千葉胤資(ちば・たねすけ) ?〜1497

筑前国少弐氏・少弐教頼の二男。少弐政資の弟。肥前守。肥前国小城郡晴気城主。
文明18年(1486)10月3日、肥前国小城郡を治める千葉氏において、惣領であった千葉胤朝が家臣団の対立からその弟・胤将に討たれた。そのため千葉氏の断絶を惜しんだ兄の少弐政資の意向によって、同年12月に胤朝の娘婿となって千葉氏の名跡を継承し、晴気城主となる。
当時の北九州は少弐氏と大内氏が覇権をかけて争っており、千葉氏においても胤朝は生前に三弟の胤将や二弟の胤盛と家督を争っていた。胤朝が大内氏派であったため、弟らは胤朝への対抗上からも少弐氏の後援を受けていたが、家督が千葉氏の者ではなく少弐氏出身の胤資に移ったため、これを不満とした胤盛が少弐氏派から大内氏派に転じている。
また、少弐氏出身の胤資が家督を継承したことで、それまで独立領主であった千葉氏は少弐氏の被官同然となり、兄である少弐政資と大内氏の抗争に深く関与していくことになる。
明応元年(1492)頃には千葉胤盛と和したといい、その後は兄の少弐政資に従って肥前国や筑前国を転戦したが、明応5年(1496)12月頃より大内義興が少弐氏に対して本格的な攻勢に出ると、これに抗し得なかった政資やその子の少弐高経を明応6年(1467)3月頃に自城の晴気城へと迎え入れた。
しかし晴気城も大内方に降った筑紫満門・東尚盛らの攻撃を受けることとなり、その猛攻に城を支えきれなくなると政資を城から退避させ、自らはその後に大内勢に打って出て力戦し、討死を遂げた(晴気城の戦い)。4月19日のことであった。