100万回でも好きだと言おう 7












忍足から電話がかかってきたのは、それから三日後のことだった。



『なぁ、ちょっとでええから降りてこられへんか?』
「つまんねぇ用事には付き合わねぇぞ」



オフィスで私用の携帯を顎に挟み、書類を確認しながらの会話。
それでも今夜は、まだ時間に余裕がある方だ。



『上着、預かってるで』
「なら・・・取りに行くか。十五分後だ」


『了解』



時計を見ると既に八時を回っている。
クリニックの方は完全に閉めたのだろう、お気楽な忍足の声だった。


こっちは、まだ報告待ちの案件があり帰ることはできない。
だが、三十分やそこらの時間はあるだろうと計算する。


俺は担当者が戻ってきたら連絡するよう言い残し、時間を確認しながらエレベーターに乗った。




診療が終了したことを知らせる看板の向こうに明かりが見える。
冷たいガラスの扉を押せば、病院らしい独特の匂いがした。
それに顔をしかめて足元を見ると、小さな女物の靴が並んでいる。
急患だろうかと足を止めたが、よくよく見ると覚えがあった。



「入るぞ」



診察室の前で声をかけ、返事を待たずにベージュ色のカーテンを引く。
そこには予想した通りの人物が頬をふくらませていた。



「おお、来たか」
「きょんばんわぁ」



女は口をモグモグと動かしながら『こんばんは』と挨拶したつもりらしい。


さっきまでの病院臭さとは違う柑橘系の香り。
忍足の広いスチール机の上には、鮮やかな色のミカンが山盛りになっていた。



「ウマいで、これ」



ミカンを口に含んだ忍足が丸ごと一個を差し出してきた。
俺は溜息をつきつつ、近くの診察台に腰を下ろす。



「ミカンで宴会か?健康的だな」
「そうそう。ストレスの多い人間には必須や」



手のひらに乗せられたミカンは思いのほか重量があり、光沢のある皮が瑞々しい。



「うちの実家から送ってきたんです。よろしかったら、どうぞ」



ようやく口の中の物を飲み込んだらしい女が明るく言った。
そういえば実家はミカン農家だと聞いた気がする。



「先日は本当にありがとうございました。これ、上着です」
「ああ」


「クリーニング屋のおばちゃんに、すごく品のいいものだって褒められましたよ」



女が自分の脇に置いてあった大きな紙袋を手渡しながら言った。
紙袋を無造作に受け取って、そのまま足元へ置く。


俺の身につけているものは、同じ年頃のサラリーマンが持てる範疇を超えているだろう。
そんなことには気付きもしない女の隣で、忍足が意味ありげに笑っている。
まだ話していなかったのかと内心で面白がっているに違いない。


別に真実を明かしても良かったが、話すきっかけがなかっただけ。
ならば今が話すタイミングだとも言える。



「食べないんですか?」



口を開こうとする前に女が俺に訊いてきた。
ミカンをボールのように手の中で遊ばせていた俺の仕草が気になったらしい。



「いや・・・別に腹が空いてないだけだ」
「ミカンはお腹が空いてなくても食べられますよ。ねぇ、忍足さん」


「そうそう。俺らなんか、さっきラーメンの大盛り食べた後やで?なぁ、ちゃん」
「はい!」


「まさかと思うが、クリーニングした上着を持ったままラーメン屋に行ってないだろうな?
 俺はラーメン屋の匂いがついた服なんか着たくないぞ」


「えっと、あの・・・ビニールがかかってるから平気だと」
「はぁ?」



言う気が削がれた。
なにも考えてない女に、わざわざ俺の身分を明かす必要性を感じない。



「ミ、ミカンを剥きましょうね」



俺の不機嫌さが伝わったのだろう。
女は机の上から新しいミカンを手に取り剥きはじめた。
白い指が器用に橙色の皮を剥いていく。
次には健康そうな薄ピンク色の爪が丁寧に房を取る動きを目で追った。



「そんなに観察されると剥きにくいんですけど」
「器用に剥くもんだと思ってな」



素直に思ったまでを言ったのだが、忍足がミカンを口にしたまま噴き出した。
笑った拍子にむせながら、忍足は涙の浮かぶ目元を拭う。



「コイツ、自分でミカンなんか剥いたことない男やった」
「本当に?」



確かに。
俺の知ってるフルーツは、全てが飾り切りされて皿の上に載って出てくるもんだ。
ミカンやバナナなど、自分で皮を剥いて食べた記憶がほとんどない。



「跡部さんって、かわいそうな人ですね。私が剥き方を教えてあげます」
「なんだ、かわいそうって」



意外な言葉に眉を寄せるが、女は視線を伏せてミカンの房を分け続けている。



「だって、誰もが出来ることが出来ないなんて・・・かわいそうでしょ?ハイ」



邪気のない笑顔と一緒に、綺麗に分けられたミカンが差し出された。
均等に剥かれた皮の上には、行儀よく並べられたミカンの房。


美味しいよと首を傾ける仕草に、渋々と手を伸ばす。
指でつまめば、ひんやりとした水の感触が伝わってくる。
この白い皮が口内に残りそうだと思いつつも、期待した視線の前で仕方なく口を開いた。


冷たく違和感のある小さな房を噛む。
すると途端に甘い果汁が口の中いっぱいに広がった。
差し出されたミカンからの香りは、そこらへんの芳香剤なんかよりも濃厚だ。


果肉を包む薄い皮は思ったよりも柔らかく、簡単に喉を通り過ぎていった。



「甘いな」



開口一番に告げると、女が嬉しそうに目を細めた。



「じゃあ、自分で剥く方法を」
「必要ない」


「必要なくないですよ。家でミカンが食べられなくなりますよ」
「家じゃ食べないんだよ」


「そう言わず、何事も経験です」



俺らの遣り取りを見て、忍足が声に出さずに笑っている。
しかし女は真剣で、なにがなんでも覚えて帰ってもらいますと気合を入れる。


別にレクチャーしてもらわなくても、こんなもの・・・やろうと思えばできる。
やる必要がないからしないだけなのだが、女には通じない。



「はい、ミカンの中心に指を突っ込んで。ほら、やって」
「ああ?俺様に命令をするな」


「ミカンを剥いたこともないくせに」



チッと舌打ちして、嫌々ながら皮剥きに付き合う。
話も聞かずに適当に剥けば、弾みで果汁が飛んだらしい。
目がピリピリとして思わず顔をしかめると、今まで以上に強いミカンの香りがした。



「これだから素人は」
「うるさいんだよ」



口うるさい女に教えられて剥くミカン。



「あっ、その白い筋に栄養があるんですって。勝手にとらない!!」
「口の中に残りそうで嫌なんだよ」


「実より栄養があるんだから、もったいないって」


「へぇ、そうなんか。ちゃんは物知りやなぁ。それに比べて、坊ちゃまは」
「誰が坊ちゃまだ?ああ?」



忍足も加わってきて話を面白おかしく混ぜ返すと女は怒ったり笑ったり、コロコロと表情を変えていく。
裏のない会話は気楽で、秘書からの電話で時計を確認した時には随分と時間が経っていた。



「俺は戻る」
「私も帰ります」


「なら俺が送ろ」



それぞれがクリニックを出る準備をする。
女は剥いたミカンの皮を再利用するのだと言って袋に集めた。
なんでも掃除に使ったり、消臭剤やポプリにもなるのだと熱弁をふるった。


手にした上着入りの紙袋が重い気がして覗きこめば、ご丁寧にミカンが入っている。
忍足に押し付けようとしたが、既にヤツの手にもミカンの袋があった。
ミカン農家の娘は広報活動も担っているらしい。
かたくなな返品お断りの態度に諦め、俺は仕方なくミカンを持ってオフィスに戻ることにした。


エレベーターの前で二人とは別れた。
二人は下へ、俺は上へ。


狼のくせに優しい笑顔を浮かべた忍足に、子羊の行き先を思う。
食われようが何しようが俺の知ったことじゃないが、できることなら傷ついては欲しくない。


だから別れ際、女に気付かれないよう忍足に言った。



「遊べるタイプじゃないぞ?」
「分かってる」



忍足がメガネの奥でウィンクした。
お節介もここまでだ。あとは女が選ぶこと。



社長室に戻るとソファーに紙袋を置いて、さっそく報告書に目を通す。
近付いてきた秘書が周囲を見回してから俺に訊いてきた。



「なんでしょう。柑橘系の香りがしますね」
「ん?ああ、ミカンだろ」



そんなに香りが残っているのかと、自分の袖口を匂う。
すると爽やかな橙色を思い出させる香りが、やっぱり残っていた。



「ミカン・・・ですか?」
「その紙袋の中にある。好きなだけ持っていけ。ついでに上着をかけておいてくれないか」



はぁ、と秘書が変な顔をしている。



「なんだ?」
「いえ、社長とミカンがあまりにも不釣り合いに思えまして」


「俺もそう思う。まぁ、わりと美味かったがな」
「そうですか。では、まだ残っている者たちに配りましょうか」


「ああ、そうしてやってくれ」
「社長は?」



秘書が紙袋から上着を出しながら訊いてきた。
俺は肩をすくめると首を横に振る。


もうこの匂いだけで十分だった。





遅くになって忍足からメールが来た。



『ミカン剥きは上達したか?』という、ふざけた件名だ。



やっと戻ったマンションで、シャワーを浴びた後の寛いだ時間。
ゆったりとソファにもたれて、内容を確認する。


なにかと思えば、仕事が終わったら電話をしてほしいというものだった。
この時間に俺と話そうとするぐらいなのだから、女とは別れて帰ってきたらしい。


もうすっかりミカンの香りは消え、いつものボディソープの香りに包まれた手で携帯を握る。



『お疲れさん』



三回目のコールで出た、のんきな忍足の声。



「なんだ?」


『この前の花束代、払うの忘れてたなぁと思い出して』
「はぁ?払う気あったのかよ。いつもの踏み倒しかと思ったぜ」


『ほな、もうええか。なんや、お前の株ばかっり上がってるみたいやしぃ』
「なんだそりゃ」



いい歳をした男が拗ねたような声を出しても気色が悪いだけだ。
俺は笑いを抑えて、冷えたワインに口をつける。



『俺なぁ、今日のこと確信した。あのコ、俺には無理や』
「ミカン農家の娘か。まぁな、お前と付き合える感じの女じゃねぇな」



軽く言ってやったが、電話の向こうで忍足が溜息をつくのが分かった。



『あのコ、人を疑うことも知らへんのや。ただ、真っ直なんが恐ろしい
 年が離れてるってせいもあるやろうけど、口説くのも申し訳ない気持ちになるって言うか
 手を出すんなら、こっちも本気で向かわんとと思うたら・・・怖なってな』


「怖い?ミカン農家の婿にと強要されるとか、か?」
『ミカン農家はお兄さん夫婦が継いでるそうや。そうやなくて、自分が怖ないか?』


「意味が分からねぇな」


『あまりに無垢で美しいものに手を伸ばすのって怖いやろ?
 眩しすぎると目を逸らしたくなるって言うか、ここでハマったら自分はどうなるんやろうとか』



忍足は時々こんなことを言いだす。
へらへらしているようで頭のいい奴だから、いろんなことを深く見ていて驚かされることが今までもあった。



『光りを恐れる影のような気持ちや』
「えらく哲学的だな」


『そうか?お前になら理解してもらえるような気がしてるんやけど』



つまりは住む世界と生き方が違う。
俺たちの周囲にいるような、人の顔色を見て損得勘定ばかりをしている人間ではない。
騙し騙されて、笑顔の裏にある感情を探りあうような・・・そんな世界にはいない人間だ。



『ま、俺は友達で十分や。あとは跡部の気持ち次第ということで』
「なんで俺が出てくるんだ?」


『なんとなく。ほな、失恋したんで花束代はナシということで。おやすみ』
「は?コラ、忍足!!」



言いたいことだけ言って、忍足は電話を切った。
別に花代など欲しくはないが、こうやって俺を使う根性が気にいらない。
奴は奴で『中学から跡部のフォローをしまくってきたんやから、これぐらい安いもんや』と言うのだろうが。


俺は片手で携帯を閉じるとソファーの上に放り投げた。
その手でリモコンを操作し、お気に入りのオペラを流す。


一日の中で、やっと得た自分の時間。
香りのよいワインを口にしながら、ミカン農家の婿になった忍足の姿を想像して笑う。



まぁ、賢明な判断だな。



次々と女と付き合っては上手く別れてきた忍足の手に、あの女が落ちなかったことに少しだけ安堵した。




















キリリク『100万回でも好きだと言おう7』  

2009/02/02




















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