
お盆明けは、もう学校での補修はないのだが、私は相変わらず部活のために毎日登校していた。でも、
早乙女くんはもちろん、学校にはこない。あれから、1度だけ電話はしたが、彼は毎日病院に行って
いるようだし、私も練習三昧だから、会ってはいない。
電話をしたのも、夜中に彼に会った次の日、つまり法事の日の晩だけだ。それも、無事に帰り
ついたし、家族にもばれませんでした、と報告しただけだし。
毎日でも電話したいところだったが、いざかけようと思うと、特に話すべきことはないのだ。
本の話、部活の話、友達の話…なんて、わざわざ電話で話すようなことでもないような気がして。
大体、私は彼にとってどういう存在なのか…毎晩電話していいような、特別な女の子なのか?そう
考えてしまうと、ひるみまくり。
…好きだと言われたわけでもない。好きと言えたわけでもない。
私は彼の彼女ではないのだ。
そんな思いに捕らわれて、プチ鬱になりそうだった頃、地元の神社の祭があった。それほど有名な
ものではないが、100年以上の伝統があり、奉納される神楽舞は県の有形文化財だかナンダカらしい。
うちも氏子だし、酒も奉納するので、もちろん毎年行っているが、特に今年は高橋が初めて神楽を舞う
ので、絶対来いと厳命されていた。高橋の家は田んぼを50mほど隔ててはいるが、お隣さんなのだ。
保育園から何の因果か高校まで一緒という、田舎にありがちな、いわゆるくされ縁の幼馴染というヤツ。
祖父と両親と兄は朝から祭の準備のため神社につめていたが、相変わらず日中は部活だった私は、
夕方浴衣に着替え…家庭科で縫ったヤツ…高橋への差し入れのビールをクーラーバッグに詰め、
神社に向かった。
神社に向かう道すがら、気づいた。
早乙女くんも来るかも。
どきん、として、足が少しもつれた。
彼の伯父さんの蔵の酒ももちろん奉納されるわけだし。
会えるかな…。
まだ空はラベンダー色の時刻なのだけれど、鳥居を一歩くぐると夕日は杉木立にさえぎられ、
うっそうと暗い。かがり火が参堂のあちこちに焚かれ、幻想的な雰囲気を高めている。本殿が近づくと、
十数軒ほどの露店も出ていて、神楽のお囃子の練習の音も聞こえてきた。石畳を本殿に向かう人々の
顔は、皆上気して楽しそう。
くすんで古びた神殿の前庭は、今日ばかりは赤々とかがり火が焚かれ、5色の幕に三方を囲まれた
神楽の舞台を照らし出す。
彼がいないかと、きょろきょろしながら、舞台の近くまで来たが、結構な人出でまったく探せない。
舞台さえ、ろくに見えない始末。もう少し早くくればよかったか。場所を探してうろうろしていると、
観光客らしいオヤジのカメラの三脚に足をひっかけて、カメラは無事だったのだけれど、私が転びかけて
しまって、怒られるわ、新品の浴衣の裾を汚してしまうわ、泣きたくなった。
あまりいい場所が取れないまま、神楽が始まる。高橋の出番は、最初の演目だけだ。今年の最初の
演目は、古代の英雄が、土地を荒らしまくっていた鬼の一味を退治したという、どこの土地にも
ありそうな話。それでも、豪華な衣装と、テンポの速いお囃子、派手な舞に、かがり火が相まって、
毎年見てるはずなのに、引きこまれてしまう。高橋は、最初に英雄にやっつけられる、小物の鬼の役。
遠目で鬼の面をかぶって、キンキラキンの装束を着けていても、あの無駄にひょろ長い手足は見まごう
はずがない。5分くらい踊って、すぐにやられてひっこんでしまった。まあ、今年からやっと青年団に
入れた18歳なのだから、そんなもんだろう。
子供の頃は、この神楽が少し怖かった。いつも遊んでいる神社が、かがり火によって違う場所になって
しまうことも怖かったし、うちの兄貴はじめ、顔なじみの、いつもは優しい青年団のお兄ちゃんたちが、
真剣な顔で、立派な衣装と、きらきら光る武器を持って舞っている姿が怖かったのだ。
神楽は小一時間ほどで2つの演目を終えた。その後神主さんによるお祓いがあって、氏子たちに
よって、20樽ほどの一斗樽が奉納された。氏子たちの中には、うちの祖父と父と、早乙女くんの
伯父さんも見分けられた。ふるまい酒が始まる。
私は喧騒を抜けて、神殿の裏手に回った。そちらに毎年、神楽の控えテントが張られていることを
知っていたから。
案の定、高橋が一人、暗がりでテントのそばのベンチに座って缶ビールを飲んでいた。他の青年団の
メンバーは、ふるまい酒の方に行ってしまったのだろう。
「お、美誉」
「よ、お疲れさん」すでにTシャツとジャージに着替えた肩をたたく。
「ごくろう、ごくろう。俺、決まってただろ?」高橋は偉そうに言って、ビールを掲げてみせる。
「なに、そのえらそうな態度。せっかく冷えたビール持ってきてやったのにさ。飲んでるみたいだし、
このまま持ってかえろ」
「あ、うそ、美誉ちゃーん、きてくれて、ありがとー」踵を返そうとすると、高橋が浴衣の袖を
ひっぱった。その袖をひっぱり返していると、
「あれ、曽根女史かあ?」聞き覚えのある声が背後から。
クラスの男子が4名ほど。高橋の仲良しグループのやつらだった。
そして、その中には彼がいた。
少しだけ、足が震えた。
「なんで、曽根さんが?」小柄な笹本が私を見上げながら訊いた。
「うちは、この神社の氏子ですからぁ、当然っす」少し声も震えてしまったが、誰か気づいただろうか。
「あ、そかそか、曽根さんちの酒もあった?」栗城が本殿の表の方を指差しながら言った。
「あるある、美誉の親父さんもお祖父さんも、神殿の前にいたぜ」高橋が答える。
そっかそっかあ、とみんな納得する。
「あんたたちこそ、お揃いで、なんで?高橋に強制されたの?」
「そうそう、神楽デビューだから、絶対見にこいってさ…ねえ、あのふるまい酒って、俺たちも飲める?」
坂本が訊いた。
「あー駄目なんだよ」高橋が悲しそうに首を振る。「10年くらい前に未成年が酔っぱらって暴れた
ことがあって、それ以来この祭、未成年の飲酒に厳しいったらないんだ。蔵元大集合なのにな」
「じゃ、それは?」笹本が笑いながら、高橋の手の缶ビールを指さす。
「これは、青年団の兄さんたちが、1本だけなって、くれた」
そこで私は気づいた。野郎どもの背後に、黄色い浴衣姿がもじもじと立ちすくんで、こちらを
伺っていた。
「高橋、彼女じゃん?」
「あ、由美ちゃーん」
高橋はベンチからはじかれたように立ち上がり、彼女を迎えにいった。
クラスメートたちはにやにやして、二人を囲んだ。
「こ、こんばんは」由美ちゃんは小さな声で言って、頭をぴょこんと下げた。彼女は高橋の
バドミントン部の後輩で、ひとつ下。ルーズなお団子にまとめた髪と、短めに着付けた黄色い浴衣が
可愛い。いいなあ、きゃしゃだと、こんな可愛い色で、こんな着こなしもできるんだあ、と
うらやましく思う。
「由美ちゃん、浴衣、とっても可愛いよ」高橋は人目もはばからず、そんなことを言い、みんなは
苦笑し、由美ちゃんは更にうつむく。
「ちょっとお、高橋、私には何も言ってくれなかったじゃん。一応礼儀として一言くらい
ほめなさいよ」場を盛り上げるために、私はそんなことを言ってみる。
「美誉の和服は見慣れてるからなあ、ガキの頃から。新鮮味がありませんぜ」
「曽根女史の浴衣、もしかして、家庭科で作ってたやつ?」坂本が笑いながら言った。
「そだよ。ちゃんと着れるやつ作れたもん」
「いいね、大人っぽくて」早乙女くんが言った。
私は、久しぶりに聞く彼の声に数秒凍る。暗くて良かった。きっと顔が赤くなっていた。
「うんうん、後ろ姿見たとき、高橋、どこの浴衣美人としゃべってんだ、これは由美ちゃんに
言いつけないとって、いってたんだよな」
栗城が嬉しいことを言ってくれたのに、すかさず高橋が、「暗かったからだろ」
「あんたはねえ……」
わいわい言いながら、控えテントから更に奥まった裏参道の石段に移動した。ここの方が外灯がある分、
大分明るい。石段の片側に、2人ずつ腰掛けた。一番上が由美ちゃんと高橋。その下に早乙女くんと私。
あとの3人はその下にごちゃごちゃと。
彼が私の隣にさりげなく座ってくれたのが、とても嬉しかった。ジーパンをはいた長い脚が、私の膝に
触れそうなところにある。
ビールは1パック6本しかなかったが、由美ちゃんが飲めないということなので、高橋がジュースを
買いに走った。
「では、高橋くんの神楽デビューに乾杯!」高橋が自分で仕切って、みんなで缶を打ち合わせた。
「ああ、うめえ」
「あんた、さっきも飲んでたじゃない」
「あれイマイチぬるくなってたんだよ」
「ありがとな、曽根女史、俺たちにまで。重かっただろ」ぐっと半分ほどもビールを開けた坂本が
私を見上げながら言った。こいつもたいがい飲み慣れてるっぽいな。
「酒は重さを感じません」
「さっすが、蔵元のお嬢様!」
「なあ、坂本、どうして曽根さんのこと、女史って呼ぶの?」早乙女くんがおっとりした口調で訊いた。
「えー、だって、女史って感じしねえ?」坂本が笑いながら答える。
「それって、怖いってことか?」すごんでみせる。
「いや、そーじゃなくて」坂本は半ば本気でびびっているようだ。「大人っぽいし、凛々しいってかさ」
「なんか、わかる」栗城が頷いて「格好いいんだよな、曽根さん。下手な男より男らしいってか。並みの
男じゃ色んな意味で太刀打ちできなそうってか」
「ほめてるのか?けなしてるのか?」
「ほめてるんでございますよ、もちろん」栗城がわざとらしく頭を下げる。
笹本がにやにやして「男嫌いって噂もあるしな」
「うあ、どっからそんな噂が出てるのよ」
「だって、何人から告られても断りまくりなんだろ」
げっ。
「んなことないよ、告られた数自体微々たるものですしぃ」
「えー、俺が知ってるだけで3件だぜ?」
えっ。
「うそ、絶対笹本が知らないのだってあるって」少なくとも三浦の件は、文芸部の一部から漏れて
いないはずだ。
「あ、やっぱ3件はあるのか」笹本が愉快そうに、笑った。
「げっ、カマかけたの?」みんなゲラゲラ笑う。早乙女くんにも笑われてしまった。
「美誉、もててんなあ」高橋が笑いながら言ったので、振り返ると、由美ちゃんと目が合ってしまった。
そうか、由美ちゃんは早乙女くんを見ていたのだ。
由美ちゃんは慌てて目を逸らしてうつむいた。
まあ、しゃーないか。初めて彼を間近に見た女の子は誰しも見つめずにいられないだろう。
「世の中、少しはもの好きもいらっしゃるってことよ」
「えーと、こーゆーのって蓼食う虫も好き好きって言うのか?」
「あ…その言葉、由美ちゃんにそっくりお返ししますわ」
すっかり酒の肴にされてしまったけれど、みんな楽しそうだったし、早乙女くんも笑ってくれたから
いいか、と思うことにした。
ビールを飲み終わり、露店をのぞきにいくことにした。
わざとみんなより少し遅れて、彼と二人並んで歩いた。露店が並んでいる付近は、それなりに混んで
いたから、遅れてもそれほど不自然ではないだろう。
すると彼がジーパンのヒップポケットから、貸していたウィンズロウを差し出した。
「ありがとう。面白かった」
私は驚いて彼を見上げた。
「わ、会う約束してなかったのに…?」
「来てるんじゃないかと思ってさ」
「そっか…」
彫りの深い顔に、露店の照明があたっていて、いつも以上に影が深い。
「もう読んだんだ」本を受け取ると、彼の温もりが残っていた。
「病院にいりびたりだから、本読む時間はいっぱいあるんだよ」
…そうか…。
「ニール、かっこよくなってたでしょ?」
「まあね」彼は苦笑して。「でも、相変わらずとことんひどい目にばっかり遭ってるから、かわいそうだな」
「言えてる…次も読む?」
「良ければ、貸して」
「了解」
空いたクーラーバッグに文庫本をしまって。
「今日、早乙女くんに会えるなら、私も、借りてた本、持ってくればよかったな。会えるかもって
思いついたのが、神社に着いてからだったから」
「もう読んだ?」
彼の声は低くて柔らかいのに、それでも、私の耳にはきちんと届く。
「うん、面白かったです。ありがとう」
「どうだった?」
「ギリシャに行きたくなった」
そう言うと、彼は可笑しそうに笑った。「確かにね」
「それから…ちょっとだけ、運命とか宿命とかいうことについて考えちゃって、寂しいな、って思った」
そう口にしてしまってから、何か乙女チックでらしくないな、と少し恥ずかしくなったが、彼はちょっと
考えてから、ゆっくり頷いて。
「そうだね…」
その時、前の方にいた高橋たちが、私たちに向かって早く来いというように手招きしたので、早足で
そちらに向かった。
人混みに押されて、彼の手の甲と私の手の甲がぶつかった。それだけで、びりっと、静電気のように
痺れが走った。
みんなでヨーヨー釣りをした後、射的をやろうと言う話になったのだが、彼は射的屋の数件手前の、
わたあめの屋台のそばで立ち止まった。どうかしたのかと振り返ると、手首を握られて、強く引き寄せられた。
そして囁き。
耳元に息を感じるだけで、腰がくだけそうになる。
「浴衣の着付けって、自分でできるの?」
「う…うん、できるよ」
「じゃ、これから脱がしてもいい?バイクで来てるんだ」
私は思わず息を飲んで。
でも次の瞬間小さく頷いていた。
高橋たちは、射的の屋台にたどりついたのか、もう姿は見えない。このまま二人でバックレたら、
後でなに言われるかわかんないけど。
……それでも全然構わない。

彼の原付に二人乗りしながら、私は笑いが止まらなかった。
「何笑ってるの?」農道を走りながら、彼が大きな声で訊いた。
「だってさー、祭の夜に原付でラブホなんて、いかにも田舎のヤンキーじゃん」
彼も笑って。「全くだ。しかも、飲酒運転だもんね」
「浴衣だしさぁ」彼の腰にしがみつきながら、浴衣の裾が乱れるのも時々直さなければいけなくて、
なかなか忙しい。
「ノーヘルだし!」
取り締りにひっかからないように農道を縫って、インターチェンジのそばのラブホにたどりついた
時には、二人ともすっかりハイになっていた。飲んでたせいもあると思うけど。
祭の晩だけど、何とか部屋をゲットできた。
「うわ」部屋に入って、私は思わず声を上げてしまった。
真っ黒。
「うーん、すごいな。部屋選べなかったから、仕方ないけど」彼も部屋を見回しながら苦笑した。
ベッドもベッドカバーもカーテンも絨毯も、もちろん、壁紙や天井も真っ黒け。薄暗い間接照明しか
ないので、陰気このうえない。
「電気消せば、何色でも同じだよ」そう言うと、彼はぷっと吹き出して。
「そりゃそうだ」
その時、私は自分の浴衣が着崩れまくっているのに気づいた。そりゃ、原付乗ってくれば…。
慌てて彼に背中を向けて襟や脇を引っ張りまくる。
「…むしろ、直さないで、脱いでくれた方が、俺としては嬉しいんだけど」背中越しに彼のくすくす
笑いが聞こえてくる。
「あ…うん、そっか…じゃ、バスルームで脱いでくる。ついでにシャワーもお先に…」
「そこで脱いで」
え。
「脱いで見せて。そこで」
彼の口調は柔らかなんだけど、それでも有無を言わせない感じもあって。
「そんなに、面白くないと思うよ…パンツもはいてるし」さすがに腰巻きだけってわけにも。
「俺にとっては、面白いと思う」
「そう…かな」
じわりじわりと、追い詰められていく感じがする。
「脱がせてあげてもいいんだけど、浴衣シワになったりしても、悪いし」
「うん…まあね」
「お湯入れてくるから、覚悟決めててね」彼はバスルームに入っていった。
「お」バスルームの中から、彼の驚いた声がした。
「なになに?」これ幸いと、バスルームを覗き込む。「お」
バスルームももちろん黒なんだけど、真ん中に大きなガラスのボウルのような透明なバスタブがあって、
それを間接照明が柔らかく照らしている。
「バスルームはなかなかいいんじゃない?」彼が私をのぞきこみながら言った。
「そ、そだね」
彼の視線はいつもの通り優しいものだったのだけれど、その奥にちらりと獣めいた欲望が見えたような
気がして、私の動揺はますます激しくなった。
今夜は、違うかも。
こないだとは違う夜になるのかも。
少しだけ不安。
そしてやっぱり、期待。
樹下の天使3−2