細川頼有(ほそかわ・よりあり) 1332〜1391

細川頼春の二男。正慶元:元弘2年(1332)5月2日に生まれた。通称は讃岐十郎。細川頼之の弟。細川頼元の兄。従五位下・宮内少輔・右馬頭。近世の熊本藩主細川家の遠祖。
観応の擾乱の頃には父・頼春とともに畿内にいたようであるが、頼春の戦死から間もない観応3(=文和元):正平7年(1352)3月5日には師事していた禅僧・無涯仁浩から受戒し、通勝という法号を与えられている。同年3月の男山合戦には讃岐衆を率いて参陣。しかしこの間に阿波国で南朝勢力が蜂起すると、将軍・足利義詮にその鎮圧を命じられた頼之に同道し、これを補佐した。
文和5(=延文元):正平11年(1356)3月に備後守護に任じられているが、守護としての活動は頼有ではなく頼之が行っていることから、頼有の守護就任は中国地方の経略に臨む頼之の軍事力を補強するための措置だったと思われる。
延文3年(1358)9月、無涯仁浩より無敵の道号を与えられる。
貞治6:正平22年(1367)に頼之が幕府の執事(のちの管領)に任じられて在京することが多くなると、頼之に代って四国の統治を担い、応安6:文中2年(1373)4月には阿波守護としての活動が見られ、守護職には就いていないが讃岐国でも実務を司った。しかし伊予国においては南朝勢力の河野通堯(別称を通直)の勢いを抑えることができず、制圧は成らなかった。
嘉慶3年(1387)11月26日付で子・松法師(のちの細川頼長)に譲状を認めていることから、この頃に隠退したとみられる。
しかし明徳元:元中7年(1390)3月よりの山名時煕追討には子・頼長とともに頼之に従って出陣して功があった。このときに後小松天皇より賜ったという錦旗は、南北朝時代のものとしては唯一現存するものである。
明徳2:元中8年(1391)9月9日、享年60で没した。法名は勝妙院無敵通勝。
嫡子の頼長は応永15年(1408)8月に和泉の半国守護に任じられ、その子孫が代々この守護職を相伝して細川宗家を支える重要な家系となるが、その基礎はこの頼有によって築かれたものである。