延徳3年(1491)4月に堀越公方・足利政知が病没したことにより、堀越公方家では家督争いの内訌が勃発した。この内訌は足利茶々丸が異母弟・足利潤童子とその母・円満院を討ったことで茶々丸が家督を継承することになったが、茶々丸はかねてより酒乱の気があり、重臣の外山豊前守や秋山新蔵人を斬るなど恐怖政治を布いたため、政知旧臣らは茶々丸に服そうとせず国内の情勢は混沌としたものになっていた。
この情勢を見た今川氏の属将で駿河国興国寺城主・北条早雲は明応2年(1493)10月、伊豆国に侵攻して堀越御所を急襲、これを陥落させて茶々丸を没落させた(伊豆の乱)。
さらに、早雲はそのまま領主不在となった伊豆国の平定を目論み、さらに勢力を拡大させる動きを見せる。
早雲は制圧と慰撫の両様で伊豆平定を推し進めたが、この早雲に最後まで抵抗したのが堀越公方の重臣で深根城を守っていた関戸吉信であった。
早雲は伊豆侵攻において、降ってきた者にはそれまでの所領を安堵していたが、関戸吉信が敵対する姿勢を見せたことを聞いて「幸い」とし、見せしめのための城攻めを敢行したのである。
深根城は北を山に、東と南を沼という要害に守られており、残った西方は堀や逆茂木で敵の侵入を阻み、ここに兵力を集中して守りを固めていた。籠もる兵は関戸吉信の配下で2百、その他雑兵など5百ほどである。
一方の早雲方の軍勢は、従えたばかりの伊豆衆をも含めた2千ほどである。
この要害の城に対して早雲勢は、辺りの家を破壊して、その残骸を使って堀を埋めて城に侵入したのである。これには城方も防ぐ手立てがなく、大将である吉信やその子、一族の者ら5人が討死を遂げたことで勝敗は決した。
にもかかわらず、早雲は逃げる兵を追撃させては斬り伏せたばかりか、城に残された女・子供・僧侶などの非戦闘員までも捕えてはことごとく首を刎ね、その首を見せしめのために城の周りに晒したという。その数は1千余といわれ、早雲の武威は良くも悪くも近隣に響くこととなった。