天文3年(1534)5月、尾張国勝幡城に生まれる。父は織田信秀。幼名は吉法師。通称は三郎。上総介・弾正忠・参議・権大納言・右大将・内大臣・正二位・右大臣。
天文15年(1546)、13歳で元服。初陣は14歳のときと伝わる。
天文17年(1548)頃、斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)を娶る。
天文20年(1551)、父・信秀の死により家督を相続する(年に異説あり)。
少年時代は奇怪と思われる行動が多く、「うつけ者」と言われていたことは有名。このため、家臣や一族に反目するものも多かったが、平手政秀の諫死で改心したといわれる。
弘治元年(1555)4月に清洲城の織田信友を、永禄2年(1556)の春には岩倉城の織田信賢を攻略して織田一族と尾張一国を統一、この段階において強力な家臣団の養成が進んだ。
永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で「東海一の弓取り」と呼ばれた駿河国の今川義元を討ち取り、永禄5年(1562)に徳川家康と同盟を結んで三河方面からの不安を取り除き、美濃経略に取り掛かった。
永禄6年(1563)に小牧城を築き、永禄9年(1566)には美濃攻めの要衝として墨俣にも築城、永禄10年(1567)には斎藤氏を滅ぼし(稲葉山城の戦い:その2)美濃国を分国化、井ノ口の地を「岐阜」と改めてここに本拠を移した。同時に「天下布武」の印判の使用を始め、天下統一を目指すことを知らしめた。
永禄11年(1568)9月、助勢を求めてきた足利義昭を奉じて上洛し、たちまちのうちに畿内の中枢部を制圧して(箕作城の戦い(信長上洛戦))義昭を将軍位に就け、政治上の実権を握った。しかし義昭は間もなく反信長の行動を見せ始め、朝倉義景や浅井長政らの諸大名、石山本願寺に反信長戦線の結成を呼びかけた。
こうした義昭の動きに対して信長は元亀元年(1570)、義昭の権力を奪うとともに姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破るなど、各地の反信長勢力と忙しく応対したが、9月にはかねてより不仲であった石山本願寺と交戦に至り(石山合戦)、これに呼応して挙兵した伊勢長島一向一揆には敗れるなど、苦難が続いた。
元亀2年(1571)には浅井・朝倉氏に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにした。
元亀3年(1572)、最大の反信長勢力である甲斐国の武田信玄が西上を開始し、遠江国三方ヶ原で徳川・織田連合軍を破り(三方ヶ原の合戦)、翌年(1573)には足利義昭も挙兵、苦境に陥った。しかし信玄は病死、信長はこの機を逃さず義昭を追放し、室町幕府を実質的に滅亡させた(足利義昭の乱)。
ついで朝倉氏、浅井氏を滅ぼし(朝倉征伐:その2、小谷城の戦い:その2)、天正2年(1574)には伊勢長島一向一揆:その3、翌3年(1575)には越前国の一向一揆を討伐、さらには長篠の合戦で武田氏に壊滅的な打撃を与えた。また、石山本願寺とも一時的なものとはいえ、講和を成立させた。
またこの年、織田家の家督と尾張・美濃の領国を嫡子の信忠に譲る。信長自身は従三位権大納言・右近衛権少将に叙任し、室町幕府に代わる新政権の樹立へ向けて乗り出した。
こうして当面の敵を各個撃破して小康を得ると天正4年(1576)に近江国安土に築城を開始、ここに本拠を移した。