南部晴政(なんぶ・はるまさ) 1517〜1582?

陸奥国糠部郡の戦国大名。南部氏24代惣領。三戸南部氏。南部安信の子。通称は彦三郎。初名は安政。右馬助。
大永5年(1525)4月の父・安信の死没を受けて家督を相続したが、未だ幼少であったことから叔父・石川高信(安信の弟)の補佐を受けた。
天文8年(1539)6月、家臣・赤沼備中の放火によって三戸城を焼失し、このとき多くの古文書を失ったため、これ以前の三戸南部氏の事績は断片的にしか知ることができない。
同年7月に上洛し、室町幕府12代将軍・足利義晴から一字を賜り、名を安政から晴政に改めた。
天文9年(1540)には石川高信の尽力で岩手郡を支配下に収める。
鹿角郡をめぐっては出羽国檜山城主・安東愛季と争う。この抗争は永禄9年(1566)8月頃より激化し、翌年10月には拠点の長牛・谷内城を落とされて鹿角郡における支配力を失うが、永禄11年(1568)3月には南部信直・石川高信・九戸政実らを進撃させて奪還している。
晴政には5人の娘があったが後継者となる男児に恵まれなかったことから、永禄8年(1565)頃に石川高信の子・信直に長女を娶らせて後嗣としていたが、元亀元年(1570)頃に実子の晴継が生まれると実子に家督を譲ろうとして信直を疎んじるようになった。このため被官層も晴政・晴継派と信直派に分裂し、この内訌に乗じてのことか、元亀2年(1571)には津軽地方の大浦為信(のちの津軽為信)が独立を目指す動きを活発化している。
元亀3年(1572)3月には信直の殺害をも企てるも失敗した。
天正10年(1582)1月4日に66歳で没したとされるが、元亀3年8月に66歳で没したとするなどの系図もある。