少弐氏は鎌倉幕府の草創期より筑前国の大宰府に拠って北九州の要衝をおさえる雄族であったが、建武3:延元3年(1336)4月に足利尊氏が九州の南朝(宮方)勢力に対抗するために筑前国に九州探題を置くと、その体制下に組み入れられた。
尊氏より九州探題に任じられた一色範氏は筑前国博多の聖福寺直指庵を根拠地としたが、北九州の統治をめぐって少弐氏と競合することになり、同じく北朝に属する勢力でありながらも両者の間で反目が深まっていったのである。
北九州の重鎮を自負する少弐頼尚は往時の威勢を回復する機会を窺っていたが、貞和5:正平4年(1349)10月、中央政局における内訌(観応の擾乱)を受けて足利直冬が九州に落ち延びてくると娘を嫁がせて縁戚となり、その支持母体となって「佐殿方」と称される第三勢力を築いて九州探題を牽制した。これによって九州は、九州探題方(武家方)・南朝方・佐殿方の3つの勢力が鼎立することになったのである。
観応3(=文和元):正平7年(1352)2月に直冬の後ろ盾であった足利直義が没すると直冬は同年11月に九州より離脱したが、少弐頼尚は文和2:正平8年(1353)2月の針摺原の合戦において南朝軍と提携して戦い、九州探題方を破った。この戦いを機に九州探題の威勢は衰退し、一色範氏・直氏父子は延文3:正平13年(1358)までに九州から撤退するに至る。そして頼尚は、今度は豊後国の大友氏時と連合して南朝勢の追い落としを企図したのである。
延文3:正平13年末、南朝の征西将軍宮・懐良親王を奉じる菊池武光が日向国に出兵している隙を衝いて大友勢が菊池勢の退路を断とうとして兵を動かしたが、菊池武光は軍勢を返し、延文4:正平14年(1359)3月には逆に豊後国高崎山城に大友氏時を包囲した。それを受けて4月には少弐頼尚が志賀氏房や阿蘇惟村と連携して菊池勢の後方を脅かすと、菊池勢は5月に肥後国へと撤退。ついで頼尚は肥前国から筑後国へと出て兵を動かし、大友氏時は志賀氏房を率いて肥後国南部の御船・隈荘・甲佐方面に侵攻した。これは明らかに菊池勢を誘い出し、挟撃する意図の用兵であった。
これに対して菊池武光は、これを受けるかのように同年7月に懐良親王や菊池一族らとともに筑後国へと出て、筑前・筑後国境に位置する筑後川南岸の高良山・柳坂・水縄山の3ヶ所に布陣した。一方の少弐・大友の連合軍もそれぞれの一族衆、筑前・筑後国の北朝方の国人領主、肥前国の松浦・龍造寺・深堀の諸氏らを動員し、筑後川の北に位置する味坂荘に陣を取り、南朝勢の来襲に備えたのであった。その勢は少弐方が6万、南朝勢が4万ほどとされる。
7月19日、菊池武光が先手を打って5千騎の手兵を率いて筑後川を渡河。これを受けて少弐勢は3キロほど後退して大保原に布陣した。この大保原は少弐氏が本拠とする大宰府からわずかに8キロほどで、宝満川が蛇行する湿地帯を前面に控える野地であったが、南朝勢は少弐勢を追うように筑後川を渡って福童原に布陣した。頼尚は南朝勢の全軍に筑後川を渡らせ、この筑後川を背後を扼す要害となして南朝勢の殲滅を企図したと考えられる。
少弐勢が湿地帯を恃みにして大保原で待ち受けていたため南朝勢も一斉攻撃に出る機をつかめず、それぞれが敵陣を間近にしながら対峙することとなり、そのまま半月が過ぎた。このとき武光は、頼尚から得ていた起請文を旗に付け、その不義を辱めたという。この起請文とは、文和元:正平7年(1352)11月より九州探題軍に古浦城を攻められた頼尚を武光が救援したことに感謝し、今より以後7代に至るまで菊池に向かって弓を引き矢を放つことあるべからず、と熊野の牛王に誓って記したというものであった。
そして8月6日の夜半、3百ほどの南朝勢が夜襲を敢行。この襲撃隊が少弐勢の左翼から背後を襲うに合わせて南朝勢本軍の7千余騎は宝満川の堤に沿って前進し、正面攻撃に及んだ。不意を衝かれた挟撃に少弐勢は混乱に陥り、払暁より夕方に及ぶ大激戦の末に敗戦を喫した。
このとき頼尚は宝満山に引き上げることができたが、子の直資が戦死するなど多数の死傷者を出し、一方の南朝勢においても兵力の損耗は少なくなく、少弐勢を追撃する余力を失って肥後国に引き上げざるを得なかった。『太平記』では少弐勢で2万1千、菊池勢で3千ほどの死傷者が出たとしている。
この合戦は、その決戦地の地名から大保原の合戦、あるいは大原の合戦ともいう。
また、この地域には大将塚・千人塚・五万騎塚など、その際の死者を埋めたものと伝える塚があり、現在の小石原川は、武光が血刀を洗ったとして太刀洗川とも称されたという。