千葉胤朝(ちば・たねとも) ?〜1486

肥前国の国人領主。出自は肥前国千葉氏の庶流で、千葉胤紹の二男。千葉胤盛・胤将の兄。千葉介。
父の胤紹は肥前国千葉氏の惣領・千葉胤鎮の弟であるが、胤鎮と袂を分かつて惣領の地位を争い、文安2年(1445)8月に長子の政胤とともに討たれたため、胤朝が家を継いだ。
寛正5年(1464)10月に惣領家の千葉元胤(胤鎮の子)が没し、その子である千葉教胤が家督を相続すると、惣領の地位奪取を図って大内政弘に意を通じ、九州探題の渋川教直や肥前国今川氏の今川胤秋らとも誼を通じた。
寛正6年(1465)5月頃、教胤から冷遇されていた今川胤秋を唆して蜂起させたとみられ、このときはその鎮圧に出陣した千葉教胤勢が敗退しており、応仁元年(1467)6月、今度は今川胤秋らが千葉氏惣領家の小城郡千葉城に侵攻するが、反攻に出た千葉勢によって返り討ちにされて戦死している。しかしこの一連の抗争において、胤朝は一切表に出なかったようである。
文明元年(1469)6月、千葉教胤が藤津郡の大村家親と戦って没すると、その後継として招かれ、肥前国千葉氏の惣領となった。それまでの千葉氏は北九州の争乱に連動して惣領家が少弐氏派、庶流家が大内氏派であったが、庶流家出身の胤朝が惣領になったことにより、肥前国千葉氏は大内氏派が主流となる。
同年9月頃には家臣の中村胤明と岩部常楽の対立が胤朝とその弟・胤将に波及し、さらには岩部の支援要請を容れた少弐政資の介入をも招くこととなる。
岩部は文明2年(1470)12月に戦死し、岩部が擁立した胤将も没落した。しかし文明8年(1476)頃には二弟の千葉胤盛が蜂起。一時は少弐氏派の胤盛が優勢だったが、応仁の乱が終息して大内政弘が周防国に帰国すると、大内氏を後ろ楯としていた胤朝も勢威を取り戻し、文明12年(1480)頃には、胤朝優位で胤盛と和していたようである。
しかし文明18年(1486)10月3日、潜伏していた胤将に小城城を攻撃されて敗死した。