少弐氏は鎌倉時代より筑前国を基盤とする有力な守護大名であったが、幕府が設置した九州探題の支援を名目として周防国の大内氏が北九州に進出するようになり、14世紀末頃よりこの両者で抗争が続けられていた。
戦況としては幕府の後ろ楯を得ている大内氏が概ね優勢であり、少弐氏の当主が少弐教頼であった15世紀半ばには筑前国を逐われている。教頼の子である少弐政資は対馬国の宗貞国の支援を得て文明元年(1469)頃に筑前国の大宰府を奪回して復活の兆しを見せるも、応仁の乱のため畿内に出征していた大内政弘が文明9年(1477)11月に帰国し、翌年8月末より北九州に進撃すると政資が敗れて肥前国に逃れるなど、衰亡の一途をたどっていた。
この頃の肥前国小城郡の千葉氏では惣領の地位をめぐって分裂抗争が起きており、嫡流家は大内氏を、庶流家は少弐氏を後ろ盾としていた。文明18年(1486)10月に肥前国千葉氏の惣領であった千葉胤朝がその弟の千葉胤将によって殺害されると、千葉氏の断絶を惜しんだ少弐政資が自身の弟を胤朝の娘婿として娶せ、千葉胤資と名乗らせたのである。
こうして千葉氏を掌握した政資は本領回復を窺い、明応5年(1496)11月頃には再び筑前国に進出。しかし同年12月頃より大内氏が討伐に出陣してくると抗しきれず、翌明応6年(1497)1月に大宰府から逐われ、政資は山中の岩門城、子の高経は肥前国の勝尾城に逃れた。これに対して大内勢も軍を二手に分け、杉氏らの率いる2万を岩門城、陶氏らの2万の軍勢を勝尾城へと向かわせたのである。
この大内勢の攻勢を受け、岩門城では3月に政資の子・頼経が討死するなどの損害を受けて陥落し、政資は山を越えて肥前国小城郡の晴気城へと逃れた。晴気城は実弟の千葉胤資が拠る城である。この敗走のなか、政資は3月28日付で肥前国の河上社に神埼郡の土地を寄進し、戦勝祈願を行っている。
一方の勝尾城も防戦を試みたが、城に入っていた筑紫満門・東尚盛が多くの兵を失って大内勢に降参したという。少弐高経は肥前国神埼郡の勢福寺城へと逃れた。
高経の入った勢福寺城は、守将の江上興種が大内勢に通じたことで4月3日に落城した。高経はまたもや城から落ち延びて、父・政資が入った晴気城へと向かった。
その晴気城では、勝尾城で大内勢に降った筑紫満門・東尚盛らを先陣として、4月13日より猛攻が加えられた。昼夜に亘って迫攻してくる大内勢との攻防戦で、数え切れないほどの死傷者が出たという。
この猛攻を支えきれないと見た城主の千葉胤資は、兄の政資に多久への脱出を勧めた。多久梶峰城主・多久宗時の娘が政資の側室という縁故を頼ってのことである。これを容れた政資は4月18日寅刻(午前4時頃)に城から脱出した。
胤資は政資を城から落としたのち、自ら突出して大内勢に立ち向かい、力戦して討死を遂げた。
一方、多久へと逃れた政資であったが、恃みとしたはずの多久宗時もまた大内勢を恐れて政資に自害を勧めたため、政資も観念して4月19日に多久専称寺で自害した。
また、勢福寺城から逃れた少弐高経は、広滝山で自害したともされるが、正しくは晴気城に逃れ、石台越を抜けて市川まで落ち延びて自害したといい、この市川には高経の宝篋印塔が現存するという。