戦国期において、本願寺教団の教義が著しく浸透した国には、ほぼ例外なく一向一揆が起こった。真宗本願寺派の第8代法主・蓮如は巨大教団の構築を通して宗教界の専制君主となったのみならず、一向一揆という武力が派生したのである。
一向一揆とは、一向宗(浄土真宗)の門徒らが武家などの搾取層に対して起こす、武力を伴った叛乱である。門徒自体には農民層が多かったが、軍事面の指揮者として浪人武士や現役武士、さらには本願寺より坊官が派遣されたりと、信仰のもとに団結した爆発力は決して侮れるものではなかった。
蓮如より時代が下ると歴代の本願寺法主は一向一揆を抑制すべく動いたが、永禄年間後期頃より織田信長が台頭してくるに至って、その動きに変化を見せるようになる。信長は領内統治において本願寺に限らず、一切の宗教勢力の介入を好まず、一揆を徹底的に弾圧した。一揆勢の方も本願寺教団の勢力と組織力を後ろ楯に信長に抵抗した。はじめは規模の小さい小競り合いのようなものが、やがては武家組織対宗教組織という全面戦争へと突入していくことになる。
信長と本願寺第11代法主・顕如の接触が始まったのは永禄11年(1568)9月、信長が足利義昭を奉じて上洛した頃からである。信長は京周辺の平定を終えると、畿内と西国を結ぶ摂津国大坂の地に寺院を構える石山本願寺に明け渡しを迫る一方で5千貫の矢銭(軍事後援金。米1万石相当か)を課した。石山本願寺は寺院とはいえ、堅固な要害に守られた要塞に匹敵する城郭だったのである。信長の意図を知る顕如は矢銭の要求に応じたが、それで許す信長ではなかった。信長は宗教勢力との共存ではなく、あくまでも己の『天下布武』の傘下としてのみ宗教の存在を認める、という考えだった。
元亀元年(1570)7月、信長が朝倉氏や浅井氏との対決に謀殺されている隙を見て、かつて信長に京を追われた三好三人衆が1万3千の兵を率いて摂津国に侵入して顕如と気脈を通じ、野田・福島に砦を構築して再び反撃の姿勢を示した。この動きを知った信長は8月20日に岐阜を発し、23日には京都の本能寺に宿泊。25日には淀川を越えて河内国枚方に出馬した。そして摂津国天王寺に進み、野田・福島を間近に包囲する態勢を整えた(野田・福島の合戦)。
信長が石山本願寺に近い天王寺に進出し、さらに天満から川口・海老江・神崎・上難波・下難波に陣を置くと本願寺側も平静ではいられなくなった。この織田勢の陣張りは本願寺包囲をも見据えた形でもあったのである。野田・福島の地が落ちれば、次に狙われるのは石山の地であろう。まさしく本願寺は危機に陥ったのである。信長にしてみれば石山本願寺の討滅をも視野に入れての出陣であったろうし、本願寺側としても、事態がこれほどまでに切迫していたために信長との対決を避けては通れなくなっていたのである。
信長と戦うことを決意した顕如は9月5日に紀伊国の門徒に出陣の触れを出し、翌6日には諸国の門徒にも徹底抗戦を促す檄を発した。顕如の発した檄は「信長に戦いを挑まぬ者は破門に処す」といった内容の厳しいもので、これを受けた諸国の門徒衆は一斉に蜂起し、のちのちまで信長を苦しめることになる。
本願寺自身の挙兵は9月12日のことである。この日の夜半、石山本願寺の危急を知らせる早鐘が撞き鳴らされた。強大な宗教勢力がついに信長との全面戦争に踏み切ったのである。