマが意味深にこちらの瞳を覗き込む。

「言っている意味がわからない」

『ジョーイ』は頭を振って降参の意を表した。

瞳を逸らしたエマが、少々落胆したように目を伏せる。

「……ねえ、『魔法使い』さん」

 半ば独り言のような問いかけに、『ジョーイ』は返事をするのを躊躇った。

「……え?」

 躊躇いは声を掠れさせ、彼女以上に仄かな音となる。

銀杏の幹に右手を翳したエマが、ゆっくりと木漏れ日を見上げた。











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