名を安高とも書く。加賀守護・富樫満春の子。富樫持春・教家の弟。富樫介。加賀南半国守護。
はじめ醍醐寺三宝院で僧となる。
泰高の父・満春は応永21年(1414)6月に加賀南半国、応永25年(1418)11月には加賀一国の守護となり、その没後は嫡男で泰高の兄である持春が、ついで二兄の教家が加賀守護職と家督を継いでいたが、嘉吉元年(1441)6月に将軍・足利義教の怒りにふれて更迭されたため、代わって僧籍にあった泰高が還俗して加賀守護となった。烏帽子親は管領・細川持之である。
しかしこの直後に義教が赤松氏に殺害され(嘉吉の変)、持之が義教の専制人事によって更迭された人々を赦免して以前の状態に戻す政策を打ち出すと、領国の加賀国では守護への返り咲きを窺う教家方家臣・本折氏と、それを阻止しようとする泰高方家臣・山川氏との間で抗争が起こった。
さらに翌嘉吉2年(1442)、管領が細川持之から畠山持国に交代すると泰高が更迭され、前守護の教家の子・亀童丸(のちの富樫成春)が守護に補任されると、この人事を不満とした泰高派家臣・山川八郎が畠山持国邸の襲撃を企図して嘉吉3年(1443)2月に上洛するも、周囲の諌めを容れて断念し、加賀国での武力抗争や畠山邸襲撃計画の責は自分にあるとして泰高の赦免と領国の分割を請うて自害したため、一応は落着した。
この後、泰高は逼塞していたが文安2年(1445)3月に細川勝元が管領となると幕府に出仕し、加賀守護に復帰。これを受けて加賀国では再び山川氏と本折氏の抗争が勃発しているが、こうした家督や守護職の変転は、泰高を支持する細川氏と教家・成春父子を支援する畠山氏の権力闘争をそのまま反映しているといえる。
この加賀守護職をめぐる分裂抗争は、文安4年(1447)5月に北半国の守護に成春、南半国の守護に泰高が任じられるという形となった。
寛正5年(1464)、南半国の守護職を成春の子・政親に譲るが、政親が長享2年(1488)に一向一揆によって滅ぼされる(高尾城の戦い)と一揆勢によって擁立されて加賀守護に復帰したが、名目上の守護にすぎず、実質的な統治は一揆衆に掌握されていたという。