慶長(けいちょう)の役 (1/2頁)

天正20年(=文禄元年:1592)より交戦(文禄の役)に及んだ日本と朝鮮・明国の講和を進める小西行長の家臣・内藤如安が北京入りして必死の弁明に努めた結果、明国朝廷は国使を派遣することに決定した。
文禄5年(=慶長元年:1596)6月15日、明国の冊封正使・楊方亨が朝鮮の釜山を出発した。一方、副使の沈惟敬は正使よりも早く日本に到着し、6月27日、伏見城において秀吉に謁見している。正使が大坂に到着したのは8月29日で、9月1日、羽柴秀吉は大坂城で楊方亨と沈惟敬の2人の使節を引見した。
2人の使節は、明皇帝からの国書、封王の金印と冠服を秀吉に捧げた。これらの品は、明皇帝から秀吉に対する処遇を暗に示す物であったが、秀吉はもちろんそれに気づかない。
翌2日、冊封正使・副使を大坂城に饗応し、秀吉は明皇帝から贈られた王冠を着け、赤装束の服を着て上機嫌だった。酒宴のあと猿楽などが催され、秀吉にしても上々の首尾と感じていたところである。宴が終わって秀吉が明皇帝からの国書を僧・承兌に読ませたところ、「特に爾を封じて日本国王と為す」とあるだけで、秀吉がさきに明に要求した七ヶ条の条件については何もふれられていなかった。秀吉に贈られた赤色の官服とは、「皇帝」よりも格の下がる「国王」のものだったのである。
かつて秀吉が突きつけた要求は日本・明国双方の講和推進派の手によって、とにもかくにも講和を結ぶために「偽の降伏文書」に偽装され、講和を実現するためにへりくだった態度で講和交渉に臨んだ結果といえば妥当、もしくは寛大ともいえる処置であろうが、それらはすべて秀吉の知らぬところで行われたことたっだ。
この工作の首謀者のひとりでもある小西行長は事前にこの国書の「日本国王」という部分を「大明皇帝」と読み替えてくれるよう承兌に頼んでおいたのだが、承兌はそのまま日本国王と読んでしまったという。
秀吉が激怒したことはいうまでもない。再び朝鮮への出兵が命令されることになった。第2次朝鮮出兵、すなわち慶長の役のはじまりである。

慶長2年(1597)2月、秀吉は朝鮮再出兵の陣立て書を発表したが、それによると第1軍と第2軍は小西行長と加藤清正が交代で務めることとし、行長は慶尚道豆毛浦、清正は慶尚道西生浦から入った。第3軍が黒田長政・毛利吉成・島津豊久・高橋元種・秋月種長・伊東祐兵相良頼房で、第4軍が鍋島直茂と勝茂、第5軍は島津義弘、第6軍は長宗我部元親藤堂高虎・池田秀氏・来島通総・中川秀成・菅達長、第7軍は蜂須賀家政・生駒一正・脇坂安治、第8軍は毛利秀元・宇喜多秀家という陣容で、その他に釜山浦・安骨浦など、文禄の役の休戦後も帰国せずに駐屯を続けていた将士を含めての総計で14万1千5百の兵が動員された。

7月15日に藤堂高虎・脇坂安治・小西行長・加藤嘉明・島津義弘らの軍が、元均(ウォンギュン)の率いる朝鮮水軍と戦い、これを巨済島に破っている。これにより全羅道南部の制海権を手中に収め、上陸後の日本軍は左軍と右軍の二手に分かれ、手当たり次第に殺掠しながら慶尚・全羅・忠清の3道へ兵を進めていったのである。
第一の標的は、全羅道の「完全」な制圧だった。この全羅道とは、さきの文禄の役において一揆、ゲリラと化した住民の激しい抵抗に遭い、苦しめられた地域である。これを「完全」に制圧するということは、住民を殲滅することにほかならない。秀吉は狂気の権化と化していた。

一方、日本軍再侵攻の報を受けた明国朝廷では、朝鮮に再び援兵を派遣することを決め、6月半ば頃より全羅道(チョルラド)南原(ナムウォン)付近の防備を固めた。ここが全羅道攻防の要となるからである。しかし日本軍は殺戮・略奪・破壊・放火と暴虐の限りを尽くしながら進撃し、激戦の末に8月15日に左軍が全羅道の南原城を攻め落とした。
従軍した医僧の記録によれば「物を取り人を殺し、奪い合う様は目も当てられない」「野も山も、城は申すに及ばず全てを焼き払い」「夜が明けて城の外を見れば、道端の死人がいさこ(砂)の如し。目も当てられない」などとある。狂暴徒と化した日本軍がいかに残虐な行為に及んだか、窺い知ることができる。

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