100万回でも好きだと言おう 8
クローゼットにクリーニングしたての上着を仕舞おうとして手を止めた。
おそるおそる鼻先を近付けて、口元を緩める。
よかった。ラーメンの匂いはしない。
僅かに残っているのはミカンの香りだった。
再び女と出会ったのは翌週のこと。
気温が急激に下がった夜だった。
取引先のパーティーに出席したのだが、ある程度の挨拶がすめば用はない。
着飾った女たちの視線も煩わしくて、予定より早くに会場を後にした。
「たまには早くご自宅に戻って休まれては?」
「そうだな・・・いや、もう少し先で降ろしてくれ」
車窓を流れる景色に思いついた場所があった。
運転手の開けたドアから車を降りれば、先まわりした秘書が明日の予定を素早く口にした。
「お前も帰れよ」
「・・・ありがとうございます。お言葉に甘えまして」
微妙な間で頭を下げた秘書に苦笑する。
言ってやらないとオフィスに戻って仕事をするつもりだったのだろう。
よく働いてくれる秘書をねぎらい、俺は一人で歩きだした。
『ラ・カンパネラ』という店の看板を横目に、重い木の扉を押す。
くぐもったピアノの音がして、ガラスが嵌め込まれた扉の向こうに客の姿が見えた。
二枚目の扉を開き、ステージを確認しながらカウンターに向かう。
今日はトリオ。狭いステージにピアノとバイオリン、チェロが窮屈そうに並んでいる。
それでも若い演奏家たちの音は大らかに店内を満たしていた。
「ああ、花束の・・・いらっしゃいませ」
カウンターの主人に声を掛けられ、少し驚いた。
客商売とはいえ、細かなことまで覚えているもんだと感心する。
俺はとりあえずコートを脱ぐと適当なグラスビールを頼み腰を落ち着けた。
当たり前だが女の姿はない。
別に会いたかったわけではないし、会えるとも思っていない。
ただ近くをたまたま通って、この店を思い出しただけだ。
早く帰ったところで何が待っているわけもない。
独りの時間を欲しがるくせに、いざ時間ができると独りを嫌う。
ここは酒があって、音楽があって、煩わしい人間がいない。
それでいて独りじゃないのが心地いい。
思いつきにしては良い寄り道だった。
一時間程を過ごして店を出た俺は考えた。
残りの時間をどうするか。
あとくされなく付き合える女が何人かいる。
今夜は誰にしようか。
女たちの顔を思い浮かべながら大通りに出るための角を曲った。
「跡部さん!?」
突然に名前を呼ばれて顔をあげる。
そこには、大きなカバンを肩にかけたマスク姿の女がいた。
手にはコンビニの袋を提げ、絵に描いたような庶民的な女の姿だ。
嫌なところで会っちまった、と思った。
これから遊べる女のところへ行こうとしているのに、よりによってコイツかと。
なのに女は嬉しそうに手を振って、バタバタと靴音をたてて走ってくる。
このまま回り右をするわけにもいかず、俺はコートの中で握った携帯を手放した。
「本当に跡部さんだ!すごい偶然!!ここ、会社でもないのにね」
俺の前まで走ってきた女は、マスクを顎にずらすと興奮気味に喋り出した。
その勢いは街で俺を見つけた時のジローのようだ。
女の吐く息は白く、忙しない。
「例の店に行ってたんだ」
親指で店のある方向を指せば、女が目を丸くした。
「私に会いに?」
大真面目で訊いてくるから呆気にとられる。
「まさか。近くを通りがかったから、一杯飲みに行っただけだ」
声色にも呆れをのせて言えば、女は「なんだぁ」と僅かに口を尖らせた。
なんだとは、なんだ。
子供が残念がるみたいなストレートな感情表現に戸惑う。
「ひとりで?」
「ああ。仕事の帰りだったからな」
窺うように俺の背後を気にした女が、俺の答えを訊いて提げていたコンビニの袋を顔の前にあげた。
「じゃあ、一緒に肉まん食べません?」
女は顎にマスクをしたまま、満面の笑みで俺を誘った。
夜の公園は寒い。
今頃は女の肌に触れているはずだったのが、俺の手にあるのは肉まん。
自分でも笑うしかない。
「肉まんって、どうしてこう惹かれるんでしょうね」
「さぁな」
「レジの隣にあるから目につくんですよね。つい食べたくなっちゃって」
「それが狙いだろ」
「なるほど。まっ、とにかく食べましょう。いただきま〜す」
断って車を拾えば良かったと悔やんでも後の祭りだ。
実は店で演奏していた友人のために買った肉まんだという。
それを俺に食わせてしまう行き当たりばったりな行動に付き合わされてしまった。
女は大口を開けて、勢いよく肉まんに食いついた。
熱っと呟きながらも、白い息を吐きながら口を動かす女は幸せそうだ。
そう腹は空いていなかったが、隣でえらく美味そうに食べる女を見ていたら食う気にもなる。
こんなものを食べたのは、いつ以来だろう。
懐かしいテニス部の仲間を思い出しながら肉まんに食いつく。
すぐに温かさが口の中に広がり、俺の白い息と肉まんから昇る湯気が一つになった。
「うわっ、マスク外すの忘れてた」
顎にしたままのマスクを忘れていたとは、色気がなさすぎる。
手を出そうと思った忍足に気がしれないと思いつつ、横目で女を観察した。
色が白いから、黒く長い睫毛が映える。
だが・・・丸顔のうえに目は丸いし、鼻は低いで、童顔だ。
大学を卒業したてらしいが、高校生といっても不思議ではない。
既に二十代を終えた俺には『女』というより、『少女』のように見える。
「なんですか?」
俺の視線に気付いた女が、マスクをポケットに突っ込んで聞いてきた。
女の瞳は澄んでいて、冗談抜きで飼い犬の黒い瞳を思い起こさせる。
それが可笑しくて、俺は少しだけ笑った。
「な、なんか顔についてます?」
「いや」
「じゃ、なんで笑うの?どっかヘン?」
「なんでもない」
「もうっ。いっつも笑うんだから」
女が頬を膨らませた。
そうだったか?そういえば・・・コイツの前では笑っていることが多いかもしれない。
面倒な『しがらみ』からは遠い人間。
だから、この女の前では何も考えなくていい。
「とにかく冷めないうちに早く食べて下さいよ。あと、人のことをジロジロ見ないでください。緊張します」
「豪快に食うもんだから、ついな」
「肉まんは豪快に食べるもんです。ほら、跡部さんもガブッと」
「お前と違って俺は育ちがいいんだ」
「肉まん食べるのに育ちなんか関係ないです。男らしく、はい」
掛け声をかけて、ジッと俺を見てくる女に眉をあげつつも口を開けた。
中学の頃だったか『ハンバーカーは男らしくガブッといくもんだ』と宍戸に説教されたことを思い出す。
俺が勢いよく肉まんをかじると、女は声をあげて手を叩いた。
なにがそんなに楽しいんだか。だが、宍戸とジローが手を叩いて喜んだ笑顔にとても似ていた。
「これで奢るの二度目ですね」
「そうだったか?俺はラーメンを奢ったぜ」
「その節は御馳走様でした。でも奢った回数は私の方が多いです」
「・・・何が言いたい」
「お返しを期待しています」
悪戯っぽい笑顔を浮かべた女。
断っても不都合はない相手。だが俺は断らなかった。
気まぐれといえば、それまで。
ねだっているのに邪気が感じられなくて、断る気にならなかった。
俺たちは、この夜にメルアドを交換する。
見せられた女の待ち受けは、俺が贈ったガーベラの花束だった。
初めて友達以外から貰った花が嬉しくて、ずっと残るよう写真に撮ったのだと言う。
「つまんねぇメールや電話はしてくんなよ。そうだな。待てだ、待て」
「マテ?」
「犬と同じだ。俺がヨシというまで勝手にメールしてくんなよ」
「え〜、そんなのつまらないです」
馴れ馴れしくされても後々面倒だと予防線を張った。
女は拗ねたことを言いながらも、俺のアドレスを見つめて頬をゆるめている。
「なにニヤニヤしてるんだ?変なこと企んでないだろうな」
「違いますよ。なんかドキドキして」
「はぁ?」
女は携帯を広げたまま自分の口元を隠すと、恥ずかしそうに俺を見た。
「嬉しい。待ってますね」
はにかんだように笑うと細い指で大事そうに携帯を閉じる。
その仕草がやけに可愛らしく見えて、妹でもいたらこんなふうなのだろうかと思った。
「期待せずに待ってるんだな」
そう言って、俺は肉まんが包まれていた紙を公園のゴミ箱に捨てる。
鉄網で作られたゴミ箱は外灯に照らされて白く浮かび上がり、その向こうで笑ってる女も白かった。
なのに頬だけは桜色なのが分かって、それもまた可愛らしく見えた夜だった。
女は何度も何度も振り返り、大げさに手を振って友人の待つ店の方へと消えていく。
俺はポケットに手を突っ込んだまま、女が角を曲がるまで見送ってやった。
空は藍色。僅かに輝く星が一つ。
胃袋は適度に満たされて、さっきまであった孤独感は消えていた。
「帰るか」
今から女の元へ行くのも面倒になって、俺は自宅に戻ることにした。
タバコを出そうとして、ふと触れた携帯。
と、そこで突然に携帯が震える。
誰だと確認すれば、思わず笑いが漏れた。
「まったく。駄犬だな」
それは数分前に別れた女から。
『待てと言われたけど、これだけは(明日から待ちます!)
今夜は会えて本当に嬉しかったでデス
なぜだか跡部さんに会いたいと思っていたから
お金は粗末にするし、ミカンも剥けない人だと思うと
ほうっておけない気になるんだと思います
とにかくお返しを楽しみにしていますから、ヨロシク
気をつけて帰って下さい。おやすみなさい』
放っておけないのは、どっちなんだ。
直ぐに都会の悪い男に騙されそうな女だ。
返信はせずに携帯を閉じる。
見上げた夜空の雲が晴れ、輝く星は二つになっていた。
100万回でも好きだと言おう 8
2009/02/11
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