いじめについて

平成18年11月29日に教育再生会議有識者委員一同 が発表した
『いじめ問題への緊急提言−教育関係者、国民に向けて−』は  こちら

『いじめについての考察』 は こちら(現在書き込み中)



最近「いじめ」問題が世間をにぎわしている。
でも、今に始まったわけではない。英明でも今から30年以上前に、いじめに関し
て調べたりしていました。
下記にその一部、25年ほど前に書いた手書きのものを再度10数年前に「英明
通信」として毎月生徒達に配布していた文の抜粋です。
したがって、「10年前」と書いてあるのば実際には20数年前の話しになります。

Bさんの思い出

  Bさんと初めて会ったとき、とても感じのいい女の子だなと思った。「先生、学校なんかなくなれ
ばいいのに、…」と口に出した言葉に、なぜだろうと思ったがそれ以上は聞かなかった。Bさんを連
れてきたAくんがそれにつけ加えた。「きょうも俺たち学校へ行かなかったんだ。」こちらがなにも
言わないのに、Bさんはいつもクラス担任にいじめられていてもう学校に行きたくないと言ったので、
慰めているうちにいつのまにか何日も登校していなかったとAくんは詳しく話してくれた。このまま
だとBさんがだめになると思い,この塾を紹介して無理矢理連れてきたので相談にのって欲しいんだ
と頭を下げた。次の日からBさんをAくんのクラスとは違う,女子のいる受験クラスに入れた。定員
が8名ということもあって、その日からすぐに仲間と慣れ,共に仲よく勉強を始めた。でも相変わら
ず学校には行ったり休んだりだった。  夏休みに入り,志望校に関する家庭訪問でBさんの家に伺っ
た。母親はとてもきさくな,また礼節をわきまえた判断力のある人だった。その口から担任の先生と
のいざこざが登校拒否の原因と知ることとなった。『ある日担任の先生とBさんとの間で意見の食い
違いがあり、それに激怒した担任がBさんに運動場を10周して来いと命令した。担任はBさんがい
ない隙に、クラス全員に「見ろ、あの運動場を周っている馬鹿を。お前らにあの馬鹿の通信簿がどん
なだか見せてやる。」といってBさんの通信簿を取り出し机から机へとひとりひとりに見せて回り、
「あんな馬鹿と話をすると馬鹿がうつるぞ。あいつとは口を聞くな。」といって教室を出ていったそ
うだ。その後、Bさんが教室に戻ると、クラス中が異様な雰囲気でみんながこそこそとささやきあっ
ているのをみて、おかしいなと思いながら友達に尋ねるとみんな黙りこくってしまったそうだ。次の
時間に仲のよい友達に、ことの一部始終を聞くや否やBさんは恥ずかしさと悔しさでいっぱいになり
家に飛んで帰り、一晩中泣き明し、次の日も次の日も母親には体の調子がおかしいと言って登校しな
かった。不審に思った母親が聞き出してそのことをすぐに中学校に問いただしたが、全くらちがあか
ず、教育委員会に相談したり、知人の他の中学の校長を通して意見を求めたが、やはり謝罪にも現れ
かったそうだ。』それから人が変わったようになり、担任なんかに負けるなと励まして学校へはなん
とかして行かせるように今までやってきたので、是非力になって欲しいと頼まれ、援助を約束してそ
の日は別れた。  翌月には塾で何回か話し合い、ほぼ受験校も決定し担任に話したところ、勝手に受
けろといわれただけでなにひとつ相談にはのってくれず、しかたなく自分で一応の受験手続きをした。
そして、単願の試験が早めにあることを聞いていたのでそれに合わせて勉強をすすめていたが、担任
に知らせてくるはずの受験日がわからず、友達や隣りの教室の先生などに教えてもらい、ぎりぎりで
受けることだけはできた。しかし、不安感のためか実力を出せずに残念ながら合格はできなかった。
 翌年1月にはいっても、担任は受験校に関しての話し合いもしてくれないため、塾で成績にあった
D女子校の説明会に出席するようにすすめた。しかし、用事のためにどうしても出席できないむね連
絡がはいったので、次の週の土曜日にでも学校見学だけでもするようにすすめた。その日Bさんと母
親は学校を終えてすぐにD女子校へ行くと、運よくそこの校長先生が特別に学校内を案内してくれ、
そのうえそのときのお互いの印象がとてもよかったのか、校長先生より無試験でいいからBさんの入
学を許可しますというごほうびを頂いたと、帰宅と同時に連絡をくれ,共に喜びあった。これで塾の
仕事がまたひとつできたとほっとした矢先また連絡がはいった。担任が入学を承諾しないとのことだ
った。母親はショックで沈み込んでいたし、Bさんの家中が怒りにふるえていた。

  早速中学の校長にかけあうようにアドバイスしたが、翌日校長もBさんを就職させるつもりでF会
社に通知してしまってあるので学校のめんつを考えてF社の就職試験を受けて入社して欲しいし、そ
うしてもらわないと中学の看板を汚すことになるからといわれ、泣く泣く承知してしまったといって
いた。その晩すぐにBさん宅を訪れたが、もう世の中に悲観しきってしまい,もうどうでもよくなっ
たからと沈みかえっていた。それでもと話しをしたが、残念ながら翻すことはできなかった。ただ、
卒業式まで絶対に休まずに登校し担任に屈しないことと、3月まで塾に通って最後の学生生活を送ら
せたいと母親は涙ながらに話してくれた。

  塾の受験者の7人の仲間はBさんの応援のお陰で全員志望校へ合格した。その仲間たちとともにB
さんは最後まで仲よく通ってきてくれた。ある晩、授業を終えてからBさんがみんなの前で私にこう
言った。「ここで習ったことは社会できっと役に立つと思うんだ。そう信じてる。先生、この塾は絶
対につぶさないでね。わたしみたいな馬鹿なことをする子って,ほんとうはいっぱいいるかもしれな
いし、先生のことも一生忘れないし、なにかあったらまた相談に来るんだから、どんなに苦しくても,
塾はやめないでね。」

  その後Bさんと一度会ったとき、「会社うるさいんだ。ボ−イフレンドがいるだけで首だって。先
生頑張ってね。」といわれたきり相談にはもう何年も来ていない。きっと順調にいっているんだと信
じている。

  これは今から10年くらい前,当時本部を置いていた今井教室での話です。どこの学校にもある話
ですが,こんな先生ばかりがいるわけではありません。でも,今年にもこの近くの中学で似た事件は
ありました。気に食わない生徒に対して先生が願書を出さなかったために受験できなかったり,高校
に提出する成績証明書を故意に封筒へ入れずに出させたりして,校長を巻き込んで大騒ぎになったり,
結局10年前と少しも変わってはいないのかもしれません。

  実は,こんなことがおきても泣き寝入りしてしまったり,子供の成績を下げられてしまうことや内
申書に書かれることを気にして,見ざる・聞かざる・言わざるになってしまう親達にも責任はないで
しょうか。

  確かに,子供が学校に人質として捕らわれているような錯覚に陥りそうですが,自分のかわいい子
供を守ることができるのは,最終的には保護者である私たちなのです。そして,そのことを良く理解
しているすばらしい教師もたくさんいるのです。良い教師にあたったとかはずれたとか言う前に,も
う一度良い教師,お手本となる教師を交えて,駄目教師を変革するくらいの気持ちも必要なのではな
いでしょうか。

  そのためにも,親側も子供に「ああしなさい,こうしなさい。〜してはだめ。……」とすべてを指
示したり,叱ってばかりいるのをしつけと勘違いせず,自分で考え,失敗しても自分でやらせる自立
心を持たせることが大切です。また,学校にすべての責任を押しつけることのないように,教師と親
たちが共に子供達を育むように活動すべきだと思います。

  今,中学校で何が起きているかを十分把握し,いかに子供達を良い環境においてやるかが,未来を
しょってたつ若者に対しての親達の責任でもあるわけです。

       特集                       め 」  に つ い て          PART  T    

  阪神大震災、そして地下鉄サリン無差別殺人テロ並びにオウム真理教関連の報道と、テレビや新聞、
あらゆるマスコミ報道の影響もあるが、昨年末に起きた愛知県の「いじめ」による中学生自殺事件や
それに類する社会的キャンペーン活動が尻つぼみに消滅してしまったことは非常に残念なことである。
そこでもう一度「いじめ」について考えてみたいと思う。また「いじめ対策緊急会議」の報告書にも
目を向けて話を進めてみたいと思う。

  今回の報告書を読んでみると、「いじめられる側」よりも「いじめる側」に問題があるとしている
ように、10年前(1985年)に出された報告と大きく違った点がいくつかあり、評価できるもの
となっているが、別の視点から見ると、安易な実行が教育放棄となる恐れもあることを指摘したい。
例えば、以前の報告では「いじめられる子」の問題ばかりを追い過ぎてしまい、「いじめられる」要
素を持っていることばかりに気を取られ、教師による「いじめられている子に問題がある」という結
論を導き出すに過ぎなかった。したがって、「いじめられる側」の欠点を並べあげ、「いじめる側」
よりも「いじめられる側」の問題点を追及し、教師側もイライラをつのらした。その上、いじめられ
る原因を「いじめ側」より「いじめられる側」に求めたため、「おまえがグズだから」とか「しっか
りしないからだ」「のろまだから」「黙っているからだ」などと、いじめられる側を叱り飛ばしたり
してしまったり責任を押しつけてしまった。しかし、今回は教師によるその様な見方を戒め、「いじ
めは、教師の児童生徒観が問われる問題」としてとらえるよう求めている。またいじめられる子の存
在も「児童1人1人を多様な個性を持つ、かけがえのない存在」と受けとめ、「変な子」というレッ
テルをはっていじめてはならないとしている。そして、一定限度を越えるいじめがなされたと思われ
る場合、いじめている生徒の出席停止や警察との協力もじさない強権も行使できるとしている。すな
わち、「いじめられる」側への視点から「いじめる」側が悪いという視点へ移行したことを強く打ち
出している。「いじめられている子供の立場にたった指導を行なう」という立場で明確に取り組むよ
う指針を打ち出している。今回は紙面の都合上、書き出しのみで終わることになるが、この続きは次
回に述べることにする。

NO.39

       特集                       め 」  に つ い て          PART  U    

  前回は「いじめる側」が悪いということを鮮明に打ち出した、いじめ対策会議の報告書を基に述べ
たが、今回はもう一つ踏み込んで述べてみたい。つい先日、法務省による「中学生の生活に関するア
ンケート」の調査結果が明らかにされた。それによると、中学生の約3分の1は「いじめ」を受けて
も我慢をしており、高学年になればなるほど、いじめられている生徒に対する関心が希薄になってい
るそうだ。

  『いじめを受けた経験がある生徒は全体の36.1%。いじめを加えた相手は「クラスの友達」が
68.7%で圧倒的に多く、いじめを受けた回数が5回以上は32.3%に上った。いじめを受けた
生徒の対応は「我慢した」が一番多く、約3分の1(32.7%)。その理由として、「特に理由は
ない」(31.9%)、「もっといじめられる」(28.1%)、「相談しても助けてくれない」
(12.3%)など挙げている。またいじめの現場を見た生徒の反応を見ると、全体の45.3%が、
注意などの行動を起こさず、かかわり合いになるのを避けている。この傾向は高学年になるほど強く、
3年男子では「特に何もしなかった」が58.9%にも上り、高学年ほど他人に対する関心が希薄と
なっている。』

  これとは別に警察庁などのアンケート調査によると、『過去3年以内に「学校内でいじめを聞いた
ことがあるか」という質問では、「はい」と答えたのは小学生で51%、中学生で63%、保護者で
45%、教師でも56%に上った。自分がいじめの対象となったというケースは小学生が9%、中学
生で6%、自分の子供がいじめに遭ったという保護者は11%で、担任した子供が被害に遭ったとい
う教師も21%いた。見聞したり体験したりしたこうしたいじめが「現在も続いている」と答えたの
は、小学生で29%、中学生で32%もいる一方、子供たちが自主的に解決したというケースも小学
生、中学生とも24%あった。一方、「いじめがなくならないのは誰が悪いと思うか」という問い
(複数解答)では、「加害者の保護者」という回答が保護者(73%)、教師(71%)とも最も多
かったが、保護者はついで「学校の態度」(63%)を挙げ、これに対し教師の回答で2番目に多か
ったのは「被害者の保護者」(40%)。子供自身は「関係者の連携不足」(43%)が最も問題と
いうとらえ方だった。また、いじめを受けたり、その事実を聞いたりしたときに相談した相手は、子
供の場合、「友人」(41%)、「父母」(31%)の順だったが、それに続くのは、「誰にもしな
かった」の28%。保護者の場合も、「誰にも相談しない」(26%)が、「学校の先生に相談」
(60%)に続いて、2番目に多かった。教師は、「同僚の先生に相談」が93%で、圧倒的だった。』

  この2つのアンケートは新聞などでも何度も取り上げられたいじめ事件を基に「現代のいじめ事情」
を反映しているといえる。すなわち、1986年2月、いじめを苦にして「もう君たちもバカなこと
をするのはやめてくれ」の遺書を書き残して自殺した当事中学2年の鹿川裕史君、そして昨年の愛知
県の中学生大河内清輝君の自殺事件をきっかけに文部省も今までにないすばやい反応と、積極的な取
り組み姿勢を見せている。

  鹿川君は生前に級友らが「葬式ごっこ」の追悼色紙に「いなくなってよかった」「ざまあみろ」な
ど4人の教諭と生徒41人の連署の上、こころない言葉が書き連ねてあった。教師を含めた級友ら全
員に加害者意識が乏しく、「ごっこ」気分で面白半分であったことは確かであり、鹿川君にとっての
逃げ場が全くなかったという。また、愛知の大河内君の場合は、多額の金銭を巻き上げるような暴力
的いじめであり、前者とは明らかに質が違うが、やはりこちらの場合も生徒とその保護者ともに加害
者意識が希薄といわざるをえない。

  もちろんいじめの問題を考えていけば、戦後の民主主義教育が始まってからを考えたとしても、当
時からいじめなどなかったとは言えない。特に在日朝鮮人に対しての差別的ないじめは多種多様に民
族差別を含んでおり、「小松川高校女子高生殺人事件」などは典型的な例といえる。また、1978
年の滋賀県の中学生による「報復殺人事件」の背景は、愛知県の大河内君と同様なケースだが、結果
が違っただけのやはり「いじめ事件」と考えてよいかもしれない。この「中学生報復殺人事件」とは、
1978年2月12日の早朝、滋賀県内の中学3年生2人が、前日から泊まり込んでいた友人宅で、
仲間たちを殺傷するという事件である。加害者の少年A、Bは殴る蹴るの暴行を受け、いじめと暴力
の関係に恨みをつのらせていたという。この日も強制的な呼び出しに応じて出かけたものであり、す
でに犯行が計画されていたといわれている。ともあれ、他の4人の仲間のうち、Cは死に至り、Dと
Eの2人は重傷、リーダー格のFだけがなぜか無傷であった

  この時恐ろしい中学生の事件という批評と同時に、深夜ラジオにおいても取り上げられるほどの反
響を残した。そして、ここで問われたのは当時の陰湿ないじめの実態であった。例えば、A君につい
ては1学期のクラス委員をしていたにもかかわらず、という見出しのみから考えればさも優秀であり、
コーラス大会のまとめ役という大人からは見えない「いじめに遭っていた」事実であった。つまり、
当時のクラス委員や役員に選ばれるということは、@自分以外なら誰でもよい。A人前でモノをハッ
キリ言えない奴。B成績の悪い奴。Cオロオロとヘマをやる奴。など、いじめの対象物の何物でもな
かったのだ。選んだ側は、みんなでその子の失敗を待っており、議事の進行などどこ吹く風、何を言
おうが徹底無視、困れば笑い、ヘマをすれば一斉にはやしたて、アダナの連呼といういじめの上に成
り立っていたのだ。

  その翌年の1979年9月になると今度は、中学1年生の林賢一君がいじめを苦にして自殺した。
賢一君の小学校の卒業時に級友から書いてもらったサイン帳は普通とはかなり違っていた。多くは次
のようなものだ。A子さんは「中学は同じになったな。やーだ。おまえとぜったい同じクラスになり
たくない」、B子さん「中学はいっしょでないのでほっとしています。そんな顔を見ていたらいつ死
ぬのかわからないもん」、C君は「好きな人、林以外の人。きらいな人、林BAKA」と書き、D子
さんは「バカ、お前なんかくたばれ。バカバカバカしねバカ、イーダ」と書いた。

  鹿川君の「葬式ごっこ」に相通じるところがあるが、林君に関しては、朝鮮人であるというだけで
仲間外れにされており、いじめが「民族差別」と結びついていた。

  これらの事件を含め、これからのことを考えてみると、いかに大人の力が無力であったかがわかる。
教育改革の掛け声ばかりが目立ち、実際に子供たちと接する大人たちの怠慢ばかりが目に付く。この
26日に与謝野文部大臣の諮問機関である中教審(第15回中央教育審議会)においてもその点につ
いて述べているのでご披露したい。

  受験競争の加熱化、いじめ問題など現在の教育課題への対応は、学校・家庭・地域社会の教育上の
役割の見直し、子供一人一人の能力・適性に応じた教育が必要と指摘。そのうえで、@今後の教育全
般および学校家庭、地域社会の役割と連携  A能力、個性に応じた教育と異種の学校間接続の改善 
B国際化や情報化など社会変化に対応した教育  の3つの視点を柱に、「21世紀を展望した我が国
の教育の在り方」について検討を行なうよう求めている。

  中教審諮問文の要旨については、次回詳しく述べることにする。

  それにつけても、最近のオウム真理教に関しての報道を見るにつけ、自らの宗教における真理は何
処に行ってしまったのかと驚くばかりであると同時に、高学歴ばかりを追い求めたためのシワヨセが
こういう形で表象化したように思えて仕方がない。出家した信者の子供たちに関しても、あのチャウ
シェスク政権が崩壊後に助け出された「神の子」を彷彿させられるのは小生だけだろうか。

NO.40

       特集                       め 」  に つ い て          PART  V    

  「これは自殺ではない。他殺だ」「死ぬのも怖いけどいじめが一番苦しい」……  これは福岡県豊前
町と長崎県長崎市で、先々月いじめで自殺した中学2年生の遺書である。福岡の男子生徒も、長崎の女
子生徒も、それぞれ苦しい胸のうちを、また激しい口調の言葉で遺書を書き連ね、自らの命を絶った事
件でもある。文部省の専門家対策会議が報告書をこの3月半ばに出し、それについて英明通信に4月に
述べた直後でもある。文部省通達で、いじめの早期発見する努力をするようにと求めたばかりでもある
にかかわらず、こうした悲惨な出来事が繰り返されてしまった。教育改革の一環としてあらゆる方面か
ら指摘されている学歴主義・知識偏重をいかに変革するか、いかにやめるかを進めている中を考えれば、
今まで何度もこの紙面で訴えているように、旧態依然の学校の硬直化、教師の意識の低さ認識の甘さ、
そしてそれを取り巻くPTAを含む大人たちの責任も再考すべきだろう。そこで前回の最後にも述べた
中教審(中央教育審議会)に対する与謝野文相の諮問文の要旨を明らかにしてみたい。

『「21世紀を展望した我が国の教育のあり方について」

【理由】社会は大きく変化し、さまざまな教育上の課題に直面している。臨教審や第14期中教審の答
申を踏まえ、教育改革を推進してきたが、我が国が創造的で活力、ゆとり、うるおいのある社会を築くに
は、教育のあり方を検討する必要がある。

【検討の視点】受験戦争の加熱化、いじめや登校拒否の問題あるいは学校外での社会体験の不足など、豊
かな人間形成をはぐくむべき時期の教育にはさまざまな課題がある。これらの課題に対応していくには、
今後の教育のあり方について基本的な検討を加えつつ、子どもたちの人間形成は、学校・家庭お謔ム地域
社会の全体を通じて行なわれているという教育の基本に立ち返り、それぞれの教育の役割と連携のあり方
を検討する必要がある。関連して、これまで段階的に進められてきた学校週5日制の今後のあり方につい
て検討する必要がある。また、子どもたち一人一人を大切にしつつ、その個性を伸長するという基本的な
考え方に立って、学校教育の各段階を通じ、一人一人の能力・適性に応じた教育をいかに進め、また、学
校間相互の接続をいかに改善し、多様な進路を確保するかについて、基本的な検討を行う必要がある。特
定の分野において稀有な才能を有するものについては、教育上の例外措置に関する検討が望まれる。一方、
社会の変化に対応する教育のあり方を追及していくことが、今求められている。特に、国際化が進展する
中で、国際社会において信頼される日本人を育成するとともに、国際社会に進んで活躍し得る人材をいか
に育成していくかという問題は、いっそう重要な課題。情報通信分野では、マルチメディアの普及という
新たな時代を迎えつつあり、このような時代における教育のあり方も重要な課題だ。また、科学技術が発
展する中で、近年、若者の科学技術離れが指摘され、我が国の将来を危惧する声もある。

【検討事項】@今後における教育のあり方および学校・家庭・地域社会の役割と連携のあり方  A一人一
人の能力・適性に応じた教育と学校間の接続の改善  B国際化、情報化、科学技術の発展など社会の変化
に対応する教育のあり方 

  以上を読んでわかるように、受験競争の加熱化、いじめ問題などの教育課題への対応には、学校・家庭
・地域社会の教育上の役割をもう一度見直し、子ども一人一人の能力・適性に応じた教育が必要であると
指摘している。つまり従来の画一的教育を見直す必要性を認識したものとして評価できるものとなってい
る。また、実際には高校入試や大学入試の入学者選抜に、あるいは進路指導の面などで取り上げられるこ
とになるだろう。

  しかしながら、皆さんもご存知のように、殊に中学における改革は、表面上の見掛けのみであり、第2
・第4の土曜日が休みになった週5日制が変わった点としてあるだけのような気もする。文部省や各教育
委員会からのお達しのみで、教育改革の音頭とりがいくらつつみをたたいても、現場が改善された成果が
見られない。学校側が外部の意見を取り入れ、学校運営をもっと積極的に進める必要がある。

  子どもたちに起きる一連の問題は、大人社会の痛烈な反映であることにもっと気づいて欲しい。我々の
学歴主義・偏差値偏重のシワヨセが、管理社会と管理教育のツケが、知識偏重によるモラルの低下が、あ
らゆる子どもに降り掛かっていることをもっと認識せねばならない。いじめに関しても、一過性の時期的
な問題と捉らえるよりも、現代社会の歪みが影響していることを肝に命ずることが必要だ。いじめについ
ては、機会あるごとに例を挙げてこれからも取り上げていきたいと思う。

                                          PART T       

  都立教育研究所がまとめた「いじめ問題に関する意識調査」によると、「いじめの最大の原因は、子供
同士の人間関係が築かれていないこと」という結果となった。調査は昨年6、7月、都内の公立小、中、
高校など20校の剴カ生徒と教職員、保護者を対象に行われ、紹介されたものである。その結果、小学生
の70%、中学生の58%、高校生の65%が「子供同士の人間関係が築かれていない」を挙げ、もっと
も多かった。また、教職員も65%、保護者も47%が同じ回答で共に1位を占めた。次に目立ったのが、
「ストレスがたまっているから」という回答で2番目に多かった。高校生だけは「望ましい親子関係が築
かれていない」が2位であった。報告書では、こうした結果を踏まえ「いじめ解消のためには、まず子供
同士の人間関係に着目した指導や正義感の育成などが必要だ」と強調している。

  しかしながら、これを見た限りでは本質的な原因がなにかはわからない。むしろ、なぜ起こるかが問題
あり、意識調査の結果がそのままいじめをなくすための材料となりうるかは疑問である。その点、次に載
せる話は、異論はあるがかなり的を射ているように思える。

『 強いものが弱いものに対し、しばしば複数で一方的に嫌がらせや苦痛を加えることがいじめである。弱
いものが逃げることを許さず、困り、傷つく姿を見て面白いと感じている。けんかのように相互に攻撃し
合うことがなく、実力に当初から強弱の差があるのがいじめの特徴である。最近のいじめは期間が長く、
大人の目につかないように巧妙に行われ、傷害を加えたり金品を強要するなど非行性が著しくなっている
などの特徴がある。いじめのほとんどが学校で行われるので、担任の先生や校長の責任が追求され、非難
される。教師の配慮の不足がいじめを結果的に助長している例はあるにしても、いじめの主たる原因は家
庭の中にあると私は考える。つまり家庭の中で教育やしつけが十分なされていないことに加え、家庭にい
ることを子ども自身が楽しいと思っていないことがいじめの根源にある。

  家庭の中の様子は外部からは分からない。しかし我が国の、とくに都市部の家庭では親たちが多忙で疲
れてしまい、不安定な気分になっていることが多いのではなかろうか。教育を家庭のそとに委託するため
の費用は支出するが、親と子どもは穏やかに話すことは少なくなっているのではないかと思う。「期末試
験の結果はどうだった?」というような質問が繰り返されたり、「早く寝なさい」「マンガばかり読んで
いてはだめよ」などと短い言葉で指示されることが多い。仲間に対して、これは親から聞いた話だよとい
って、楽しそうに伝える光景は少ないし、親の若い時代のことについて子どもはほニんど聞いていない。
個室の中で豊富な品物に囲まれているが、親との交流は少なく、子どもの心は満たされていない。親の
過大な期待に沿い得ず、十代の半ばにして大きな挫折感を持つものもいる。慢性的な欲求不満の憂さ晴ら
しとして、いじめが発生することになるのである。かつて、我が国の家庭には老人や幼い子どもがいた。
からだがだんだんと弱くなった祖父母を助けたり、弟妹の世話をすることがよくあった。年少の子どもと
一緒に野球をするとき、打ちやすい球をときには投げてやるというような配慮もあった。弱い立場にある
ものに喜んでもらえることをし、そのことを自分も嬉しいと思う心が自然につくられたのである。相手を
いたわる気持ち、無償の愛を注ぐ心掛けを習得する機会が多かったのである。家族だけで外食をしたり、
ドライブをする代わりに、かつては親類の家を訪ね、そこに2、3日泊まって、いとこたちと生活を共に
することもあった。よその家であるから子どもは年齢に応じて我慢すること、自分を抑制することを学ん
だ。嫌いなものも食べる、おもちゃをこわされても怒らない、などというようなことである。

  これにたいして弱いものをいじめて面白いと感ずる心は冷たく自分勝手で、かつ荒れている。最近、中
学生や高校生による殺人が続いているが、この背後にも思いやりと自己制御を欠いた、荒涼とした心性が
認められる。この原因はどこにあるのだろうか。我が国の社会は異質なものに対して非寛容である。多数
の同質なものから見て、優位にあるものも劣位にあるものもいじめの対象となる。成績が悪くても良くて
も、ふとしたきっかけからいじめの対象となる。そしていじめには徹底的にいじめ抜かれる場合と、1、
2回だけで反復されない場合とがある。こういうケースがあった。ある小学校に成績が良く陽気な女の子
がいた。転校生である。生意気だという理由で、ある日、数人の男女の級友に取り囲まれ侮蔑的なことを
いわれた。彼女はなぜそんなことをいうのかと反発して詰問した。一人の男の子が乱暴にも彼女をつき倒
した。彼女はすぐ起き上がり、すさまじい形相で、その男の子に突進し、腕に咬みついた。血が流れ、男
の子は悲鳴をあげた。この気魄に圧倒されて彼女は2度といじめられることはなかった。これは例外かも
しれないが、いじめられる子どもの中には素直で気が弱く、正当性を堂々と主張できないものが多いので
ある。この子どもたちは自分からいじめの事実を親に言えず、親が気がツいて慰めたり、支えたりしない
限り、孤独に追い詰められていく。担任の先生に事実を告げるためには全面的な信頼がなくてはならない
が、これが欠けていることがあるのである。

  ここで必要とされるのがスクールカウンセラーである。臨床心理学、性格心理学などの知識と、実際例
についての経験を豊かに持ち、いじめられて傷ついた子どもの話を丁寧に聞くことのできる人である。子
どもがカウンセラーを信頼し、カウンセリングを続けていくうちに立ち直っていく例が多いのである。学
校の保健室は身体の健康の維持・増進に大きな役割を果たした。いじめ、不登校、非行など、心の問題の
解決のために専門的なカウンセラーと静かなカウンセリングルームがこれからの学校には必要なのである。
(東京国際大学教授・性格心理学、詫摩武俊)読売新聞より』

  つい最近、埼玉県では「さわやか相談員」制度を発足させ、ベテランの相談員を各小中学校に委嘱させ
た。ただし、その相談員の資格が、臨床心理学や性格心理学の先生にこだわらなかったことは、前記の論
よりかなり評価できると私は思う。

  ここで、いじめ問題について書き連ねてみることにする。

  文部省の中央教育審議会第1小委員会が、これからの教育の在り方についてをまとめた。その中でとくに
注目に値するのは、いじめや登校拒否に関連し「子どもの生活において、学校が時間的にも心理的にも、家
庭や地域社会に比して極めて大きな存在となっている現状を見直す」としていることである。細かすぎるほ
どの校則や体罰が、実は行き過ぎた管理主義の上に成り立っていたのであり、教師がそうした行動に走る背
景には教師の力量不足を如実に示していることを認めたことになる。と同時に、かつて地域にあった異年齢
の子ども集団は崩壊し、子どもたちのつながりは同年齢だけの学校のクラスしかなくなってしまったためで
あり、いじめの陰湿化はそうした要因であるからとも言える。

  先日のテレビで「いじめ特集、会社でのいじめ」と題され、数多くのサラリーマンが今いじめられている
現状を吐露していた。かつてこの社会で生き抜くには他人を引き倒してでも勝ち抜けと教育された人達であ
り、この競争社会で、この学歴社会で勝つことを教えられた人達である。その大人たちでさえもいじめ問題
で苦しんでいるのである。これを見れば子どものいじめこそ、大人たちの鏡であり、真似であることの証明
にもなっている。仕事に忙しくて、子どものことは妻まかせでりながら、自分の子どもがいじめでちょっ
とでも学校に行かなくなると妻のせいにし、そのくらいのことでくじけるようではこの世の中を渡っていけ
ないとののしる。男ならいじめられたらいじめ返すくらいでなければ生きていけないと言い、学校は行かな
ければいけないところだと言い張る。これらの言葉の中で、妻をいじめ、苦しんでいる子どもをさらに苦し
ませ、これらの言葉の中にこそ、この社会に適応しなければ生き残れないし、排除されても仕方がないとい
う「いじめ」の感覚が存在している。

  この2月に大阪で開かれた日教組の教育研究集会「いじめ不登校問題克服」特別分科会で、不登校の少女
が、「克服」という言葉そのものにクレームをつけた。「『克服』ってなんですか。私たちは克服される存
在なんですか」と。同席したカウンセラーも「克服という言葉に弱い子どもたちが不登校になるという認識
がある。弱いのではない。不登校は抗議なのです」と疑問を投げかけた。また都道府県指定都市教育長会議
では、いじめに対して自分たちの立場を問い直す言葉が少ない中、直接不登校生と話した経験を持つ広島県
の寺脇教育長が「大人の意識変革が必要。今の大人が悪いんだという認識に立とう。大人たちが型にはめよ
うとする中で子どもたちが苦しんでいる」と言い切った。

  ついこの間も、静岡県の焼津でお母さんたちとの懇談の中で、新任の市の教育長が「学校に無理に通う必
要はありません。行けない子はフリースクールに通っても、稽古ごとに通ってもいいですよ。」と話しびっく
りしたと言っていた。変革の時代は正にそこまで来ているのだ。

                                          PART U       

  前回にも述べたが、いじめ問題について話をするときに、必ずといって管理の問題がつきまとう。私自身
も、今まで数多くのカウンセリングを通して感ずることも同様に管理教育にしがみつく教育現場と親たちの
板挟みになっている子供たちの叫びばかりが耳に残っている。

では、いじめの問題に詳しい東京心理教育研究所長の金盛浦子氏の言葉に耳を傾けてみたい。

『いじめの問題の対応にも関連して、ずいぶん以前から次のような意見が目立っています。校則が厳しすぎ
る、微に入り細をうがち子どもを心身両面で拘束しすぎている。文部省も、原則的にはこの見方に近い立場
をとるようになったからでしょう。やはりかなり以前から、教育現場へ向けて、校則を緩和・整理するとと
もに過度の管理を排除し、個性に対応できる教育体制を整えるよう、各種の通達を出してきました。しかし
教育現場は、決して速やかに反応していません。私の実感でいえば、むしろかたくなとも思えるほどに、旧
来の管理教育にしがみつく姿勢さえ感じられるほどです。私は50代半ば過ぎ。いまだ軍国主義の影が残る
管理教育の中で成長した一人だけに、制服に固執し厳しく管理することによって子どもが成長する歩みを整
えさせようとする姿勢も、まんざら理解できないではありません。けれどもカウンセリングを通じて数多く
の子どもたちと接してくる中で、痛切に思い知らされました。理想をいえば、校則などまったく定めないほ
うがよい、制服など一切ないほうがよいのです。子どもは管理しなければまともには成長しないという、私
にいわせれば妄想でしかない観念を捨て去りさえすれば、その理想の実現は不可能ではないとも信じていま
す。そんな私の意見に、表情を重く雲らせながら反駁する方がありました。私とほぼ同世代の彼はいいまし
た。「私は、昨今からは想像できない厳しさの中で育てられた。今の私があるのは、そのおかげだ。子ども
には、厳しさこそが身を律する指針となる」彼の反駁も無理ないと思います。自分が育った時代の厳しさを
批判されることが、まるで自分の成長期を、ひいては現在の自分自身を否定されるかのように感じてしまう
のでしょう。彼はこうもいいました。「自由、自主性を称賛するが、その結果はどうか。今の若い世代は、
自分のことしか考えないわがまま勝手ではないか」私はたしかにその傾向もある、と感じています。しかし、
過度に管理されていた社会が管理から解かれるとともに、即座に本当の自由や自主性を獲得できるはずがあ
りません。ある程度の混乱、無秩序を内包しながらの過渡期を経なければならないからです。この過渡期の
状況を恐れるがために、管理教育を見直すことを躊躇しているのだとしたら、この将来に描けるのは、管理
頼みの閉塞社会の図でしかない、と私は危惧せざるを得ません。』

  このような考え方は、子どもたちと毎日接している我々教育カウンセラーたちの共通の考え方といっても
よいだろう。その管理教育だのみの閉塞社会から逃れようとする子どもたちが、不登校・登校拒否の道を取
り始めたのだといえる。管理しようとする大人たちや学校からのいじめととらえてもよい。

  95年度の文部省調査によると、いわゆる不登校の小中学生が約85000人にのぼり、過去最高であっ
た94年度をさらに約4300人上回ったことがわかっている。東京都内においても、6517人が年間5
0日以上欠席しているという調査も出ており、20年前の5倍以上になっているという。実際には、保健室
登校や、図書室登校、その他の特別室登校をせざるをえない小中学生は、その数倍いるともいわれているの
が現状である。おそらく全国では85000人の5倍や6倍以上になるものともみられている。その上、年
々生徒・児童数の減少と重ね合わせてみれば、その数と割合が急激に増加しているということは否定できな
いだろう。

  そこで、先日紙面に載っていた記事のうち、気にかかるのが2つあったので載せてみたい。

『小中学生が減る中で、不登校の子どもの数は、昨年度もまた増えた。7日発表された文部省の学校基本調
査(速報)は、不登校の中学生が「2クラスに1人」に上るなど学校現場の深刻な実状を伝えており、子ど
もたちから教育関係者へ向けた”SOS信号”とも読める。「学校へ行くと、私が私でなくなる。私は身体
じゅうから消えてなくなって抜け殻のようになる」。武庫川女子大の小林剛教授(臨床教育学)は、ある中
3の女子生徒からこんな言葉を聞かされた。学校の雰囲気を「絶えず周りから攻めてくる感じ」と表現した
のは、中1の女子生徒。中2から学校に行けなくなった17歳の少女は「学校は、意地悪になることを覚え
る場所では。勉強が出来る人ほど冷たくなるから」と訴えた。いじめ、友人との人間関係、教師の叱責、成
績の低下、家庭内の問題……。公立のフリースクール「兵庫県立神出学園」の園長でもある小林教授に、不
登校の子どもたちはさまざまな「きっかけ」を語った。「不登校は、いつ、どんな子どもにも起きること。
子どもたちは、人づきあいに悩み、学歴社会に追い詰められながら、薄い氷の上を歩いているように見える」。
小林教授はこう話し、「今の子どもたちに合わせた、もっと柔軟な学校の在り方を、社会全体で考えていく
しかない」と訴えた。一方、「学校は無理してまで行く所ではない」と話すのは、東京都内で不登校の子ど
もたちのカウンセリングを続けている元公立中教師の小田貴美子さん。不登校になる子どもの中には、きま
じめで、無理に他人に合わせて疲れてしまうタイプが多いと言われる。小田さんは父母や教師に対し「子ど
ものサインを読み取って、心の傷が深くなる前に対応することが大事。ただ、子どもが学校を休み始めたと
きは、まずはそっとしておいて、自分で考える時間をあげて欲しい」とアドバイスしている。』

『これはいつも人に言っていることですが、私は、毎年だんだん年を取っていくことを、少しもいやだとは
思っていません。去年よりは今年の方が確実に知識も増えたし、いろいろな点で賢くなっていくことは、た
いへん喜ばしいことだと思います。ところが、若い人たちの間では、年を取ることはむしろ嘆かわしいこと
で、少しも魅力のないことだと思われているようです。今の日本の若者たちの文化は、あまりにも「若い」
ということばかりに価値をおきすぎてはいないでしょうか?  少しでも年上になると「オジン、オバン」で、
それはもう、軽蔑の対象でしかないような響きがあります。それはそれでよいのかも知れませんが、少しば
かり気になることが二つあります。一つは、今の年寄りの中で、若い人たちが魅力的と思えるような素敵な
年寄りが少ないこと、もう一つは、自分とは違う人たちとは一切つきあいたくない、知りたくもないという、
個別化が進んでいるように見えることです。大人という存在が素敵であこがれの対象であるならば、子ども
たちは、早く大人になりたいと思うでしょう。しかし、大人がうっとうしくてカッコ悪くていやな存在なら
ば、だれも早く大人になりたいなどとは思わないはずです。世代間には必ずギャップと反感があるものです
が、それにもかかわらず、素敵な大人という存在はあって、それが次の世代の役割モデルになってきました。
役割モデルというものは、自分自身がその立場になったときには、かつてのモデルを乗り越えるものになら
ねばならないのですが、成長の過程における「モデル」としては、やはり不可欠なものではないかと思いま
す。それがここのところ、どうも素敵な大人が少ない。最近に至っての価値観の大きな変動、みっともない
政治家たち、締め付けるだけの学校の先生ときては、魅力のある大人が見つからないのかもしれません。し
かし、もう一方で、今の子どもたちは、必ずギャップがあるはずの大人などはもちろんのこと、感覚的に自
分と波長が合う人とだけしかつきあわない、理解したいともなんとも思わない、一切興味がない、という態
度が増えているような気がします。テレビゲームなど、自分の世界だけに閉じこもっていられるものが増え
ているためかもしれませんが、世界は、もっともっと異質なものへのより良い理解を求めているように思い
ます。(専修大学教授長谷川真理子・行動形態学)』

この2件については、次回に述べてみることにする。

NO.51

                                          PART V       

  前回不登校の問題に絡めて、「オジン、オバン」についての記事を載せた。素敵な大人が少ない、魅力あ
る大人が見つからない、というだけでなく、道徳心のかけらもない大人たちをいつも目にしている若者が・
子供たちが、実は大人たちからある意味でいじめにあっているということに気付き始めたという。煙草を吸
ってそのまま道路にポイ捨てする。ひどい場合には、車の灰皿の中身を信号の変わる間に道路に撒き散らす。
テレビや新聞では、東大を出たエリート官僚がまた賄賂をもらったり、HIVの問題や老人医療で不始末を
繰り返す。役人は役人で、カラ出張やカラ接待などで何億円もの税金を無駄づかい。東大出の学術団体職員
が中学3年生の家庭内暴力に絶えきれず我が子を撲殺。高校教師や大学の教授がテレクラで知り合った中学
生と淫行。と数え上げたらキリがない。つつましく生活する我々庶民からすれば、それでも我が子には一流
高校を出て一流大学に入り、一流企業に入って欲しいと考える。安定した生活こそが幸福の道と思い、学歴
社会を泳がせたがる。ところが、今の世の中は超有名進学教室にその補習塾、家庭教師まで付け、有名予備

校の国立早慶コースを取り、トリプル以上に出費したうえに、家庭学習用の大学進学教材も必要となり、大
金を掛ければ掛けただけ一流大学に進学する。トップエリートとは金次第なり。

  我が国が聖徳太子以来、中国の科挙制度を基に優秀な人材を役人に登用したのは、門閥や資産を問わぬ一
般民衆の中からであったはずである。また、ホンダもナショナルも創業者はいっかいの技術屋さんだったこ
とは衆知の事実。そんな大会社でも社内いじめが横行しているかもしれない。そしてそれらのことがマスコ
ミに報道され、子供たちはまた醜い大人社会をかいま見てしまう。その上、政治の社会を見ても魅力的な人
物が全然いないために、衆議院議員選挙の投票率にも影響を与えたようだ。よいニュースなどここのところ
見たことがない。

  つまり、今の日本には真のリーダーシップが存在しなくなってしまっているのかも知れない。一国の総理
大臣でさえこの数年で何人交替したことやら。知育偏重のために徳育を忘れた優等生が多くなってしまった
からではないだろうか。あのオウム真理教などは典型的だ。

  ここでもう一つ読んでもらいたい記事を載せたい。

  『「EQ  こころの知能指数」(ダニエル・ゴールマン著、講談社刊)という本が広く読まれているそう
です。私も読みました。IQ(知能指数)が高いからといって人生に成功できたり、幸せになれたりするわ
けはない。EQ(情動・感情をコントロールする能力)が高い人の方が、人生の成功者となりやすいし、幸
せに生きられる可能性も高い。同書はそう主張しています。同時に、ほぼ定まったまま変化しないIQに対
して、EQはかなりの年齢に至るまで、適切な方法によって高めることが可能だという事実を、脳の構造を
も例に出しながら分かりやすく説いています。このEQという造語はとても新鮮です。心理の専門家の多く
が、知育偏重よりも心の成長を重んじなければと主張してきた思いを、より分かりやすく提示する上でのキ
ーワードになってくれそうです。そう、不登校・いじめ・心理的不調などの背景には、EQが育っていない
という共通項があるのです。子どもの問題だけではありません。家庭を上手に維持できない、社会に適応で
きない、夫婦関係を簡単に崩壊させてしまう、さらには犯罪の増加・凶悪化などの背景にも、EQの未熟を
指摘することができるのです。総じていえば、現在の日本社会は、過度の知育偏重・知性偏重のおかげで総
じてEQが低くなってしまっている、とみることもできるでしょう。私の知るかぎりでいえば、昔の”優等
生”は多様な才能を発揮しました。スポーツにも優れていれば、勉強にも優れAリーダーシップも発揮すれ
ば、ケンカも強かったし、いたずらの才人でもあった。私の個人的な思い込みの部分を排除しても、そうし
た傾向はあったと感じます。これに比較すると、昨今の”優等生”は単に机の上での勉強だけに優れている
傾向が強まっています。大ざっぱにいえば、昔よりも今の”優等生”のほうが、大人や親にとって都合のよ
い”いい子”になってしまった。そう感じるのは私だけでしょうか。いかに知識が豊富で知能が優れていて
も、強調性・指導力・判断力を含む、コミュニケーション能力そのものでもあるEQが高くなかったら、現
実社会では評価されないと思うのです。EQ。これを既存の平易な言葉にいい換えるなら「人格」に近いで
しょう。そういい換えた瞬間に気づきます。私たちの社会は、知育に目を奪われた裏で、人格を育てるとい
う何よりも大切な養育の指針を忘れかけているのではないでしょうか。(金盛浦子東京心理教育研究所長)』

  このことはつい先日も話題になったランドセル集金問題についても言えることだ。教師の仕事に集金という
雑務もあることに気づいた人も多いかもしれない。しかし、50人学級から40人学級に編成されてからより
心配りができるようになったのではないかという指摘もあろうが、生徒ひとりひとりに気配り、心配りまでで
きる教師はそんなにいるわけないというのも事実であろう。その点でいえば、金盛女史のいうとおり、現在の
教職についている人たちでさえ、知識は豊富な教師であっても指導力・判断力・コミュニケーション能力が不
足していると言わざるをえない。教職員による生徒いじめととらえかねない問題ではあるが、親側の責任にも
もう一つシックリこないのも確かだ。思いやりのない教師だとなじる前に、なぜ自分の子どものSOS信号を
受け取ることができなかったかが抜けている。すなわち、周りにいる大人たちがひとりの純真な少年の心をス
ポイルしてしまったのかもしれない。彼の心はこの事件で一体どんな傷跡を残したことだろう。

  ここで落合恵子女史の言葉につなげてみたい。

  『「あのさ、<みんなちがって、みんないい>って詩があるじゃん?あれって、好きだなあ。友だちはダサ
イって言うけど」金子みすゞのその詩が好きだといったのは、17歳のM子である。本来なら、高校生活を送
っているはずだが、「勉強、好きじゃなかったし……」そう言ってから、M子は悪戯っぽく肩をすくめ、口調
を変えて言った。「あなたは、なんでも好ォか嫌いかで決めてしまう。それは、あなたの感情生活がごく幼い子
どもとまったく変わりがないということ。好きでなくとも、しなくてはならないことがあるはず……。そう言
われた、母とか先生から。わかるんだよ、母たちの言った意味も」だから、必死に考えた。なぜ学校にいくの
か、なぜ学校に行くことが、こんなにも苦痛なのか。なぜ、学校には屈辱しかないのかを。しかし、答えは出
なかった。けれど、嘆き悲しむであろう母親のことを思うと、「ただ、通うだけ」の日々が続いた。不登校の
直接の引きがねになったのは、授業中の、ある出来事だったという。教師が、生徒に次々に質問していった。
M子は、「ちょっとばかり緊張した」という。「答えられないなんてしょっちゅうだったけど、その先生のこ
と、好きだったから」  M子の隣の生徒まできた。次は、私の番、と彼女がさらに緊張したその時……。 
「先生は、私が目の前にいるのに全く気がつかないように、私をジャンプして、次の生徒に質問した」  あの
時は珍しく答えがわかっていたのに惜しかったナ、とM子はあどけなく笑う。彼女だけを素通りする質問を、
はじめは偶然だと思った。しかし、そんなことが何度となく続いた。そして、M子は実感した。  「あ、アタ
シここって、このクラスで透明人間なんだ。ここには居場所がないんだって」好きな先生だったから、余計「
こたえた」という。そうしてしばらく不登校の後、彼女は高校を退学。現在はフリーターとして暮らしている。
M子は、感性の鋭い素晴らしい文章……彼女はつぶやきと呼んでいる……を書いている。金子みすゞの<みん
なちがって、みんないい>を割り箸1本ほどの支えに、書くことで、いま彼女は、自分の「居場所」を確認し
ているのかもしれない。(落合恵子・月刊「子ども論」発行人)』

  これだけ書いても、今の不登校生たちの心は、多分見えてこないだろうし、理解できない存在ではありませ
んか?

Return