第二部「国」総括
現代は哲学が不毛の時代だと言われる。人工物に取り囲まれ、いつも他人と顔を突き合わせて生活していると、自分を見つめることよりも対人関係の方が重要な関心事になるのかもしれない。
おそらく人間が自分について、人間について、深く考えるのは、他人を見ているときではないのだろう。それは自然に対したときなのではないだろうか。
他の動物は自然と完全に同化し、一体化して生きている。自然の恵みをそのまま受け取り、それだけで生きている。あるがままに生き、あるがままに死んでいく。その生も、その死も、それ自体が自然の一部になっている。
では、われわれはどうなのか。もちろん、自然の中で生きていくしかない。自然とともに生きていくしかない。しかし、周囲の自然とは何か違和感がつきまとう。自然の中で、われわれは何と不可解な存在なのだろうか。
他の動物のように自然に抱かれ、自然の内懐で安らかにまどろむことはできない。自然の与えるものだけで、自らの生を維持することはわれわれにはできない。自然に働きかけ、自然から恵みを引き出し、それを自らの糧として生きていくしかない。衣も食も住も、われわれの生に必要なものは、自らが自然の中から作り出していかなければならない。
周囲をどれほど見回しても、われわれのような存在はどこにもいない。なぜわれわれだけこんなにも違うのか。なぜわれわれはこんなところにいるのか。なぜわれわれはここで生きているのか。
人間が自分を取り巻く自然の中で、自分の置かれている状況を自覚したとき、最初に感じるのはそのことなのではないだろうか。「倭の神話」は、人間にとってのその本源的な疑問に対する古代人なりの解答なのだと私には思える。
人間は自分が何者であるかを知っているから、他の何よりも偉大なのだろう。だが、自分が何者であるかを知っているから、それが人間を悩ませる。それは人間が人間であるためには宿命的に背負わなければならない苦悩である。人間の精神史は、この苦悩をどうやって解消するかに費やされてきたと言っても過言ではないだろう。あらゆる哲学の、あらゆる宗教の、出発点はここにある。そして、人間が背負うこの宿命的な苦悩を根本から解消する方策を示すものだけが、普遍的な価値を持つ精神的財産として現代にまで存続しているのだろう。
だが、現代ではもはや哲学や宗教はかつての力を失ってしまった。外向きに付いている自らの目を内に転じることは、古代よりも現代の方がむしろ難しいのかもしれない。
人間の歴史の中で、現代ほど唯物論が全盛を極めている時代はかつてない。唯物論を基礎にした科学技術の圧倒的な成果を目の当たりにして、現代人は知らず識らず唯物論者になっていく。現代は「もの」の時代である。だから、現代人の価値観は「もの」を中心にして組み立てられている。「もの」が溢れている社会が「豊かな社会」である。「もの」を多く所有している人が「富める人」である。現代が「事実の時代」であり、「肉体の時代」であり、「知識の時代」であり、「人間中心主義の時代」であるのは、実はすべてその底流でつながっている。現代人の意識の中に、唯物論は深く入り込んでいる。
「倭の神話」は、まさにその対極に立つ。そこでは「もの」はほとんど重要性を持っていない。「倭の神話」が生きていた時代は「もの」の時代ではない。それは「こころ」の時代である。「必然の時代」であり、「精神の時代」であり、「想像力の時代」であり、「神々の時代」である。
だから、「倭の神話」からわれわれが感じなければならないのは、「想像力の貧困」よりも、むしろ「精神の貧困」なのかもしれない。科学技術の発達によって、現代は物質的には豊かな時代になった。快適な時代にもなった。われわれの周囲に便利な「もの」は溢れ、自然の脅威も多く克服された。科学の進歩は、人間に未曾有の繁栄の時代をもたらしてくれた。
だが、その精神において、その心性において、われわれは古代人よりどれだけ進歩したのだろうか。どれだけ豊かになったのだろうか。古代人に誇り得る、どんな精神的な富をわれわれは持っているのだろうか。
われわれはもうそろそろ唯物論の限界に気付くべきなのかもしれない。これほど進歩した科学技術が、まだ単細胞生物さえ創り出せない。物質と生命との間には、おそらく乗り越えられない壁がある。そして、生命と心との間にも、きっと乗り越えられない壁がある。唯物論は人間に物質的な豊かさをもたらしてくれたが、精神的な豊かさはこれからも決してもたらしてはくれないだろう。
神が死んだ時代にあって、「必然」が人間から遠ざかってしまった時代にあって、われわれはどうやって心の豊かさを取り戻したらいいのだろうか。唯物論を超える新たな世界観、人間観、価値観をわれわれはこれから創り上げていかなければならない。それは、現代に生きるわれわれに課せられた最大の問題である。