享徳の乱を山内上杉氏とともに戦い抜き、長尾景春の乱を鎮圧する過程において大きく威勢を伸ばした扇谷上杉氏であったが、扇谷上杉氏の家宰であり、長尾景春の乱鎮圧に大きく寄与した太田道灌が文明18年(1486)7月26日、主君である扇谷上杉定正によって謀殺された。定正が道灌を誅殺するに至った経緯には、定正が急速に成長した道灌を警戒したとするものや、扇谷上杉氏の伸張に危機感を持った関東管領・山内上杉顕定による謀計、また扇谷上杉氏内部での家宰職をめぐる曾我氏との権力闘争によるもの、など諸説ある。
いずれにしても道灌の死後はその嫡子・太田資康が上杉顕定の下へと逐電しただけでなく、それに続いて扇谷上杉氏に従っていた国人領主らの多くが山内上杉氏に属すようになったため、両上杉氏の力の差は再び開くこととなったのである。
これを顕定の謀計と見た定正は、顕定に対する戦略として古河公方・足利政氏や長尾景春と結んだ。
一方、この情勢を見た顕定も、実兄の上杉定昌や実父で越後守護である上杉房定に支援を要請。これを契機として山内・扇谷の両上杉氏の確執が深まっていったのである。
そして長享元年(1487)11月、扇谷上杉方であった下野国勧農城を上杉定昌が攻めたことを発端として、両上杉氏の分裂抗争が起こったのである。この後、越後守護・上杉房定が山内上杉氏を支援するために越後国から軍勢を派遣し、この抗争は関東地方のみならず、越後国をも巻き込んで拡大していくこととなる。
この両陣営はその後も長享2年(1488)2月に実蒔原、6月に須賀谷原、11月には高見原で武力衝突に及んだ。これらの合戦はいずれも扇谷上杉方が勝利したが、決定的な打撃を与えるには至らなかったために武蔵国を主戦場として対峙する状態が続いており、延徳2年(1490)12月になってようやく一応の和議が調った。
こうして情勢は沈静化したかに見えたが、関東を揺るがす事件が起こる。明応2年(1493)10月、堀越公方の内乱に乗じて駿河国興国寺城主・北条早雲が伊豆国に侵攻して足利茶々丸を逐い、堀越公方を滅亡させたのである(伊豆の乱)。
伊豆国は実質的には堀越公方が支配していたが、山内上杉氏の守護領国である。早雲はこの伊豆国への侵攻に際し、顕定と対立していた定正と結ぶことによって侵攻の容易化を図ったと見られており、ここに山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立が再燃することになった。
この両陣営の衝突は明応3年(1494)夏に再開され、8月には武蔵国関戸要害、9月には相模国玉縄要害をめぐる攻防戦が展開された。この後、定正は顕定が本拠としていた鉢形城を衝くべく侵攻を開始し、早雲も扇谷上杉勢に応じて武蔵国に軍勢を進めている。
また、9月23日には三浦義同(道寸)が養父で相模国三浦郡新井城(別称:三崎城)主の三浦時高を討っている。この義同は定正の兄・高救の子であることから定正の甥にあたるが、娘婿が山内上杉氏に逐電した太田資康であるという経緯から両陣営にも縁故があり、どちらの陣営に属したかは不詳である。
これらの情勢を受けて山内上杉勢は戦線を後退させることとなり、両陣営は荒川(現在の元荒川)畔の高見原で対峙した。
しかし10月5日に荒川を渡ろうとした定正が頓死したため、扇谷上杉・北条勢ともに退却した(高見原の合戦:その2)。
なお、扇谷上杉氏の家督は定正の甥で養子となっていた上杉朝良が継承した。