出羽国最上地方の豪族。日野宣加と称したが、実名か出家号かは不詳。天正9年(1581)、出羽国山形城主の最上義光が尾花沢で馬揃え(観兵式)を行って近隣に武威を示したとき、これに参じている。天童氏の滅亡後に最上氏に臣従した。
仙北の小野寺氏、庄内の武藤氏(大宝寺氏)、村山の最上氏らの狭間にあって絶えず周囲の脅威に晒されてきたが、天正18年(1590)の太閤検地のときに最上氏と和解した。
最上氏が仙北に進出するときなど先鋒となって戦功を挙げ、新庄城主となり、最上氏蔵入3万石の代官ともなった。
慶長19年(1614)、最上家親の命により清水義親を討ち、その遺領の管理にもあたった。