肥後国の国人領主。相良一族の山田永留氏・永留実重の子。通称は藤五郎。初名を永留長重。左近将監。はじめ肥後国球磨郡山田城主。
文安5年(1448)2月、上相良(多良木相良)家の多良木頼観・頼仙兄弟が相良氏惣領で下相良(人吉相良)家の相良堯頼を人吉城から逐うと、長続は即座に挙兵して人吉城を奪還して堯頼を帰還させた。しかしこの直後の3月末に堯頼が急死したため、諸将の支持を受けて下相良家を継承し、人吉城主となる。
同年8月、多良木頼観兄弟を雀ヶ森で討ち取って相良氏の統一を果たし、その所領を併合して球磨郡一円の支配を固めた。
宝徳3年(1451)4月、肥後守護・菊池為邦より相良氏家督と知行地の安堵を得た。
長禄2年(1458)、島津忠昌から薩摩国牛屎院(牛山院)の割譲を受けた。これは、当時の島津氏では内訌の兆しがあり、長続が忠昌に敵対しないことを表明した見返りとされる。しかしのちに島津氏の分裂が明らかとなると、寛正6年(1465)に至って牛屎院を返還している。
長禄4年(=寛正元年:1460)10月、菊池為邦より肥後国葦北郡の領有を承認され、その所領は球磨・葦北の2郡となる。
寛正4年(1463)頃に家中の内訌から逃れてきた八代郡古麓城主・名和顕忠を庇護し、寛正6年には八代復帰に尽力したことで八代郡高田郷を譲渡された。
応仁元年(1467)より始まる応仁の乱に際しては東軍の要請に応じて兵を率いて上京したが、翌応仁2年(1468)に病にかかり帰国、2月15日に没した。享年58。法号は宝山道珍。