100万回でも好きだと言おう 9












女は芝生まみれになって犬と遊んでいる。
俺は軽いリードを握ったまま、空に向ってタバコの煙を吐いた。



『今から出てこれるか?』



連絡先を聞いておいて二週間以上も放っておいた。
そんな俺からの唐突な呼び出しに、女は明るく『待ってました』と弾むように答えた。





実家に呼ばれた、日曜日の朝。
同じ都内に在りながら、もう三か月近く戻っていない家だ。
両親は国内外を飛び回って留守がちだし、会社から遠い実家よりはマンションの方が便利だ。
そんなこんなで年々足が遠のくようになっている。



久々に無駄に広い玄関に立つと、昔から遣えている者たちが並んで出迎えてくれた。
その後ろには、行儀よく座ってはいるものの主の来訪が嬉しくて堪らないという目をした愛犬がいる。



「アル」



愛称で呼んでやると、アルは待ちきれなかったように飛んできた。
離れて暮らしていても俺のことを忘れない可愛い奴だ。
黒くしなやかな体を撫でてやると、ずっと寂しかったのだと訴えるように俺の顔を舐めてきた。
唯一俺を実家に繋ぎとめるのは、仔犬の頃から育てた愛犬ぐらいかもしれない。



「わかった、わかった。あとで散歩に連れて行ってやるから、落ち着け」



そう言って宥めてやっていると、奥から呼ばれた。
せっかちな父親に溜息をつき、俺はアルの頭を撫でて歩きだす。
気が重かった。こうやって呼び出される時は、ろくなことがないからだ。



そして一時間もしないうちに、俺はポルシェに愛犬を乗せて実家を出ていた。
助手席でおとなしく座っているアルが俺の表情を窺っているのが分かる。
犬にまで分かる不機嫌さでハンドルを握る俺に、どこか行き先があるわけでもなかった。



「お前・・・どこに行きたい?」



訊いてもアルに答えられるはずがない。
それでも俺と出掛けられるのが嬉しいらしく、形の良い尻尾がパタパタと左右に揺れている。



「たまには自由に走りたいか?」



あんな息の詰まる家で、使用人に世話をされているんだ。
犬でも嫌になっちまうだろう。


もう立派な成犬で俺の年齢も追い越してしまったんだろうが、もともとがやんちゃな性格だ。
きちんと躾けたから利口だが、遊ぶのも大好きなことを俺は知っている。


信号待ちでアルの頭を撫でたら、真っ黒の瞳をクルクルさせて俺を見ていた。
遊んでくれるの?と期待をイッパイに浮かべた瞳。


それで思い出したんだ。
同じ瞳をした女のことを。





ドッグランのできる広い公園に女の笑い声が響く。
はじめは人見知りしたアルも段々と調子に乗ってきて、
今では女を同じ犬だと思っているんじゃないかと疑うほどの馴れ様だ。
子供のようにもつれ合って芝生の上をゴロゴロと転がる姿は見ていて呆れるほどだ。


俺は指にはさんだタバコの煙を目で追った。
テニスを続けていたこともあって、あまり多くは吸わない。
たいして美味いとも思わないが、タバコから立ち昇る煙りを見るのは好きだ。
ゆらゆらと揺れる煙りを見ていると昂った気持ちが落ち着く気がする。





『お前の結婚相手を決めた。式は来年の秋だ。いいな』
『突然ですね・・・どこのどなたですか?』


『教えてやってくれ』



父親は後ろに立つ秘書に言った。
結婚相手の情報が無表情な秘書の口から語られる。
ありがたいことに最後には『これがお相手の資料です』と写真つきのファイルまで渡された。



『春には婚約を発表する。それまでに一度ぐらいは会っておけ』
『あまり好みの顔じゃないですが』



見たままの感想を述べると、父親が鼻を鳴らした。



『バックは一流だ。お前にとって損はない。もちろん跡部の家にとってもな
 用は済んだ。あとのことは澁谷に頼んである』



秘書が恭しく頭を下げた。


俺の価値は、こんなものなのだと思った。





「跡部さん」
「ああ?」



父親との遣り取りを思い出していると名前を呼ばれた。
見ると頭の上から足の先まで芝生にまみれた女が立っている。
その隣には美しい体毛を同じように芝生まみれにした愛犬の姿。



「なんて格好だ」



俺が呟くと、ああと言って女が芝生を払う。
すると風にのって芝生が飛んできた。



「やめろ、芝生が飛んでくるだろうが」
「こんなの掃えば平気です。それよりそんなとこで寛いでないで、一緒に遊びましょう?」


「嫌だ。服が汚れる」
「あんなこと言ってる。やだねぇ、アル。一緒に遊びたいよねぇ?」



視線を合わせて女が話しかけると、その通りとでも言うように短くアルが吠えた。



「犬と同化してんじゃねぇよ」
「アル〜、一緒にご主人さまと遊んでもらおう?」



どこででも吠えないように躾けてあるのに、アルは元気よく返事した。
あっ・・・と思った時には女に腕を引っ張られ、足にはアルがしがみつく。
当然のことながら俺の服は一瞬で芝生にまみれた。



「鬼ごっこしましょう。アルが鬼ね
 ハイ、待て。いいって言うまで待つのよ。ほら、跡部さん逃げますよ」


「お前、なに言って」


「ランチを賭けましょう。アルに捕まった方が奢る。勝負です!」



逃がさないとでもいう様に、女が俺の腕をガッシリ掴んで言う。
見上げてくる瞳が期待に満ちていて、足元で待っているアルの瞳も同じだった。
同じ瞳に見つめられ、俺は笑うしかない。
それに勝負を持ちかけられて断ったことなどない俺だ。



「しかたねぇな。十五数えたら、ゴーだ」



女が闘志をみなぎらせて頷く。
俺たちは左右に分かれて走り出した。



合図と共にアルが駆け出す。
最初からフルスピードの張り切りようだ。
頭のいいアルは、まずは捕まえやすそうな女をターゲットにしたらしい。
きゃあきゃあと悲鳴をあげながら、女は全速力で逃げまくった。
その姿が滑稽で笑わずにはいられない。


小さくなる二つの影を笑いながら眺めていたら、女が思いもしない行動に出た。
追い詰められた女は公園のベンチに上がり、
そこから脇にある木に足をかけたと思った時には素早く幹に体を乗り移らせていた。


その鮮やかな技術には驚いたが、いい歳をした女が犬に追いかけられて木登りしている姿は笑える。
腹を抱えて笑っていたら、木の上の女が俺の方をアルに指差していた。


ハッとしたように俺を振り返ったアル。
不味いと思った時には、俺に向かって全速力で駆けてくるアルの姿があった。



走った。


久しぶりに胸一杯に空気を吸い、風を感じた。
アルも息を切らせ、俺も息が切れる。
後ろで女がゲラゲラと大きな声で笑う。


芝生が舞いあがり、懐かしい土の匂いがした。





「卑怯者!!」
「何がだ?人聞きの悪いことを言うな。なぁ、アル?」



俺は地べたに腰を下ろし、膝の間に顔を埋めたアルの頭を撫でてやる。
何度かアルに捕まりそうになった俺だが、その度に『待て』と命令した。
そして女に向って『ゴー』を出してやった。


俺はアルの主人なのだから、当然の如く言うことを聞く。
それを女は『卑怯』だと拗ねていた。



「昼飯は何にしようか。寿司でも食うか」



俺が呟くと顔色を変えた女が首を横に振った。



「ちょ、ちょっと待ってて」
「なんだ逃げるのか?」


「ト、トイレ休憩よ」



女は色気のない言葉を残し、あたふたと公園を出ていく。
それを寂しそうに見送っているアルに気付いた。



「すぐに戻ってくるさ」



そう囁いて背中を撫でてやると、アルは安心したように頭を預けて目を閉じた。



忍足が女のことを『元気ちゃん』と呼んでいた。
その意味が分かった気がする。


思いっきり遊んで満足したらしいアルの頭を撫でながら、俺は騒がしく戻ってくるだろう女を待った。



見上げた空に浮かぶ雲が、ゆっくりと流れていく。



ふと、思った。
こんなにも穏やかな気持ちで、誰かを待っていたことがあっただろうかと。




















100万回でも好きだと言おう 9 

2009/02/12




















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