100万回でも好きだと言おう 5
『次に会ったら奢ってやるよ』
不機嫌な俺に付き合わせたこともあって、口にした。
しかしまた会えるかなど深く考えてはいなかったし、会いたいとも思っていなかった。
あれから、ひと月。
面倒な根回しからやり直した新規事業は、なんとか日の目を見そうなところまでたどり着いた。
休日返上で働いた俺がほっと一息ついた頃、時機を見計らったように忍足が誘ってきた。
そして俺はまた小汚いラーメン屋の前で舌打ちをする。
「てめぇは俺に嫌がらせをしたいのか?」
「アホ言うな。お前に庶民の美味いもんを教えてやりたい一心やろ。友情や、友情」
そう言うと躊躇いもなく油のシミがあるような暖簾をくぐる。
高級レストランに連れて行けとは言わないが、もう少し清潔な店はないのかと聞きたい。
いつものように身をかがめ、汚い暖簾には触れないよう店内に足を踏み入れた。
むっとした湿気が店内に充満し、脂っぽいスープの香りが体に纏わりつく。
スーツに匂いがつくと眉をひそめるが、ラフな格好の忍足は気にもせずカウンターに腰かけた。
椅子は汚れてないだろうなと確認する俺に「ビール、飲むやろ?」と呑気な忍足だ。
「ここなぁ、ちゃんに教えて貰うたんや」
「誰だ、それ」
座り心地の悪い椅子に腰かけたはいいが、今度はテーブルの汚れが気になる俺に、知らない名前を忍足が出す。
「元気ちゃんの名前や。お前、俺を出し抜いてお茶したやろ?」
思いがけない話に俺は忍足をマジマジと見た。
そういえばと思い出した女の顔、恥ずかしそうに短い前髪を引っ張っていた。
「ああ。あの、せこい女か」
「せこい女とか言うといて、ちゃっかりお茶に誘うてからに。抜けがけやで」
「偶然だ、偶然。それに俺は女の名前なんか知らなかったぞ」
とりあえずビールと無口な店の主人に頼んだ忍足がしつこく俺にからむ。
「俺なんか先月やっと定食屋で声掛けて、それから怒涛の攻めでメルアドをゲットしたところや」
「そりゃ良かったじゃないか。っていうか、お前・・・本気だったのか?」
「本気になるかは、これからや」
この前まで付き合っていた看護師はどうなったのかと思ったが、
コイツも俺のことは言えない・・・同じ人種だ。
誰かを本気で好きにならない。
愛想はいいくせに、自分の深いところに他人を入れない人間だ。
だからこそ俺たちは長く付き合ってこられたのだろう。
「おすすめは、どれだ?」
「やっぱチャーシュー麺とちがうか?俺、煮玉子トッピング」
「お前と一緒なのは気に食わねぇから、俺はコッチにしとくか」
「なら、人に聞くなっ」
ブツブツ言いながら、ビールを持ってきた店員に忍足が注文する。
それから瓶ビールをお互いに注ぎ合い、とりあえずビールとやらを飲んだ。
「で、ひとつ質問」
美味そうに喉を鳴らした忍足が、ふざけたように片手をあげた。
「なんだ?」
「ちゃんに『営業』って嘘ついたのは何でですかぁ」
「そんなことまで話したのか」
メガネの奥の瞳が楽しそうだ。
こういう時の忍足は性質が悪くて手を焼く。
「話の流れで、なんとなくだ。本当のこと話すと面倒くさそうだったしな」
「お前が社長やからって色仕掛けしてくるようなタイプには見えへんけどな」
「あの女に色仕掛けされたら笑い死ねるな、多分」
「そうでもないでぇ。あのコ、瞳が綺麗やろ?あの大きな瞳に見つめられたら、ふらふらっと」
「絶対にないな」
俺は耐えきれずに笑った。
「色仕掛けを心配するより、なにか奢ってくれとたかられそうだ」
「いやいや、そうでもないで。あのコ、ちゃんとした家庭で躾けられてるコや
俺が御馳走するっていうても、自分の分はきちんと払うしなぁ
メルアドを聞きだすんも一苦労やったけど、親に厳しく注意されてるんやって
せやから、よくお前とお茶なんかしたなと思うて」
「そうか?」
向こうから声をかけてきたし、簡単に俺の誘いに乗ったんだが。
思ったが、それを話すと忍足がうるさそうだから止めた。
「まぁ・・お前が黙ってるのには意味があるんやろうと思うて、話は合わせといたから」
「別に。そう会うこともねぇだろうし」
「いやいや、これから会うから」
「ああ?」
忍足が腕時計を見た時、ガラガラと引き戸を開ける音がして暖簾が揺れた。
「ちゃん、こっち!」
腰を浮かせた忍足が手を振れば、丸い瞳の女が俺たちを見つけて目を細めた。
多分だが笑ったのだろう。何故か大きな白いマスクをしているから、よく分からない。
マスクをした若い女が一人で入ってきたのに、客たちの視線が集まるが本人は平気だ。
目を弓形にしたままカウンターに近付いてくると、店の主人に「こんばんは」と挨拶をした。
「お邪魔します」
女が俺たちにも頭を下げると、忍足がいそいそと隣にずれて間に席を空けた。
そこでマスクを外せば、記憶の中にあった顔が現れた。
この季節に風邪かと思わず訊ねる。
「ちゃんは声楽家やもんな。だから喉を大事にしてるんやって」
「そ、そんな大層なものじゃありません。ただ、もう直ぐコンサートがあるから」
音楽をやっている人間には見えなかったから驚いた。
俺はオペラやオペレッタを楽しむ方だから興味がわく。
「ふ〜ん、何をやるんだ?」
女が恥ずかしそうに幾つのか曲名をあげた。
ピアノと共に小さなサロンで歌うらしい。
若い音楽家、か。
「音大卒か?大学は?」
ついつい根ほり葉ほりと訊く。
向こうで忍足が女のためにラーメンを注文しているのもそっちのけで、俺たちは話しこんだ。
「ラーメンがのびるから、ひとまずストップ。というか、俺が仲間外れやん」
呆れたような忍足の声に、俺と女は視線を合わせる。
そういえば名前も知らなかった相手で、会うのは三回目。それも一か月ぶりだ。
じっと顔を見て、違和感がなくなったのに思い至る。
「お前、前髪が伸びたな」
見たままを告げてやれば、瞬時に頬を染めた女が自分の前髪を引っ張って拗ねた顔をした。
「です」
「跡部・・景吾だ」
苗字を名乗るのに、少しの躊躇いがあった。
社長の名前だ。知ってる奴は知ってるだろうが、女は反応なく「よろしくお願いします」と笑っている。
派遣なんてのは、そんなものか。
呆れるのと安堵の半々で、俺も「よろしくな」と応えた。
ずっと昔から忍足を知っているが、女の口説き方は変わらない。
俺から見ると嘘っぽいとしか見えない笑顔と軽い口調で馴れ馴れしく接近していく。
腐っても医者だし、見た目は普通だし、そう悪い男には見えないだろう。
ちゃん、ちゃんと煩いぐらい話しかけている。
これにジローが加わっていたなら俺は耐えられなかったなと思いつつ、
女を口説く場所に俺を誘う忍足の頭の悪さに溜息が出た。
それで何度『女を横取りされた』と騒いだことか。
別に取っちゃいない。女が勝手に俺の元へきただけだった。
執着もないくせに難癖をつけて、その度にテニスの真剣勝負を仕掛けてきた。
いま思えば、あれは俺と戦いたいがための作戦だった気がする。
店は汚かったが味はまずまずのラーメン屋を出ることにした。
誘ったのは自分だからと忍足が金を払おうとしたが、女は自分の分を出してきた。
「そんな悪いし」
「ええって、たいした額やないし。あれやったら、今度は俺に奢ってくれたらええし」
常套句だな。それで次の約束を取り付けるというところか。
「でも・・・」
「なら俺が払ってやる。この前、奢ってやるって約束したしな」
返事を待たずに横からレジに札を出した。
それはないだろうという顔をした忍足の隣で、女が目を丸くした後に「ご馳走様です」と笑う。
物言いだけな忍足を鼻で笑ってやり、俺は釣りを残して店を出た。
「元気になったのね」
外に出て直ぐに、女が話しかけてきた。
確かにあの日の俺は情けない顔をしていたのだろう。
「まぁな」
「よかった」
心底安心したように微笑まれたら、悪い気はしない。
「アイツはお前に気があるようだが、嫌なら嫌で早々に着信拒否かけとけよ」
そっと耳打ちしてやると、女が耳を押さえて飛び逃げた。
最後に店の戸を閉めて振り返った忍足が「あっ、跡部!!なんかしたやろ!?」と声をあげる。
「び、びっくりしたぁ」
夜目にも白い頬を赤く染めた女が呟いた。
その過剰な反応が可笑しくて俺は笑う。
忍足は女を背に庇うようにして立ち、とんでもない奴やと俺を非難する。
それがまた可笑しくて、俺は暫く笑っていた。
駅までの道を三人で歩く。
車を呼べば直ぐに迎えは来るのだが、今夜は歩きたい気分だった。
「なぁ、なぁ、ちゃん。少しだけ歌を聴かせてくれへん?」
ずっと女に話しかけている忍足が強請った。
おいおい、道端でかと思ったが、忍足の奴は笑顔で押し切る技術に長けていた。
ちょっと、ちょっとだけやからと女に迫る。
少し伸びた髪を困ったように梳く女だったが、とうとう根負けしたらしい。
ちょっとだけですよと前置きして、周囲に歩行者がいないのを確認してから口を開いた。
すみれ、だ。
ゲーテの詩にモーツァルトが曲をつけた、美しい歌曲。
人目を気にして声量は落とし、静かに。
しかし澄んだ声は月が輝く藍色の夜空に広がっていく。
ほうっと忍足が隣で息を吐くのが分かった。
これは少女に恋をした、すみれの歌だ。
すみれの想いは届くことなく、気付かぬ少女に踏まれて死んでしまう。
透き通った声が夜の空気に溶けて昇っていく。
俺たちは歌姫を前に、ただ言葉もなく立っていた。
100万回でも好きだと言おう5
2009/01/13
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