名和顕忠(なわ・あきただ) ?〜?

肥後国八代郡古麓城主。名和義興の甥。幼名は幸松丸。正五位下・弾正小弼・伯耆守。
長禄3年(1459)12月(異説あり)に義興が死没したのちに内訌が生じ、寛正4年(1463)頃に重臣の内河喜定と共に球磨郡人吉城主・相良長続を頼って亡命。
相良氏の助力を得て寛正6年(1465)に八代郡に復帰、家督を継承した。この代償として八代郡高田郷を相良氏に割譲したが、文明14年(1482)9月にはこれを奪回しようとして高田への侵攻を企てたため、相良氏と不和となった。この高田郷侵攻は撃退されたばかりか翌年12月からは逆に相良為続に攻め込まれ、数度の攻防戦の末の文明16年(1484)3月に古麓城を逐われた。
明応8年(1499)3月、相良氏が肥後守護・菊池能運との抗争に敗れて古麓城を放棄したため城主に復帰したが、菊池能運と宇土為光の抗争に際して宇土氏に与力したため、菊池氏との関係を修復して八代奪還を企てる相良長毎の攻撃を受けることになり、文亀4年(=永正元年:1504)2月に古麓城および八代郡を失った。しかしこの直後の能運急死の混乱に乗じて宇土城を入手し、以後は宇土を本拠とした。
この頃に剃髪、隠居して長照と号したと見られる。法名は悟山紹契。