勇名を馳せた兵法家。上泉義綱の二男。上野国勢多郡大胡郷上泉に生まれる。名ははじめ秀綱、のちに武田信玄から諱を受けて名を信綱と改める。季長とも。従四位下・伊勢守・武蔵守。
愛州移香斎の子・宗通(元香斎)に愛州陰流刀槍の術を学び、これに工夫を加えて「新陰流」を創始した。
関東管領・上杉氏に仕え、上野国箕輪城を本拠とする国人領主・長野氏に属した。妹は長野業政の正妻となり、業政の没後はその子・業盛に仕えるなど密接な関係を保った。上野国に侵攻してくる武田氏や北条氏と戦って戦功も多く、『上野国一本槍』と称されたという。
箕輪城は永禄6年(1563)2月に武田信玄によって攻め落とされたが、このとき信玄が召抱えようとしたのを断り、武芸修行のために門弟の疋田文五郎兼景らを連れて諸国を遍歴した。
諸国で北畠具教、柳生宗厳、(宝蔵院)胤栄らの門人を得たが、のちに上洛。元亀元年(1570)には正親町天皇から剣技を天覧され、従四位下に叙された。
没年には諸説あるが、天正元年(1573)とする説が有力である。
安全に稽古ができるようにと、現在の剣道で用いる竹刀の原形を考案したことでも知られる。