譲れない気持ち 〜前編〜
「婚約が決まったそうだね。お似合いの二人だ。おめでとう。」
「ありがとうございます。」
彼女と二人で何度目かも忘れた礼を言う。
溜息を飲み込んだ、その時。
「柚木?」
ああ・・・とうとう、その日が来たか。
醒めた思考と裏腹な鼓動を感じながら、火原の後ろで目を伏せたを見た。
「やあ、偶然だね。君たちと此処で会うとは思わなかったな。」
ここは出版社が主催のパーティー。
まさか二人がこの場にいるとは予想もしていなかった。
「え・・と、俺んちの親の関係でさ。
ドイツから有名なヴィオリニストが来るっていうから…無理言って頼んだんだ。」
「ああ、なるほど。」
が火原に誘われたのだとメールをくれていたな。
何故もっと詳しく聞かなかったのか今さら悔やんでも仕方ない。
俺は煩わしい諸々のことに時間を取られて余裕がなかった。
は視線を上げない。
パーティー用に装ったクリーム色のワンピースが似合っているのに、ヒールのつま先ばかりを見ている。
「柚木・・・その人」
言いたくない。口にしたくない。
瞬時に浮かんだ想いが喉の奥で言葉をせきとめる。
いつからは此処にいたんだろう。
さっきの挨拶も聞いてしまった?
「梓馬さまのお友達なんですの?わたくしに紹介してくださらない?」
「彼はね」
うまく笑えているだろうか。
火原の困惑した顔を見ながら機械的に言葉を紡ぐ。
「彼女はさん。僕の後輩だよ。」
「まぁ、うらやましい。私も梓馬さまの後輩になりたかったですわ。」
ああ、もう喋るな。
はやく別の場所へ連れて行かなくては。
思う頭の隅で、もう絶望的に事が遅いことも知っている。
「私たちの婚約パーティーが決まったら是非いらして下さいね。」
俺は視線を床に落としてから、覚悟を決めてを見た。
そして息をのむ。
が微笑んだからだ。
雨に打たれる白百合が毅然と咲いているかのように、は静かに微笑んでいた。
「柚木、本当に?」
「梓馬さん、こちらに。ご挨拶しなければならない方がいますよ。」
から目の離せない俺に火原が問うけれど、後ろから家の者に呼ばれた。
隣に立つ婚約者が俺の肘を引く。
と心の中で呼んだ名前が虚しく消えていく。
「もう行くよ。じゃあね。」
そうか、お前は覚悟して傍にいてくれたんだった。
終りがあると知りながら、俺の前では無理をしても微笑んでくれていた。
バイバイだ、。
もう少しだけ、お前を騙してでも傍にいたかったけれど。
は俺の心の声が聞こえたかのように頷いた。
「さようなら、柚木先輩。」
それが今日、が唯一俺にくれた言葉だった。
並ぶはずのない道だったけれど、これで本当に別れていってしまう。
うん、さようなら。
きっと君は俺が最初で最後に愛した人になるだろう。
の目を逸らさずに見てから、俺は二人に背を向けた。
火原が「本当にいいのか?」と声を荒げるのが聞こえ、が止めている。
譲るのなら火原だと思っていた。
火原ならを幸せにしてやれるだろう。
真っ直ぐな愛情がを包むのなら、それでいい。
俺は後ろを振り向かなかった。
もう、おやすみのメールは必要ない。
ならば携帯など煩わしいだけだから捨ててしまおう。
次の予定を無理して空ける必要もない。
ただ与えられた俺の役割をこなしていけばいい。
あとは燃えるような想いが熱を失っていくのを待とう。
時間が思い出に変えるまで待つだけだ。
ありがとう、。
とても愛していたよ。
深い哀愁を帯びたヴィオリンが会場に響く。
もっと音のいいホールで聴いたならと思うが、いいものは何所で聴いても素晴らしい。
ダイヤモンドがゴミの中でも輝くのと同じだ。
最後に・・・と、ヴィオリニストが前置きして弾き始めた曲。
それは『愛のあいさつ』だった。
サービスのつもりなのだろう。
誰もが知っている馴染みのある曲をということか。
「梓馬さま、素敵ですわね。梓馬さま?」
俺は黙って頷いた。
彼女は俺が感動して聴き入っていると解釈したらしく、それ以上は何も言わずに前を向く。
俺は片手で目元を覆い震えていた。
長い髪に隠れて唇を噛む。
はどんな想いで、この曲を聴いているだろう。
お前のヴィオリンが聴きたい。
俺だけのために奏でられる『愛のあいさつ』を。
出来る事なら・・・もう一度。
譲れない気持ち 前編
2007.05.12
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