豊後国大友氏第8代。大友貞宗の七男。大友(立花)貞載・氏泰らの弟。幼名は宮松丸。刑部大輔。豊後・豊前・肥後・筑後守護。
貞和4:正平3年(1348)8月18日に兄・氏泰より家督を譲られて大友氏8代当主となるが、実権は未だ氏泰にあったようである。
当時の九州は後醍醐天皇の皇子・懐良親王が征西将軍として下向してきたことで南朝勢力が勢威を拡大しつつあり、大友氏は九州における北朝勢力(幕府方)の雄族として九州探題・一色範氏に属していたが、中央政局では北朝擁立の母体である足利尊氏・直義兄弟が対立し、尊氏陣営に逐われた足利直冬が貞和5:正平4年(1349)9月に九州に入って少弐頼尚に擁立されたことで北朝勢力が九州探題方(一色範氏・直氏父子)と佐殿方(足利直冬・少弐頼尚ら)に分裂し、九州探題方・佐殿方・南朝方による三つ巴の様相となった。
氏時は従前より九州探題方に属したが、観応2:正平6年(1351)2月に直冬が北朝から九州探題に任じられたことで立場をなくした一色氏が南朝に降ると、氏時も南朝に帰属している。
足利尊氏も直義を討つため同年10月に南朝方に転じたが、翌観応3(=文和元):正平7年(1352)閏2月に決裂して北朝方となると、氏時も北朝に帰順した。
同年11月に直冬が九州から撤退し、一色氏も没落したのちに少弐氏は再び北朝に帰属したが、氏時はこれと結び、懐良親王を擁する肥後国の菊池武光と抗争に及ぶが、延文4:正平14年(1359)8月の筑後国大保原の戦い(筑後川の合戦)で敗れた。
その直後の8月24日に2代将軍・足利義詮より肥後守護に任じられ、文和元:正平7年に氏泰より譲られていた豊後・豊前守護職と併せて3国の守護となるも、文和3:正平9年(1354)には豊前守護職を召還される。康安元:正平16年(1361)10月には新たな九州探題・斯波氏経を自領に迎え入れ、同時期には肥後守護職を召されるが貞治2:正平18年(1363)には筑後守護に補任されるなど、幕府からの信任が厚かったことがうかがえる。
貞治3:正平19年(1364)7月、嫡子の氏継に家督と豊後・筑後守護職を譲る。
応安元:正平23年(1368)3月21日死去。